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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿A】医師 本郷輝明シリーズ > 【寄稿A】〈15〉 第8部 在宅死について 再び考える 《その1》 白梅ケアホーム 本郷輝明
第8部
No.15
在宅死について
再び考える
白梅ケアホーム
本郷輝明
在宅にて看取るということを、終末期を迎えた本人に沿って考えてみたい。
「最期を我が家で迎えたい」という誰もが持っている希望についても 掘り下げて考えてみよう。
1951年と2016年の死亡場所の厚生省統計がある。
終戦後6年経った1951年では自宅死は82.5%で、診療所・病院死は11.7%であったが、65年後の2016年では逆転して自宅死は13%、診療所・病院死は75.8%、施設死は9.2%となっている。
1950年代は地域に根ざした開業医が健在で 住民の健康を把握し、住民も開業医を信頼し、家で老人に何か異変があれば即座に医師が駆けつけた時代であった。自宅での死亡についても住民は納得していた。
現在では、健康状態が急変した場合は救急車を呼ぶことが優先され、救急受け入れ状況が 地域住民の安心となっている。
しかし、救急以外の場合、例えば がんに罹患し進行した場合や、回復不能な疾患で徐々に進行し 終末期を迎えた場合、さらに高齢で食事の摂取ができなくなった場合などは、衰弱し 死を迎えることになるが、その際には 介護・看護している人が状況を把握し、在宅担当医がその状況を支えることになる。
現在の超高齢社会では このような「地域で支える」状況がますます多くなるだろう。
「どこで終末期を迎えるか」は 本人と家族が考え 判断しておき、「いよいよ その時が来た」と考えた時は 地域の居宅ケア・マネージャー(ケアマネ)や介護・看護ステーション、地域担当医と相談しておく必要がある。
その1 : 高齢者を在宅で看取るということ(TIさんの経験)
高齢者を在宅で看取る一例を 最近経験した。
86歳の男性TIさんが終末期を迎えるにあたって、奥さんは在宅での看取りを選んだ。
コロナ禍において 自宅で亡くなることの意義 について考えてみたい。
なお、TIさんの在宅での終末期についての記載と老成学研究所HPへの掲載は TIさんの奥さんから承諾を得ている。
TIさんは71歳の時に脳出血を起こしたが、その時は後遺症なく治癒し車の運転もできていた。
84歳の時(2年前)に脳梗塞を起こし左片麻痺と構音障害を生じ、リハビリ後我々の施設に入所した。入所後のリハビリで不安定ながらも一人で歩行ができ、意思疎通もなんとかでき、笑顔で返事もしていたので入所2ヶ月で在宅復帰を果たした。
その後次第に症状が進行し、不安行動が増し次第に歩行もできなくなり、在宅での療養を諦め在宅期間3ヶ月で老健に再入所してきた。
再入所後しばらくは話しかければ首を振り笑顏を見せ、手を握れば握り返していたが、この1年で徐々に活動性が低下してきた。
そしてさらに半年後には症状が進行し、自力での経口摂取はできなくなり全介助状態となり、食事も介助者がスプーンを口に持っていってやっと飲み込める状態となった。
その状態が3ヶ月続いた後、飲み込みもできなくなった。とろみをつけたお茶ゼリーによる水分補給もできなくなり、今後どうするかをTIさんの奥さんと相談した。
鼻から胃までのチューブ(NGチューブ)を入れるか、あるいは胃瘻を造設して栄養を補給するか、中心静脈栄養(CVライン)による強制栄養を行うか。あるいは経口からの食事が取れなくなった時点でTIさんの寿命が来たと考えるか。
TIさんの奥さんに状況をお話しし、判断をお願いしたところ、奥さんは 以前から何度も夫と話をしていて、食べられなくなったら強制栄養は行わず 最後は家で看取ると決心をしていた。
状況を話すと 即座に「家に連れて帰りたい」と希望された。
コロナ禍でこの1年間 子供や孫ともほとんど交流がなかったので、最期は家で子供たちや孫たちにしっかり会わせたい との願いがあった。
そこで 連休前に帰れるように 準備をした。
老健から在宅復帰をする場合は、ケアの状況を地域の居宅ケアマネに引き継ぎ、居宅ケアマネを通して必要な物品をレンタルしてもらい、さらに訪問看護・介護ステーションと地域訪問医師へ看護・介護と診療を引き継いでもらうことになる。
今回は 特に連休中に最期を迎える可能性が高かったので、連休中も 訪問診療・訪問看護ができるところを探す必要があった。何件か当たった中で 幸い引き継ぐ事業者が見つかり、退所した日に訪問してもらえる手はずを整えた。
さらに退所日までに、床ずれ防止エアーマットとベッドと吸引機を TIさんの家に至急搬入してもらった。
連休前日の退所日に、リクライニング車椅子にTIさんを乗せ、介護長・看護師長・社会福祉士(相談員)・ケアマネ・医師の5人で 老健の送迎車で TIさんを家まで送った。
当日は 幸い晴れていて、ご自宅の庭まで送迎車を入れ、リクライニング車椅子に横たわったTIさんを 芝生の庭を通りぬけ 縁側先につけた。
そこには 鉢植えの花たちが出迎えていた。
そこからは、二人で抱きかかえて部屋のベッドまでお連れした。
家では 奥さんが笑顔で待っていた。
ベッドに臥床した後、ケアマネと相談員は在宅復帰後の手続きについて、介護長は 寝返りやおむつ交換の手順や簡単な清拭方法について 奥さんに再確認し、看護師長は 吸引の仕方などを説明した。
45年間住み慣れた家に 夫が帰ってこれたことを 奥さんは心から喜んだ。
「主人は優しい性格で、おとなしく いつも笑顔だった。怒ったことはなく、喧嘩もなかった。結婚して56年喧嘩したことはなかったですよ!
子供二人をよく可愛がってくれたし、この家で子供たちは育っていったのよ。
幸せな56年だったわ。
孫たちは遠くに住んでいるので、この連休中には戻って会いに来る と言っていたわ。」
と 奥さんは笑顔で語ってくれた。
「夫が終末期を迎えるという状況下でも、奥さんの口から『幸せな56年間だった』という言葉が出てくるなんて、すごい!」 とスタッフ5人は感激の声を上げ、在宅復帰を成し遂げてよかった と顔を見合わせた。
その日の午後に 訪問看護師・在宅担当医師が訪問し、点滴を開始した。
それから2週間後、家で過ごし 静かに息を引き取った との報告を訪問看護ステーションから受けとった。
報告書には、奥さんや息子たちの声にゆっくりと目を開け(笑顔らしき)表情を見せたと記載してあった。
TIさんが亡くなってから1ヶ月半経て、奥さんから在宅での状況について お聞きした。
在宅復帰したのは連休直前だったので TIさんの帰宅後すぐに 長男夫婦が駆けつけ、さらに 次男夫婦や遠方にいる孫の大学生まで会いに帰ってくれた。
在宅復帰した数日は 呼びかけに反応し目を開けたりしたが、その後は 体力が落ち 反応は少なくなった。
点滴は亡くなる最後まで続け、経口からの摂取は全くできなかった。
毎日2回ヘルパーさんや訪問看護の人がきてくれ、連携もよくとても安心できた。奥さんの負担は全くなかった。
亡くなるその日は 朝から呼吸が荒くなり、最後は 大きな呼吸をして その後 息が止まった。
主人を見送った と心の底から感じた とおっしゃっていた。
奥さんは 色々な思い出を 語ってくれた。
TIさんが最期を迎えた自宅の土地は 45年前に浜松市からの分譲地抽選で 最後の最後に当たり 飛び上がって喜んだこと、
その後 そこに家を立て 小学2年と5年の息子たちと引っ越してきたこと、
庭に芝生を植え、芝生の周囲には低木を十数本植えたこと、
庭の芝生では TIさんと子供達がよく遊んだこと、
さらに この家で子供達が育っていったこと、
洋品店に勤めていた主人が 定年退職後は、夫婦で旅行をしたこと、
写真好きな主人は よく風景写真を撮っていたこと
など…。
奥さんからTIさんのお話をお聞きして、最期を家で看取るという決心をされた中に、TIさんの 人生の歩みの姿勢 が見て取れた。
TIさんの 人生に対する(そして人に対しての)優しさの姿勢 が、寝たきりになっても 最期は45年間過ごした家で 奥さんに看取られて旅立つことができた 大きな要因だと思う。
TIさんに ふさわしい最期 だった。
人は 祝福されながら生まれてくるのと同じように、
亡くなる時も 親しい人に見守られながら 安心して最期を終えたい
と願っている。
しかし、亡くなる時に 周りの人から「ありがとう」と言われるようになるにはそれなりの努力が必要である。
子供にも、奥さんに対しても、あるいは周りの人に対しても衝突を起こしていると、本人は孤立し、見守りたいという人は離れていってしまう。子供にも、夫(妻)にも、そして周囲の人にも、共に歩む努力する必要があるだろう。
この「優しさの絆を作り、共に歩む努力」が 我々は少ないのではないか と感じる。
頑固で命令的な姿勢から自由になり、優しさの絆を作る努力が 必要である。
(編集:前澤 祐貴子)
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