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老成学研究所 > 初代所長 森下直貴 作品群(2018 09〜2022 12) > 老成学事始 > 【老成学事始】Ⅷ〈世代の思想〉について 森下直貴
©︎Y.Maezawa
老成学事始 Ⅷ
〈世代の思想〉について
老成学研究所 代表
森下直貴
今回のテーマは、老成学の支柱となるべき〈世代の思想〉である。
そもそも「思想」とは何か。
環境の中で感覚できる表現(情報)の意味(真意)を一つに絞ることを「解釈」という。解釈を導くのはすでに経験の積み重ねを通じてえられた解釈のパターン(型)である。この解釈パターンを「観点」という(例えば本能もその一つだ)。多様な場面に対応して観点も様々になるが、それらを包括する根本的な観点を「原理」という。
原理を根拠にしてあらゆるものごとを一貫して価値づける考え方、あるいはそうやって考えられた価値の体系が「思想」である。ここで「価値づける」とはものごと(世界や人生)の意味に優先順位を設定することだ。
私は若い時分から自分なりの「思想」を持つことに憧れてきた。しかし、老境に入った今、思想を持つことは人生にとって重要ではあるが、同時にそこから離れることも必要だと考えている。思想を持つと、自分の解釈こそが正解だとする奢りや拘りが生まれやすい。硬直して非寛容になった思想をイデオロギー(〜主義)と呼ぶなら、イデオロギーの大義の下でいかに多くの人々が犠牲になってきたことか。それについては現代史が証言している。
「思想」は四つのタイプに分かれる。
すべてのものたちは何かをやりとりする関係にある。何かをやりとりすることを「コミュニケーション」という。人間のコミュニケーションでは表現の意味の解釈がやりとりされる。このやりとりの背後では以下の四つの機能が連関して働いている(詳しくは拙著『システム倫理学的思考』を参照されたい)。
環境の情報を取捨選択する対外的機能(Ⅰ)
取り込んだ情報を解釈する対内的機能(Ⅱ)
解釈を他の解釈と比較する対他的機能(Ⅲ)
解釈を総合して価値づける対自的機能(Ⅳ)
人間のコミュニケーションの世界は四機能の連関として把握される、と考えるのが「システム倫理学」の見地である。これを前提にするなら、根本的観点である原理についても以下の四タイプにまとめられる。
Ⅰ 個人の自由による幸福追求を軸とする個体の原理
Ⅱ 親密な者同士の共生関係を軸とする共同体の原理
Ⅲ 多数者の間の普遍的統合を軸とする集合体の原理
Ⅳ 無限者による有限者の包摂を軸とする超越の原理
思想の原理の四タイプは、四機能連関の内の一つの機能を偏重することから生じる。人間である限りその偏重からは逃れられない。思想にも個性がある。そのため原理同士の対立、したがって思想同士の対立は避けられない。
思想の対立状況は根本的には解消されず、一致や同意はかりそめの幻想である。しかし、そうだとしても、頑なに膠着した状況を解きほぐし、ゆるやかな対立状況へと動かすことはできるのではないか。それを可能にするのが〈バランス思考〉である。
〈バランス思考〉とは何か。
バランス思考は、思想のそれぞれの原理が偏っていることを前提にした上で、自分の思想の原理による解釈に固執せず、状況に合わせて他の原理による解釈を考慮し、それを自分の解釈のうちに取り入れる中で、状況に応じた解釈を打ち出す。
それによって自己の解釈が状況に応じて変容する。対立する当事者が互いに自己変容するなら、対立そのものは基本的には消えないとしても、対立の状況は変わるだろう(詳しくは本ホームページ掲載の「『正解』なき世界の『バイアス』論」を参照されたい)。
具体的に言えば、バランスをとるとは、状況に応じて四機能連関の重心を変えることである。
例えば、人権が蔑ろにされるなら個体の原理を強調するし、互助や共助の精神が弱体化すれば共同体の原理を持ち出す。また、公共の精神が薄れるときには集合体の原理を打ち出し、個人や集団が目先の利害に固執するなら超越の原理を対置する。
あるいは、人権とか、共助、統合、超俗の一つの観点だけを強調する者に対しては、他の三つの観点への配慮を要求することになる。
しかし、バランス思考が拠り所とする四機能連関は、人間のコミュニケーション世界を合理的に再構成するための抽象的な概念枠組みである。この枠組みを実践的な場面にそのまま適用できるほど、人間は合理的ではないし、また考えるための時間があるわけでもない。そうであるなら、四機能連関の枠組みを直観的に把握可能とするような概念が要請されるだろう。
ここで注目されるのが「世代」の概念である。
世代の概念には次の四つの要素が含まれている(ここに「年代」も含める)。
① 生物としての年齢・年数性
② 親子代々の連綿たる系譜性
③ 同出生年齢集団の同時代性
④ ライフサイクル上の周期性
例えば40歳の人がいるとしよう。この人は、たんに①40回目の誕生日を迎えただけではなく、②親子代々の連綿たる系譜を背負いつつ、③時代の中の価値観を部分的に共有する集団の、④ライフサイクルの中年段階にいる一人なのだ。
世代概念に注目する理由はその包括性にある。つまり、世代の四つの要素は以下のように思想の四つの原理をそれぞれ写像しているのだ。
① 年数性 ←→ 個体の原理
② 系譜性 ←→ 共同体の原理
③同時代性 ←→ 集合体の原理
④ 周期性 ←→ 超越の原理
以上から、世代の概念は思想の四つの原理を包括する原理として捉えられる。ここに「世代」原理を根拠とする思想、すなわち〈世代の思想〉が登場する。
〈世代の思想〉の核心とは何か。
その答えは《各世代は、先行する世代から受け継いだ価値観を批判・洗練・総合し、後続する世代に引き渡す責任がある》というものだ。
敷衍して説明する。親世代と子世代は育児・介護を含めて生活の仕方(文化)を継承する関係にある。他方、先行する年齢集団世代と後続する年齢集団世代との間には時代の価値観をめぐる緊張した関係がある。異なる次元の両者を重ねるとき、先行する親世代集団と後続する子世代集団の間で価値観・文化をめぐるダイナミックな批判・洗練・総合の関係が浮上する。このような関係を同年齢集団に属しながらライフサイクル上の異なる段階にいる個々人が担うことになる。
世代としての責任を具体化すると役割になる。ライフサイクル上の段階を年少期・青年期・中年期・老年期に四区分してみると、役割はそれぞれ下記のようになる。
年少期:先行世代の価値観を受け継ぎ受容・吸収する役割
青年期:既成の価値観を批判し新たな方向を模索する役割
中年期:新たな価値観を洗練して確立し、発展させる役割
老年期:新旧の価値観を総合して後続世代に引き渡す役割
〈世代の思想〉は、思想の外部ではなく内部から、思想同士の対立状況をゆるやかに解きほぐすことを可能にするが、意義はそれだけではない。とくに重要なことは、システム倫理学の方法の要である「実践目標」を状況に応じて設定することだ。この点については別稿に委ねることにし、ここでは老成学にとって、それが老いの価値と老人の役割、したがって老人の生き方を明確にする点に焦点を合わせよう。
老人の生き方に関する見方は四つのタイプに分かれる。
第一は、老い=無価値/老人=邪魔者とする「エイジズム」を前提とした見方だ。ここでは、老いは一律に不可避の衰退として捉えられ、身体と精神の機能低下だけが注目される。その結果、老人になって生きる目標がなくなるのは当然であり、そこから生きる意欲が消失し、早く死にたいと願うようになるのは自然のことだとみなされる。したがって、ここでの焦点は生き方より死に方にある。
第二は、世俗的な生活を捨て、超俗の境地に遊ぶことを理想とする見方だ。これはトレンスタムら老年学者が提唱するものであり、モデルは東洋的な仙人である(インスピレーションを与えたのはユングの元型思想のようだ)。日本人の間でも超俗的な孤独は好まれている(山折哲男『「ひとり」の哲学』新潮選書、2016年)。この場合のモデルは『徒然草』である。
第三は、人生の最期まで目標を追求する積極的な活動を理想とする見方だ。例えば、ボーヴォワールでは老いの時間の二重の限界の中で新たなプロジェクトがめざされる。あるいは、エリクソンでは個人の熟成=自己実現が課題とされる。バトラーではエリクソンのアイデンティティの固定化が批判され、最期まで成長する生産的な生き方が提唱される(プロダクティブ・エイジング)。なお、ジョーン・エリクソンは老年学者たちを批判し、老年期では失うものばかりでなく、新たな感性の開発のように獲得するものもあると書いている。
第四は、既存の価値観の転換を老いに期待する見方だ。老いを「反世界」の視点に結びつけるのは鷲田清一『老いの空白』(岩波現代文庫、2015年)である。これについては「老成学事始Ⅱ」で紹介しているが、その種の視点は特に「老い」である必要はない。あるいは、船木亨『死の病と生の哲学』(ちくま新書、2020年)では、子供のとらわれのない視線を再導入し、大人の固定した視線から自由になることが「老人に成る」ことだとされる。どちらの見方も青年期に特有のものだ。
〈世代の思想〉に基づくと、老人の生き方とはどうなるか。
老い(老年期)の価値はライフサイクル上の段階を経てきたその経験そのものにある。老人だけが老いを経験し、死に直面する。若者はそうした老人から「人生とはどういうものか」を学ぶことができる。そこに老いの持つ特別の価値がある。
老人の役割は、価値観を総合して後続世代に引き渡すことが基本であるが、その一環として、老いの価値を自覚し、老いのステージを経験し尽くし、最期まで生き抜く姿を若い人に見せることによって、成功だけでなく失敗も含めて人生を学んでもらうことになる。
老成学を構築するためには総論から各論へと進まなければならない。
例えば、老いのステージ(活動の発展期、活動の縮小期、死を意識する終活期、死に直面する終末期)ごとに役割はどのように変わるのか。また、同じステージであっても、上述した(最期まで生き抜くという)生き方は複数ある選択肢のうちの一つなのか。あるいは、選択肢のうちに「安楽死」が入らないとすればその理由は何か。さらに、〈世代の思想〉に基づく生き方と公共ルールとの関係はどうなるのか。そして〈世代の思想〉は他の思想を排除するのか。等々。
課題は山積している。
(続く)
©︎Y.Maezawa
(編集:前澤 祐貴子)