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【老成学事始】Ⅹ 差別世界の中のエイジズム
初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) | 2021.09.03

©︎Y.Maezawa

【老成学事始】 Ⅹ

差別世界の中のエイジズム


死のおそれと文化の創造

〜 差別世界の根本構造 〜

森下 直貴

©︎Y.Maezawa

はじめに:エイジズムから差別一般へ


米国における差別の代表は人種差別と女性差別である。図式的になるが、人種差別は1960年代に政治の争点になり、女性差別は1970年代に社会問題の焦点となった。そして1980年代に新たに議論の中心となったのがエイジズムである。「エイジズム」は1968年、米国の老年学者のロバート・N・バトラーが導入した新語である。用語そのものは年齢を理由とした差別一般を指すが、バトラーはそれを特に老齢を理由とする老人層の類型的な差別に限定して用いた。そして1975年、彼はエイジズムに対抗して名著『Why Survive?』を書いた(邦訳名『老後はなぜ悲劇なのか?』1991年)。

その後の1990年、1980年代の議論を受けて社会学者のアードマン・R・パルモアは、否定的偏見だけでなく肯定的な偏見まで含めてエイジズムを捉え直した(邦訳名『エイジズム 優遇と偏見・差別』奥山・秋葉・片多・松村訳、法政大学出版局、1995年)。それ以降、エイジズムという用語は専門分野を超えて一般にも広がったが、日本では「老人問題」は論じられても、老人差別が人種差別や女性差別と並べて論じられることはほとんどない。そのため「エイジズム」の認知度は相変わらず低い。


私は2020年、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか』(佐野誠との共著、中央公論新社)の中で、安楽死問題に絡めてエイジズムを「能力差別」の一つとして捉え、それを乗り越えるための思想を「コミュニケーション」のうちに探った。さらに、D・キャラハンの老人医療制限の提言を論じる中で、エイジズムに対抗する二つ目の思想を「世代」概念のうちに見出し、これとコミュニケーションの思想を結合することによって老いの価値と老人の役割を明確にしてみた(「老成学事始Ⅸ」)。


しかしながら、老人差別に関する私のこれまでの議論は能力主義の文脈に限定されている。能力差別は差別世界の中の一部であり、差別世界の全体の中に能力差別を位置づけない限り、老人差別の特殊性は浮かび上がらない。そこで今回、エイジズムから差別一般へと視点を拡大し、差別世界の根本構造を把握する中で、老人差別に対抗する二つの思想が他の差別に対しても妥当するかどうかを確かめたいと考える。鍵は差別現象につきまとう「おそれ」の感情である。それを手掛かりとすることからどのような根本構造が浮かび上がるだろうか。


1 差別をめぐる二つの常識


まずは差別の概念を押さえておこう。差別とは、大まかにまとめれば、社会集団の中で優劣や上下の価値づけを行う人々が、特定の徴をもつ別の人々を劣位や下位に置いたり、外部に排除したりして、あたかも自分たちとは異なる下等なものであるかのように扱うことである。差別を構成するのは偏見という知、偏見に伴う感情的な態度、態度が表明された言動である。差別の起点となる偏見は一面的で固定した類型観念であり、否定と肯定の両方を含めた多種多様な偏見が人々の心を充満し、表情となって現われる。さらにその一部は表明され、制度の中に定着する。


今日の日本では私の見るところ差別をめぐって二つの常識がある。


一つはいわば表の常識であり、価値中立的な差異がまずあり、これが価値づけによって差別に転化するため、差別を差異の事実に逆転化することができれば差別は解消すると考える。「偏」見という限り、その前提には「正解」が想定されている。今日、有力な正解の一つが歴史的に獲得されてきた「人権」思想である。この見地から現実の差別をなくすため、法律制定をはじめ、制度改革、啓発運動、教育プログラムなど、様々な取り組みが行われている。


もう一つはいわば裏の常識であり、最初から最後まで差別があり、一つの差別を潰しても別の差別が新たに出現するため、人類が消滅するまでは差別は解消しないと考える。人間の世界では「偏見」を避けられない。なぜなら、人間が自己の関心から環境の情報を選択的に意味づけるからだ。そこに類型化が生じる。関心からの意味づけとは価値づけによる分割であり、分割によってこちら側と向こう側のあいだに価値の落差が作られる。意味づけることが価値づけることである限り、人間の意味世界はどこまでも差別の世界なのである。


現代人の心や態度や言動では表と裏の二つの常識が交錯し、葛藤している。その際、差別という言葉で人々は同一の内容を想定しているのだろうか。実際に存在するのは様々な差別である。差別世界を掘り下げて捉えるためには差別の違いを押さえておく必要がある。


2 多様な差別に共通するもの


差別世界は私の見地(『システム倫理学的思考』)では以下の四群に区別できる。


⑴ 生産と再生産の観点からの能力差別。生産の観点では老人や障害者の差別が生じる。また、生産の力では劣るが、再生産には絶対不可欠な女性に関しても差別が生じる。

⑵ 性的な現象や欲望の観点からの性差別。ここでは同性愛者やその他の性的マイノリティの差別が生じる。なお、女性差別はこの意味での性差別とも重なる。

⑶ 人種や、民族、身分、職業、生活習慣といった特徴の観点からの異人種差別。この典型が人種差別や、部落差別、宗教差別である。

⑷ 人間中心の観点からの異類差別。典型は動物差別。これは使役・食肉・娯楽・愛玩など多方面に渡る。今日ここにAIロボットやサイボーグの差別も加わる。


以上の四群を並べてみると、それらを同列に論じることはできないということが分かる。しかし、それと同時に、深部に視線を向けるなら共通するものも浮かび上がる。


その一つが社会集団の存続(生命)という目的である。この目的から四群を捉え直すときその存在理由と相互連関が明らかになる。すなわち、能力差別、性差別、異人種差別、異類差別はそれぞれ、社会集団を維持する外的な生存条件(エネルギー)、社会集団を担う人々の心の内的条件、社会集団に属する人々を統合する政治条件、社会集団の秩序を正当化する価値条件(イデオロギー)に関わっている。


もう一つは「動物的なもの」に対する否定的な感覚である。能力差別では「痴呆」老人や重度の知的障害者がまるで動物同様とみなされ、性差別では性的欲望が内なる動物性として抑圧され、異人種差別では他者が野蛮な怪物として想像され、異類差別では人間があたかも動物ではないかのごとく特別扱いされる。「動物的なもの」が喚起するのは不潔・汚れ・おぞましさ・けがわらしさ等の感覚であり、これらが四群すべてにつきまとう。


社会集団の存続(生命)が差別世界の前提にあることはそれなりに理解できる。しかし、そこに「動物的なもの」に対する否定的な感覚が結びついているのはなぜか。この結びつきは差別にとって何を意味するのか。差別には「おそれ」の感情がつきまとう。最近では「感染」や「汚染」のおそれに起因する差別も目立っている。以下ではその答えの手がかりを差別現象にともなう「おそれ」の感覚・感情に探ることにする。それにしてもなぜ「おそれ」なのか。


3 おそれの感情


手始めに2020年5月にニューヨーク市のセントラルパークで起こった日常の出来事を取り上げる(その詳細はユーチューブで確認できる)。


・バードウォチィングのための聖域にリードを外した犬と入り込んだ女性が、ベンチに座っていた男性から突如、ここは禁止区域だと注意される。その声に驚いた女性は少しムッとしながらも事態を悟り、犬にリードをつけようとする。

・しかし、ビデオを撮られていることに気を取られてうまくいかない。そこで男性の方に近づきながらビデオ撮影をやめるように叫ぶが、男性の方はそれ以上近づかないようにと言ってビデオを撮り続ける。

・興奮した女性は片手で犬を抑えたり引っ張り上げたりしながら乱暴にリードをつけようとするがうまくいかず、ますますパニックになる。そしてスマホを片手にして警察に通報すると男性に警告する。男性がどうぞお好きに言い返したため、「黒人の男が私を脅している。助けて」と電話する。

・その後の経過はビデオがないため不詳であるが、たぶん警察官が来て互いの言い分を聞き、そのまま終了した模様。後日、男性の姉妹が一部始終を撮影したビデオをユーチューブに投稿する。その結果、女性はバッシングを受けて人種差別主義者の烙印を押され、トラブルをおそれた会社から解雇された。


以上が出来事の顛末である。そこには、見知らぬ者に対するおそれ、女性の男性に対するおそれ、白人女性の黒人男性に対するおそれ、会社の評判に対する幹部のおそれが現れている。また、人々の関心が人種差別に集中したためか、無許可のビデオ撮影の是非については話題に上らなかったが、これについては黒人男性の白人社会の特に警察に対する潜在的恐怖が背景にあると考えらえる。ただし、ここに窺われるのは「おそれの」の感情のほんの一例であり、実際にははるかに多彩であろう。


4 死のおそれ


日本倫理学会の共通課題「おそれと差別」の趣旨文や提題報告を読むと、以下のようなおそれが指摘されている(「予稿集」)。


・尋常な知や力を超えるものの不気味さ

・集団の中の自己理解の利得を喪失するおそれ

・被差別者側の暴力的な糾弾に対する怖れ

・異種族の野蛮さ・凶暴さに対する恐ろしさ

・ケガレ(不潔と病原と異種の血)に対するおそれ

・内なる動物性に対する生理的な嫌悪感

・動物の生命に対する畏怖・畏敬


「おそれ」はもとより生き物の単純な反応ではない。社会的・歴史的に形成され、慣習の一部となった複合感情である。しかし、「感染」や「汚染」のおそれに注目するとき、おそれの生物的な根源が浮かび上がる。それが生命の危険に対するおそれ、つまり「死のおそれ」である。不気味さであれ、実存の利得喪失や、暴力、野蛮、ケガレ、嫌悪感、生命への畏怖・畏敬であれ、それらすべての根源に「死のおそれ」がある。

「死のおそれ」は生き物のもつ感情の根源であるが、社会集団もまた存続の危険に直面し、実際に消滅することがある限り、それはまた社会集団のいわば共同感情の根源でもある。「死のおそれ」は個々人と社会集団の両方に通底している。


5 文化の創造と領導・支配する者


文化とは何か。人類の原初期に遡って解釈すると、それは集団が「死のおそれ」を払拭するために創造したものである。人間は死を意味づける中で、物語の内部に取り込んで飼いならしつつ、外部に排除しそこに封じ込める。その外部が「自然」であるなら、「文化」の本質は「文化/自然」という根本差別になる。(もちろん文化は多様であり、その中には自然との差別が目立たないものもあるが、それでも根本差別が土台にあると考えられる)。

「文化/自然」は「呪術」によって遂行される。呪術とは「聖なるもの」を幻想し、これに対する畏怖によって人々を感情的に融合することを通じて、集団の分裂(つまり死)を防止するための仕掛けである。その後、呪術を高度に組織化した古代国家の宗教は、「文化/自然」の根本差別を正当化するため「聖なるもの」を分割し、「秩序/カオス」「善/悪」「清浄/不浄」「聖/俗」等の差別を作り出した。そしてそこから一切の倫理、すなわち、法や慣習やマナーや道徳や理想が派生する。倫理の根源には死のおそれがあり、その根幹は文化による自然の差別である。


ところで、「文化/自然」の根本差別を創造したのは誰か。集団の存続を目的として領導・支配する者(男たち)がその答えである。呪術と宗教と倫理の背後には領導・支配する者(男たち)の視線が見え隠れしている。「文化/自然」を人間自身に適用すると、「人間/動物」「精神/身体」「理性/感性」「男性/女性」等の差別が生じるが、その場合の「人間」は「領導・支配する男(父)」の別名である。


以上を踏まえるなら、あらゆる差別に不潔・汚れ・けがわらしさ・おぞましさ・醜悪さ・血・暴力など、動物性を強く喚起するイメージが付着する理由が見えてくる。それらは「文化」によって厭われ、忌み嫌われた死の徴なのだ。死骸は飼い慣らされることを拒絶する生(なま)の自然である。「痴呆」老人や、障害者、女性、同性愛者、異人種、動物が発散するのは、「領導・支配するもの」の正常な秩序を破壊する危険に満ちた死の匂いなのである。


おわりに:差別に対する向き合い方


差別世界の根底には《死のおそれ、社会集団の存続、領導・支配する男の視線、「文化/自然」の根本差別》からなる構造がある。この根本構造が人間社会の倫理を成り立たせている。その限り、無差別を強調する世界宗教や普遍主義を標榜する倫理学においても根本構造が貫いている。

実際、「文化/自然」の根本差別から「人間/動物」「精神/身体」「理性/感性」「男性/女性」等が生じ、また「秩序/カオス」「善/悪」「清浄/不浄」「聖/俗」等が作られる。そこからさらに「有用/無用」「若さ/老い」「健常/障害」「健全/病」「正常/異常」「純血/混血」等、ありとあらゆる差別が派生し、社会集団の人々を分割している。


そうであるなら、私たちは差別にどのように向き合えばいいのか。おそらく、差別の究極的な解消は不可能だと諦めつつも、差別を正す既存の取り組み(人権アプローチ)であれ、日本倫理学会の共通課題の提題で出された「関係性の再構築による自己変容」や「生命に対する畏敬による人間中心主義の是正」であれ、それらがたとえ対立し合うとしても、とにかく多方面から一つひとつの差別問題に地道に対処していくほかないだろう。

その際、それらの取り組みを束ねて方向づける視点があれば、対立し合うバラバラな取り組みを有機的につなげることができるだろう。これまでの行論を踏まえて言えば、死のおそれを正面から受け止め直し、差別の根本構造をゆるめながら、人々の多様な状態と状況に相応しい価値と役割を探るような視点が考えらえる。この視点をイメージするために老人差別(エイジズム)を取り上げてみよう。


老人差別の根幹は「若さ/老い」である。この差別を克服すると称して、従来の生産性の延長線上で「役に立つこと」を強調したり、その反対にたんなる脆弱さや「できないこと」を前面に押し出したり、反秩序の観点から価値の転倒を夢想したりしても、その根幹は揺るがない。そうではなく、要請されるのはむしろ、老いと死の意味を問い直す中で、コミュニケーションの意味を捉え返し、老いの深まりに応じた価値と役割を見いだすことである。そのとき世代としての責任の観点から老いの価値が見直され、若者世代のために貢献すると同時に、近づいてくる死に準備するという老人の役割が明確になる(以上は「老成学事始Ⅸ」で展開している)。


エイジズム以外の差別ではどのようなイメージになるだろうか。そこではエイジズムに対抗する上記の視点が一つのモデルとなるだろうか。改めて考えてみたい。

©︎Y.Maezawa

(続く)

(編集:前澤 祐貴子)

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