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《私の本棚》 No.1 書評 『虚数の情緒』 森下直貴
活動の実績 | 2020.03.26

老成学に関連する本の書評や読書ノートを随時掲載します。ご期待ください。

          

               『本が開く新しい世界の扉』 あさかすず 絵


『虚数の情緒 中学生からの全方位独学法』         吉田武、東海大学出版会、2000年

大学進学では文系コースを選んだが、わたしはもともと数学が苦手でもなく、かといっても特別に好きでもなかった。高校生になって歴史や古典文学の魅力を知ると、数学の授業時間に外国小説をこっそり読んだりした。また、東大の工学部や京大の理学部に行った友人たちと比べて、自分には数学のセンスがないとも感じていた。そんなわけで、なんとか大学に入学した後は、数学講義の試験対策をちゃっかり理系の友人に任せ、数学とはさしあたり無縁な思想史の世界に生きてきた。

ところが、医科大学に就職すると、否応なく数学と対面する羽目になった。研究倫理委員会では倫理面だけでなく科学面もチェックするため、医療統計がわからないと審査できない。そこで仕方なくにわか勉強をしたが、自分で統計を用いた研究をしないせいか、覚えてもなかなか身に付かない。その都度、教科書や解説書を見ながら確認することになる。30年間そんな調子でやってきた。

いつしか数学に対して苦手意識をもつ自分がいた。しかし、わたしが提唱する「四次元相関」の思考法を研究の現場に広めるためには、実験や統計の手法と比較し、より包括的な見地に立つ必要がある。そのためには受験参考書の定義と公式や解法を覚えるだけではダメで、数学という学問を基礎から学び直すべきではないか…。

そう思い直して書架を眺めてみると、たまたま本書が目に入った。題名は高名な数学者の岡潔の言葉のものだ。わたしは高校二年生のとき彼の講演を聞いたことがある。講堂の壇上の椅子に座って煙草を美味そうに吸ってから、宙を見つめるように話し始めた。「多変数複素関数論」。舌を噛みそうなその言葉だけはなぜか覚えていた。

本を開いてみる。何とルビつき漢字だらけの千ページのボリューム。そこには著者の熱い教育観が溢れている。大仰ではあるが「なるほど」と頷くことばかりである。副題には「中学生からの全方位独学法」とある。この本が中学生でも分かるのか?幸いなことに定年組みだから時間はたっぷりある。半信半疑で読んでみる気になった。そして気がついたら貪るように読み耽っていた。

第二部の数学の話は自然数から始まり、整数、有理数、無理数へと進む。実数の世界の大半は無理数である。おお、そうだったのか。新鮮な驚きの連続である。たとえばアルキメデスの求積法。これが丁寧に説明されていて、自分で一つひとつ確かめながら計算してみると、古代のシラクサにタイムスリップした気になる。

そしていよいよ虚数の世界に入る。ふと、かつて数学の授業中に読んだムージルの『若いテルレスの悩み』がよみがえる。その冒頭で主人公は「虚数」の実在を疑っていたな。4は2×2。1と自分以外に2を約数としてもつ。それでは2はどうか。実数の世界では1と自分以外に約数をもたない素数である。ところが、複素数の世界では「1−i」と「1+i」に因数分解できる。つまり、2=(1−i)×(1+i)なのだ。

高校の時分に習ったはずだが、これには驚愕するとともに嬉しくなった。なぜ嬉しくなったのか。わたしは「システム倫理学」において「四次元相関」の思考法を提唱している。この思考法は、見える世界の類型を見えない四次元構成の偏りとして捉えるものだが、この捉え方が実数の世界を複素数として見る視点と重なるからである。

数学の頂点はオイラーの公式。ここでネイピア数eと虚数iと三角関数sinθcosθ(そして円周率π)が出揃う。著者もこの公式を数学でもっとも美しいという。同感である。神秘的ですらある。オイラーの公式を三次元空間に描くと、一本の螺旋が実部と虚部に波動として投影されるではないか。この立体図に出会えただけでも本書を読む価値がある。

第三部は物理学の話に移る。物理の世界こそ数理の世界、しかも虚数の世界である。著者は「振り子」を実例にとりながらガリレオやニュートンらの古典力学を解説し、その延長線上に理想化されたバネの振動である「調和振動子」を位置づける。わたしの「貧乏ゆすり」もそうだが、すべてのものが振動している。だからこの調和振動子の方程式は物理学にとって基本中の基本なのである。

以上の準備を受けて量子力学の世界に入る。光子のような「量子」は波でもあれば粒子でもある。あるいは、そのどちらでもないというべきか。著者は量子の奇妙な振る舞いを説明するために、ヤングの二重スリットの実験から、ファインマンの経路積分までを丁寧に解説してくれる。これがじつに詳細を極めている。そして最後にたどり着くのがシュレーディンガーの波動方程式、つまり量子力学の一般的枠組みだ。

これまでにも相対性理論や量子論に関する本は何冊か読んできた。しかし、数式を飛ばしていたせいか、その種の知識が自分の内部に定着した気はしなかった。理系の人にとってはお笑いだろうが、わたしは著者の導きによって生まれて初めて、シュレーディンガー波動方程式の意味を「数学的」に知ることができたのである。

数学と物理学に苦手意識を持っていたわたしでも、本書を通じて二つの学問のもつ面白さと奥深さを味わうことができた。以前なら「太陽の光と温かさ」という言葉を聞いて直ちに春のうららかな戸外を思い浮かべたものである。今は違う。喜んでいいのか分からないが、真っ先に浮かぶのが何と「アインシュタインとプランク」である。著者吉田武は第一線の数学者でも物理学者でもないかもしれない。しかし、教育者としては掛け値なしに素晴らしい。学ぶことの面白さと奥深さを伝える力量たるや、まことに今日では稀有の第一級ライターである。

教育界ではいま「読解力」が話題になっている。算数や数学の問題を解くために読解力が必要だといわれる。それは文学作品の解釈ではなく、「以外に」「の他に」といった文章の論理的な理解のことである。しかし、国語が先か数学が先かではないはずだ。著者も力説するように、初等・中等教育ではどちらも必須である。とくに数学教育に求められるのは、いきなりコンピュータのプログラミングではなく、本書が提示するような自分で考える作業でなければならない。

今回、理系の大学生が1年次で学ぶテイラー展開や、偏微分、ハルトニアンなどを、初老の大人(わたしのこと!)が中学生になったつもりで、用事を挟みながらも二週間、貪るように勉強してみた。本書は中学生を想定している。しかし今日、本書を読める中学生はどれだけいるのだろう。数学の「全方位独学法」はむしろ老人にこそ相応しいのではないか。デジタル超高齢社会では理系と文系の境界、老人と若者の分断を乗り越える必要がある。それを研究する老成学にとって本書は座右の書である。

 
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