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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿E】演劇研究家 遠藤幸英シリーズ > 【寄稿E】(2) 親子の絆とは 浜松医科大学名誉教授 遠藤幸英
©︎Y.Maezawa
親子の絆とは?
浜松医科大学名誉教授
遠藤幸英
血縁の曖昧さ、擬似家族・擬似親子
血縁や婚姻関係を度外視した家庭・家族というあり方は目新しいことでないことは重々承知しているつもりだ。例えば代理、擬似の関係がそうだ。このテーマは大小の集団の知恵を示すものであったり、社会福祉の一環であったりしてきた。
近頃はそういう擬似性を拡大解釈したコンセプトが市民権を得てきたのだろうか。ネット検索すれば、レンタル家族(4時間2万円?)とかレンタル恋人(3時間1万5千円?)など、レンタル・ビジネス化したことがうかがえる。家族が孕む擬似性をヒントに住宅会社が遊びゴコロ?をまじえて役者が素人とコラボする?実験的企画を提示したりする。
「注文住宅を手がける株式会社リガード(本社:東京都国分寺市、代表取締役:内藤 智明)は、このたび家族との暮らしを疑似体験できる、世界初のモデルファミリー付きモデルハウスに関して、2019年11月17日(日)“家族の日”に行った体験会の模様を収めたドキュメントムービーを本日12月9日よりWEB上(URL:https://tokyo-chumon.com/model-house)で公開いたします。」
そうかと思うと人間の悪魔性が表面化することもある。例えば、「”疑似家族”の闇〜新証言・尼崎事件〜」(NHKクローズアップ現代、2012年11月6日放送)。
血の絆を核にする伝統的家族観の揺らぎ現象を論じて奥田太郎は新たに一つの提言をする。奥田は血縁を核にすると同時に穏やかな和みの場であることを第一義にする家族のあり方を「家族のデフレ戦略」と名づけるが、これは排他的になる危険性があると指摘する。
その懸念を踏まえて現代社会にとって好ましいのはむしろ逆に「インフレ戦略」だという。家族の構成条件を緩やかにすることで息苦しさを避け緩やかに絆を結ぶべきではないかと論じる。*
* 「家族という概念を何が支えているのか ―補完性の原理を経由して」、『社会と倫理』 30号:91~103、2015年。
http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se30/30-09okuda.pdf.
インフレ戦略では、(遠藤補注:血縁性をはじめとする)家族の3つの成立条件のうち、契約性に基づく主意主義的条件と承認性に基づく社会的条件の重みをさらに大きくして、家族なるものの外延を広げることになる。
この戦略の先には、思想・言論 の自由のように、国家権力の圏域を統制する機能をもつ自由としての、「家族選択の自由」へ の要請が現われることになる。この自由が認められれば、婚姻関係や血縁関係以外の関係にある人びとをも家族にする自由が私たちにはある、ということになる。
この戦略を採れば、家族なるものにべっとりとつきまとう血縁性の特権化が大幅に緩和されることになろう。勿論、家族選択の自由には、血縁性を重んじた家族選択を行なう自由も含まれるが、そこではそれはあくまでも一つの選択肢を採用することにすぎない。
家族なるものに負わされ過ぎたものを、家族なるものの外延を大幅に広げることによって軽量化するのが、家族のインフレ戦略である(101-103頁)。
このように家族の定義をめぐっては種々議論が巻き起こっている。
さて日本語としても定着している広義の「ホーム」は暖かさと(多少)怪しさが混在したままのように思える。
ホームといえば、まず「老人ホーム」が浮かんでくる。この場合「ホーム」はすでに擬似的なものである。次にホームといえばもう一つ孤児の養育施設(children’s home)も連想されやすいだろう。
どちらも家庭モドキいやそれ以下だととかく批判されることが多い。しかしその存在意義を全否定することはできない。
第二次大戦直後の日本で「戦争孤児」とよばれたこどもたちを救済しようとエリザベス・サンダーズ・ホームを設立した沢田美喜。彼女の純然たる善意にケチをつける向きもないではないらしいが、実質的に意味深い救済の場として「ホーム」を立ち上げたことの実質的偉大さは賞賛されるべきだろう。
後でとりあげる2本のドラマの片方ではchildren’s home育ちの人物が登場する。一度だけだが、その人物を指してHeimkind (home child)という表現が使われる。この場合Heim/homeはネガティブな意味合いがこもっていてそこで育つこどもが素直でないという暗示がある。
ちなみにhome childrenという言葉は英国の場合黒歴史を背負っている。
19世紀後半、博愛主義者Annie MacPhersonが孤児たちに家庭的な環境を与えようと善意で海外移住計画を立ち上げた。規模を縮小させながらも1970年代まで続行され、延10万人以上のこどもたちがカナダ、オーストラリア、南アフリカなどへ集団移民させられた。だがMacPhersonの意思に反してその実態が強制労働による児童虐待という傾向が強かったことが1980年代になってようやく社会問題化した。その結果英国とオーストラリアは国家元首が正式に謝罪する事態にまでなった。
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さて本題に入ろう。
最近のこと、偶然ドイツの刑事物TVドラマ Tatort (the Crime Scene犯行現場・事件現場)に出くわした。
1970年に放映開始されて現在も継続中というから長寿かつ人気番組だ。日曜日、毎晩8時のニュース Tagesschau(15分間)に続いて90分放映されるとのこと。ドイツの大都市(のちにオーストリアとスイスにも拡大されるが、)を舞台に二人組の刑事による犯罪捜査が描かれる。
私見だが、こういう犯罪ドラマという大枠の中で制作時の社会と人間関係がくっきりと浮き彫りにされる。このシリーズはまだ2本しか見ていないが、ドイツ大都市部に脱法ドラッグが広く蔓延しているという印象を強く受ける。ただし制作放映局(第1ドイツテレビDas Erste)のサイトに寄せられたコメントをのぞくと誇張しすぎという批判的な意見もあるが。
ここでは一昨年(2019年5月と12月)放映された2作Die ewige Welle” (the eternal wave) と”Der gute Weg” (the good way「然るべき道、好ましい進行状況、人に恥じない生き方」をとり上げたい。
無料で視聴可能な作品は数が限られているようである。その選定基準は筆者にはわからない。先の2作およびそのいくつかが現在のところセリフを字幕表示させることができる状態で視聴可能。無料視聴できるのは放映作品の一部とはいえ次々の新作が制作されるので全作品をアーカイブするかどうか予測できない。現在公開されている動画もそのうち別の作品と入れ替わるかもしれない。
両作品とも親子関係が血縁によるとは限らないという大前提がある。より正確にいえば、血縁と魂レベルの絆でなりたつ親子関係が共存している。
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まず“Die ewige Welle”を見よう。
物語の発端は二十代の男女(ドイツ人男FranzとMikesch、オランダ人Frida)がポルトガル西岸のリゾート地でサーフィンのメッカでもあるNazaréで青春の情熱を燃やす場面である。男女関係は自然友愛と性愛が入り混じる。この短い序章は三十数年後のミュンヘンにとって代わられる。
ミケシュは三人が強い絆で結ばれていた束の間の青春時代に夢を語っていた。とりわけサーフィンに熱意を燃やしていた彼は若いサーファーのためにホステルを建てて後輩相手に技術指導をしたいと。
初老を迎えたミケシュだが、かつての夢が100%成就したとはいえないまでも(危ない)仕事の相棒である若いローベルトにサーファーとしての才能を認め熱心に指導する姿が「青春時代」に続く「現在」の場面で描かれる。
ミュンヘン市内にはアイス川 (Eisbach) という前長2キロの人工河川があり一部の区域で波高1メートルになる波を人工的に作りだす仕掛けが施されている。(Eis=iceと命名されていることからも想像がつくように夏でも水温が低い上に流れが早く、さらにゴツゴツした川底が浅く危険なので遊泳は好ましくない川である。)サーファーを楽しませるのが目的だ。
ミケシュは今も現役サーファーでローベルトを育てようと情熱を傾ける姿が印象づけられる。
とはいえ、みずみずしい若さは失われ人生の苦味のある老いを感じはじめる三人であることは否めない。長年月の別離をへて彼らは偶然再会する。
どういう事情か明かされないが、ミケシュとフリーダは長年のミュンヘンに住んでいて互いに相手の物理的便宜を図る一方で私生活には干渉せずに行き来している。他方刑事であるフランツは同じくミュンヘンにいながら残る二人の存在を知らなかった。追う者と追われる者という皮肉な立場で二人を出会わせるある事件が起こるまでは。
その事件というのはミケシュが違法ドラッグ売人であることを知る人物にアイス川から自宅へ帰る途上襲われ腹部をナイフで刺される。一度は病院に収容されるが、警察がこの傷害事件の捜査に乗り出したことを知って病院から脱走。しかも担当刑事の一人が旧友フランツであることに気づいて罪悪と恥辱の意識に駆られたミケシュは必死で雲隠れしようとする。
だが、窮地に追い込まれてもミケシュはまとまった金を入手しなくてはならない事情がある。娘マヤのそのために学資を作らねばならないのだ。
そこで彼はたやすく足が付いてしまう恐れのあるジャンキーではなく、世間的評判に敏感で警戒心の強い芸術家や知識人相手にドラッグを売り込んで大金をせしめる算段なのだ。
病院を無断で抜け出してきたので放置している腹部の傷は悪化する一方だ。それでも彼は高額でも効能の高いドラッグを求めるインテリ金持ちに友人の口利きでなんとか渡をつける。なんと美術館が交渉場所なのだ。10万ユーロで売買が成立する。
ローベルトを相棒にミケシュは物置小屋同然の怪しいミニ製造工場で貼り薬形式の鎮痛剤を原料にそれを煮詰めて濃縮するというなんともいかがわしい製法で高く売れるドラッグを製造する。娘にチェコで医学を学ぶ学費5万ユーロを与え、自分たち二人は残額でスリランカへ高飛びする計画だ。
言い添えると、原料の鎮痛剤はローベルトがバイト先の製薬工場で鎮痛成分の含有量が過剰だとして廃棄されたものを盗み出したのだとフランツ刑事と相棒バティーク刑事の捜査で判明する。
そんな危ない橋を渡るミケシュだが、ようやく瓶詰めが完了してローベルトと二人で買取先へ向かう。だが、その途中予期しない事故に見舞われる。ミケシュは娘に会う約束があるのでローベルトが先に逃亡してくれと言ったのがいけなかった。その言葉がローベルトを逆上させる。ローベルトは心酔する<父親>ミケシュからひと時も離れられないのだ。
その結果ミケシュは運転を誤って人身事故を起こす。ローベルトの死亡というはめになるのだ。とにかく娘のために金を作らなくてはいけないと一人で美術館を訪れるも買い取るはずの相手が警察の動きに不安を感じて取引中止となってしまう。ミケシュは美術館の幹部職員からだまし取った携帯で新たな買い手を探すが、彼のドラッグに目をつけていたギャング団に襲われたりする。
結局 詰めドラッグも割れて売り物にならない。自暴自棄になった彼はそれも捨ててしまう。無一物同然になるミケシュ。宵闇が迫るミュンヘン市内。行くあてもなく市電に飛び乗る。先ほどのギャングの襲撃で顔は血だらけ。腹部の出血も止まらない。死が近いことを悟った彼はフランツに電話かけるが居場所を明かさない。
フランツの側はミケシュが使う携帯の位置情報機能を利用して追跡。終点駅ですでに息絶えたミケシュを発見する。市電の窓越しに不安げな顔つきのマヤが遠景で見える。
友愛と恋愛に恵まれ、サーフィンに熱中した若き日。そういう命の輝きを暗示するかのような『永遠の波』というタイトル。それとは真逆のなんとも悲痛な結末。
だがこのエンディングは皮肉というよりむしろミケシュの死を悼み、また三人の絆の終焉に臨んで奏される鎮魂歌のように思えなくもない。
(繰り返しになるが、)結末近くドラッグ密売の犯罪者として窮地に陥ったミケシュはそぼ降る雨の降る夜中、ほとんど無人の市電に乗って逃亡を図る。治療を中断したままで数日経過した腹部の傷は悪化するばかり。終点に近づくうちに彼は静かに死を迎える。市電の車体がまるで棺桶のようだと思えた。ミケシュは一人ではなかった。最後を看取ったわけではないが、追跡してきたフランツが停止した市電に乗り込み旧友ミケシュの隣に座る。車窓からは遠くに偶然通りかかったのか愛娘マヤの姿がある。まだ学生で自立していないマヤにとって父親の死という現実は重すぎる。父と離婚している母親との関係がうまくいかないマヤ。父の金銭的援助が絶たれた今、彼女の医師になりたいという希望は潰えた。
ドラマはここで終わる。その後をディスっても仕方ない。
しかし無理やりでも明るい将来展望をもつこともありではないか。犯罪行為に手を染めていた父親だが父親なりの愛情を精一杯娘に注いでいたことは確かだ。このことは若いマヤの心の支えになるに違いない。
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ここから先はドラマの範疇を越えるので余談に過ぎないが、マヤにとって医師への道は閉ざされたわけではない。
本国ドイツの医科大学・医学部に進学すれば学費は無料だ(外国人の場合も同じ恩恵にあずかれる)。ただし定員制限規定 (Numerus clausus) が個々に設定されていて希望者全員即入学受け入れとはならない。ギムナジウム卒業試験 (Abitur) で相当優秀な成績あげなくてはならない。
その前提で話をすれば、親の資金援助がなくても「待機期間 (Wartezeit / Wartesemester)」を経て繰り返し応募できる。この期間(5、6年もかかる場合もあるとか)に医療関係の仕事について知識、経験を積むと俄然入学選考で有利になるようだ。
まだ別の方法もある。手っ取り早い方法としては医学専攻希望者対象の適性検査(TMS、HAM-NAT)で好成績をあげればいいのだ。
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話を出発点にもどそう。
親子間の絆は血縁の有無が重大かどうか。
マヤはミケシュの実子だ。それに対してローベルトはミケシュの血縁ではない。にもかかわらずミケシュはこの青年に対してサーフィン教育を通して実の親以上の愛情を注いでいた。
実際ミケシュとローベルトは互いに強い絆を意識していた。ローベルトには生き別れか死に別れか、とにかく両親がいない。擬似の親子にも深い愛は育まれる可能性を示唆している。劇中この若者はミケシュより先に亡くなる。だが、死後の世界でも二人は絆を失っていないと思いたい。
さらにミケシュは死後も娘を暖かく見守っているはずだ。
人と人の絆は血縁が決定要因ではない。要は魂のレベルで繋がりを築けるかどうかということではないかと思われる。
次に親子の絆に関連して(ほんの脇役的な存在だが、)ジョアン (João)というポルトガル人の名前をもつ青年にもふれたい。ここでも親子の絆が必ずしも血縁ではないと暗示されているように思える。
ジョアンはフリーダの息子である。年齢は30代半ばくらいか。彼の父親は自分ではないかとフランツが推測する。
青年の年齢は劇中の「昔」と「今」の時間差にも合致する。
ポルトガルのナザレでくだんの三人の若者たちが親密な関係をもっていた時期にフリーダが身ごもった可能性が高い。フランツの直感に反してミケシュが父親である可能性を打ち消せないだろう。ミケシュは昔通りフリーダと行き来している。彼のジョアンに対する態度には情愛が強く感じられる。
ドラマはジョアンの父親の位置を意図的にミケシュともフランツとも明示しないのだと考えるべきではないか。
親子の絆が血縁に基づかなくとも成立する立場の表明に違いない。
<追記> 字幕表示するには、画面下、中央にある「歯車」など三つのアイコンのうち左端の人形をクリック。するとUT (Untertitel、英語で言えばsubtitles)とAD (Audiodeskription視覚障害者のための場面の音声による解説)が表示されるので左のUTをクリックしてスラッシュがない状態にする。Tatortの各編のあらすじをチェックするにはタイトルと(HandlungないしInhalt)の二項で検索するのが便利。TatortシリーズはWikipediadがよくとりあげている。
<例>https://tatort-fans.de/tatort-folge-1093-der-gute-weg/
蛇足ながら 最近作情報。
ミケシュの娘、医師志望のMayaを演じたAnna Aschenbrenner は主としてドレスデンで舞台女優として活躍している。
前作から一年後今年(2021年)2月放映された同じ刑事物シリーズの一環である“Rettung so nah ”(warmhearted rescue?) に出演。パラメディック役で主役をはっている。彼女の役柄はシングル・マザー、ドラッグ・アディクトだという設定で、複数の同僚が殺害される事件の容疑者扱いも受ける。
7月8日まで原語字幕(UT)付きで視聴可能(最初人形マークをクリックするとAD [場面解説]しか表示されないが、そのアイコンをクリックするとUTアイコンが現れる)。
親子の関係は血縁の有無が絶対条件かどうか。
上述の“Die ewige Welle”では血縁で結ばれた親子(ミケシュとマヤ)と擬似親子(ミケシュとローベルト)の間では利害の衝突が生じなかった。
しかし“Der gute Weg”は真性と擬似の親子関係が共存できない事情が提示される。血縁の絆の強さを打ち出す一方で“Die ewige Welle”に比べて擬似的な親子関係が強い印象を残す。
NinaとRobertという男女の刑事二人組が複数の被害者が出る殺人事件を捜査解決するというのが本筋だが、その背後には親子の絆に血縁関係が不可欠かどうかというほとんど正解のない問いかけが潜む。
親子関係に限ってみてもこのドラマからうかがえるように、親に庇護される子の立場にいる人間は庇護が叶わない場合周囲の大人の中から父親あるいは母親の代理、それも単なる代理というより理想化された存在を見つけ出すことがある。
孤児(あるいはそれに近い)環境で育った登場人物の一人(市街防犯パトロール隊女性警官Sandra)が必死に父親像を求めていて、父親の年代の上司(Harald)に父親の理想像を重ね合わせる。サンドラは任官後10年近くハラルトに率いられるパトロール隊に所属して父性愛に包まれてきた。
またハラルトが妻ベレーナと暮らす家では家族同然の待遇を受ける。彼女のアパートには壁一面に代理父親ハラルトと写ったツーショットが貼られている。サンドラはオンでもオフでも家族のいない寂しさを十分以上に埋め合わせる幸福を享受する。というより必死で家庭を希求する思いの強さを感じさせて他人の目から見ると痛々しくらいだ。
そういう幸運な人生に陰りがさす。
ある時ハラルト率いるパトロール隊がベルリン市内の児童公園で薬物を乱用する若者グループと遭遇する。グループの一人がパトロール隊に向けて銃を発射。それに応戦したのはサンドラだ。相手は即死。サンドラの銃使用が正当であったか調査の結果正当防衛と認められ彼女は罪に問われなかった。
だが、死亡者の青年はハラルトの一人息子モリッツだった。
ハラルトはその後もサンドラを非難することなく共にパトロールを継続するし、それまでと同様に自宅にも招き入れる。
一方彼の妻は正当防衛とはいえ息子を殺されたことにショックを受け、密かにサンドラに対して憎しみを覚える。夫ハラルトに対してもたびたびサンドラに対する敵対感情を漏らす。と同時に彼女を遠ざけるよう夫に無言のプレッシャーをかけるようにもなる。
ハラルトとベレーナの息子が死んで1年になろうとする矢先、今度はサンドラがドラッグ取締まり活動中に射殺される。
この事件は後にニーナとローベルトのコンビ刑事の活躍で真相が判明するのだが、ハラルトが人を使ってサンドラを殺害したのだった。彼女を憎む妻に影響されたハラルトはいつのまにかにかサンドラが息子を殺したことにこだわるようになった。
そこで彼はレバノン人青年ヤクート・ヤバスこと<ドラッグ密売組織の中にいて警察に協力するインフォーマント>をサンドラ殺害に利用する。このインフォーマントに対して組織に身分をばらすぞと脅しておく。
その上で事前の打ち合わせ通り騒音苦情を口実に密売組織のアジトにパトロール隊が踏み込んだ折まずサンドラの心臓付近を至近距離で2発撃たせる。即死。
続いてサンドラが狙いであることをぼかすため仕掛け人ハラルト自身の脚に銃弾を1発。さらに残る見習いパトロール隊員Tolja(ニーナ刑事の長男)にはあらかじめ防弾ベストを着用させて身の安全を確保しておいてインフォーマントには胸部に2発打ち込ませる。その際インフォーマントは銃口を向けたトーリャに対して英語で「Sorry, Tolja」と言い放った上で銃撃2発。
(ちなみにあれやこれやの英語の言い回しがそのままドイツの日常生活に食い込んでいることがドラマ全体からも実感できる。)
この時点では当のインフォーマントは組織に自分が警察の協力者だと発覚するのをひどく恐れていて相手が防弾着着用のことなど知らず本気で殺すつもりであったに違いない。しかしこのあえて英語を使ったことが二人の青年が偶然出会った他人同士ではないのではないかという疑惑を二人組刑事に抱かせ、事件解決の手がかりの一つになる。事実(かつて母親との関係がうまくいかずグレていた)トーリャが告白するように二人は以前ドラッグの売人と買い手同士で親しんでいたのだ。
捜査が進むうち二人組刑事はレバノン人インフォーマントとハラルトの関係を調べはじめる。
そのきっかけは三人の警官に対するこのインフォーマントの発砲の仕方が奇妙だと思えることだった。サンドラとトーリャに対しては致命傷を与えようと2発ずつ胸部を狙ったが、残るハラルトの場合致命傷とはならない脚を撃ったのは理解しがたいことだ。しかも1発だけ。
案の定事件後のハラルトの行動は不可解なことだらけ。一旦傷の手当てのために入院させられるも妻の介抱が望ましいと自宅に逃げ帰る。
そうこうするうち新たな殺人事件が発生する。殺害事件を起こしたくだんのインフォーマントは密売組織の命令で姿をくらます。が数日してとあるゴミ捨て場でその死体が発見される。
既にニーナとローベルトの捜査官コンビはハラルトとインフォーマントの繋がりに気づいていた。事の真相は1年ほどのドラッグ取締まり中の事件で正当防衛とはいえ自分の息子を射殺したサンドラを密かに憎んでいたハラルトがインフォーマントを使って彼女を殺害させたのだと推理した。インフォーマントにすれば自分が組織を裏切っていると露見すれば、抹殺されると思いハラルトの脅しに乗って発砲、射殺行為に及んだのだ。
ところがハラルトをめぐる一連の事件は意外な展開をする。
ニーナとローベルトはハラルトの息子の殺害者は(正当防衛を認められたサンドラではなく)ハラルト自身だという結論に達する。
真相はこうだ。
ハラルトは従来から「人間としてとるべき道、道義、正義」に執着しており、(タイトル“Der gute Weg”にも反映されているように)「人に恥じない生き方」を信条にしているほどだ。そういう頑なな信条をもつ彼にとってベルリンという巨大化した都市はますます悪徳に汚染されていると思えて仕方がない。警察官として悪の浄化に貢献したいという思いが異常なほどに強い。普段パトロール任務に忙殺されていて息子を構ってやる時間がとれなかった。その不満からか思春期を迎えた息子は悪い仲間ができてドラッグにも手を出す。不良グループとの抗争も珍しくないせいで銃器を携帯するようになる。そういう時期に真夜中の照明も乏しい公園でハラルト率いるパトロール隊と彼の息子たちの集団とが遭遇する。悪グループの一人がパトロール隊に向けて発砲。ハラルトは条件反射的に発砲者に応戦。相手は倒れた。即死だった。それが彼の息子だったのだ。
そのことを知ってか知らずかサンドラは敬愛する父親代理のハラルトを庇って発砲したのは自分だと所属署に報告する。いささか理解しにくいことだが、ハラルトはそれに異議を唱えない。それどころか、今まで通りサンドラたちと共に防犯パトロール任務を続ける。しかしハロルトの内面では奇妙なねじれが生る。息子がサンドラに殺されたと信じ込んでいる妻ベレーナに影響されてかサンドラが息子を殺したかのような錯覚に陥ってしまうのだ。妻は事件以来睡眠薬なしでは眠れないほどに神経耗弱状態にあり、妻の存在を心の支えにするハラルトは妻の妄想にとり込まれたのだろうか。
(ドラマの展開からはその点が明確ではない。意図的に曖昧にして視聴者がそれそれに解釈する余地を残しているのか。現代ドイツの大都市社会は黒白をつけがたいほど人間心理が不可解に歪んでいるということか。)そういう幻覚、妄想の果てにサンドラを殺害する事態が出来したのだろうか。
で、ハラルトはどのようにしておのれの始末をつけるのか。
ドラマの結末は多忙な治安任務を理由に息子を愛情で包むことを怠った自分自身を責めた挙句自殺して果てる。
より正確に言えば、ニーナの長男で警官見習いのトーリャを拉致して自分の息子が死んだ公園に連れ出す。一方電話に応答しないトーリャを案じていたニーナ刑事。ハラルトから遺書めいた電話を受けたニーナはローベルトと連れ立って公園に急行。息子トーリャに銃口を突きつけるハラルト。我が子を殺させまいとニーナはやむなくハラルトを銃撃。死んだハラルトの手に握られていた拳銃は元から弾倉が空だった。
ニーナの子を守る親の本能を刺激して自分を撃たせる演技だったのだ。ハラルトの間接的な自決。それもかなり身勝手な方法で。
警察官といえど発砲には勇気と決断がいるものだ。息子の危機に直面し、当然とはいえ人を撃ち殺したニーナは震えが止まらない。
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このドラマでは親子関係を巡って二つのあり方が同等の存在感を示している。
親の愛に恵まれずに育ったサンドラは必死でparental substituteを希求する。
他方、血縁で結ばれる絆の重さは肉親の親子関係、
すなわちハラルトとベレーナ夫婦と(死んだ)息子ならびにニーナとトーリャとの結びつきが表象する。
二つのあり方はどちらも安定したものではない。綻びる危険性を孕んでいる。
では血縁の有無に関わらず努力をすれば安定した関係が築くことが可能か。
努力は不可欠だが、努力の仕方、あり方は個別の関係によりけりだろうとしか言いようがない。
このドラマで描かれたハラルトと血縁の息子、ハラルトと非血縁のサンドラ。そしてニーナと血縁のトーリャとの愛情関係も互いのたゆまぬ努力なしには愛情関係実現できない。
だが、どう努力すればいいのか。個々のケースに応じて模索するほかないように思える。
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家族とは? 親子とは?
刑事物ドラマは何と言っても基本的に捜査官が知恵を振り絞って苦労しながらたどる事件解決への過程に妙味がある。その意味ではここでくだくだしく繰り広げた筆者の個人的解釈は当該作品にはなんの関わりもないではないかと言われれば反論できない。
しかし、はるか昔の犯罪ミステリならいざ知らず現代の読者や視聴者にとって今現在の社会や人間関係を照らし出す物語でなくては興味がもてないのではないだろうか。
ここでとり上げた2作は筆者がたまたま同時期に視聴したにすぎない。
だが意外と共通性があるし、と同時にそれぞれの個性も感じさせるように思える。“Die ewige Welle”は家族関係、特に親子関係に見られる、けっして新しくはない関係のもち方にある種の照明を当てたという印象を筆者は受けた。血縁および非血縁の親子関係とはなんだろうかという素朴な問題意識を喚起した点で注目したくなったのだ。
このドラマの場合どちらのケースも悲劇的な結末を迎えている。
片方はあっけなく事故死を遂げ、もう片方は生きている。
生き残った者(若い娘マヤ)が唯一自分を愛し、理解していた父親の死という逆境をどう生き抜くか。この課題は劇中人物というよりむしろ視聴者が引き受けるべき事柄ではないだろうか。なかなか刺激的な問題提起である。
©︎Y.Maezawa
では次のドラマ“Der gute Weg”は家族や親子の関係についてどういう新たな視点を視聴者に突きつけているのだろうか。
これら二つのドラマの製作者がお互いをことさら意識したわけではないだろう。また演出家と脚本家もそれぞれ別々だ。
それでも“Der gute Weg”は家族関係の血縁と非血縁という問題点により深く取り組んでいるように思える。とはいえ両作品はそれぞれ重点の置き方が異なるのだから家族関係だけで比較しても意味がない。
“Die ewige Welle”の場合タイトルが表象するように主人公三人の昔と今(若さと老い)のギャップが焦点となっている。これに対して”Der gute Weg”はどうも偏執的に道義や正義というモラルの問題にこだわる人物(警察官ハラルト)の生きざまを通して家族関係がより一層前面に押し出されている。
伝統的な犯罪ミステリによくある犯人探しを期待して視聴したドラマ2編だが、予想外に刺激的な家族というテーマを読みとらせてもらって幸いだった。
©︎Y.Maezawa
(編集:前澤 祐貴子)
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