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老成学研究所 > 時代への提言 > 【寄稿E】演劇研究家 遠藤幸英シリーズ > 【寄稿E】(1) 向田邦子ドラマに見る「生きることの責任」 浜松医科大学名誉教授 遠藤幸英
©︎Y.Maezawa
向田邦子ドラマに見る
「生きることの責任」
浜松医科大学名誉教授
遠藤幸英
最近偶然刺激的な動画を見つけた。20年余り前1978年に放映された連続TVドラマ『家族熱』(KAZOKU-NETSU 1~14)だ。脚本は向田邦子(1929〜1981年)。
『阿修羅のごとく』(1978〜1980年)と同様向田は一見ありふれた家庭が一皮向けば地獄を内包する人間模様を描く。平穏な毎日を送る裕福そうな家族を舞台に二人の女、前妻と後妻が熾烈な心理戦を展開する。前妻の後妻に対する対抗心は劇中でも援用されるとおり謡曲「鉄輪(かなわ)」に共通する。「鉄輪」ではシテ(捨てられた女・前妻)が(般若になりきれていない女の恨みを象徴する)「橋姫」と呼ばれる能面をつけ、額に三本の蝋燭を灯した鉄輪を巻く。言わずと知れた丑の刻詣での扮装だ。恋慕と怨念に引き裂かれた女の思いは謡曲の詞章が鋭くえぐる。
シテ 「恨めしや御身と契りしその時は。玉椿の八千代。二葉の松の末かけて。
かはらじとこそ思ひしに。などしも捨ては果て給ふらん。あら恨めしや。
捨てられて。
地(地謡=コーラス) 「捨てられて。おもふ思の涙に沈み。人を恨み。
シテ 「夫をかこち。
地 「ある時は恋しく。
シテ 「又は恨めしく。
地 「起きても寐ても忘れぬ思の。因果は今ぞと白雪の。
消えなん命は今宵ぞ。痛はしや
が、向田は「鉄輪」をただ単に現代版に改作したわけではない。愛憎に引き裂かれた女性像は向田ドラマの基本テーマの一つだ。それを背景にして家族が一連の葛藤を通して和解に向けて成長する人間模様を浮き彫りにしたのである。さらに、老いた人々が死の直前で新しい境地に達することをも人間としての「成長」と見る向田は慧眼の持主だ。
©︎Y.Maezawa
まずドラマの舞台となる家族関係を明らかにしよう。話の中心は3世代構成の黒沼家。苗字が若干仰々しいので何かまがまがしい出来事が起こりそうな予感がしないでもない。主黒沼謙造は50過ぎの働き盛りで橋梁工事を専門とする会社の敏腕社員。後妻朋子、30代前半。夫とは20歳ほど離れている。夫婦には前妻恒子との間にできた息子が二人いる。長男杉男26歳、謹厳実直な麻酔医。次男龍二は6歳前後年下で大学生だが、勉強に身が入らずバイトに勤しんでいる。この親子2世代に謙造の父重光が加わる。銀行員として定年まで実直に働いた人である。重光は地価が混乱した終戦直後東京近郊らしい場所に土地を買い、結構豪壮な家を建て、そこに3世代が暮らしている。
13年前、前妻が4歳の末子を身勝手から来る不注意で死なせてしまったと家族から非難され、耐えきれずに出奔。それから間もなくして朋子は勤務先のゴルフ場で謙造と出会う。早くに両親を亡くした朋子は叔父の家で厄介者扱いされながら居候していたらしい。そんな彼女の前に現れた謙造はいかにも頼もしく見え、当時20歳の朋子の目には救世主と映った。そして結婚。若くて初婚の彼女は家事に加えて姑の介護が始まる。そればかりでなく、思春期を迎えようとする長男とまだまだ子供の次男を育てることになる。長男は継母朋子に気遣いを見せる。一方次男は自分たちを捨てた実母に強く愛着したままで朋子を露骨に嫌う。
やがて13年の月日が経過。そこへ謙造が工事の大口契約に絡む贈賄容疑で逮捕される事件が起きる。しかも謙造が前妻とよりを戻しているらしいことが発覚。夫を信頼してきた朋子は激しく動揺。家族が反対する中、彼女は小さな編集業を営む友人時子のアパートに転がり込む。離婚を決意したものの、その決意は揺らぐ。そうこうするうちに黒沼家にとって前妻恒子の存在が大きくなりだす。くだんの贈賄事件では彼女が重要な役割を担っていたのである。違法と承知しながら前夫と息子二人に対する愛着、執着に駆られて橋梁工事発注主との間を取りもったのである。紆余曲折の末に幸い謙造は起訴猶予になる。
しかし次に一家の最重大問題となるのは恒子の奇行である。13年前に断念したはずの夫婦愛と親子愛がいまだに諦めきれず、その結果精神に異常をきたす。結末では謙造が恒子をわが家に迎え入れ、長男杉男が実母の面倒をみると申し出ることで黒沼家の「家族」が復活する。実は杉男が子ども時代のちょっとして不注意からとはいえ妹の死に最大の責任があることが判明したのである。自分の過ちをかばってくれたのは実母だったのだ。杉男はその罪滅しと実母に対する愛情から恒子を愛おしまずにおれなくなる。
黒沼家は二人の「妻と母」がいる家庭となる。(ただし朋子が同居するかどうかははっきりしない。)謙造が保釈で帰宅した際に朋子は夫の子どもを身ごもっていて、夫の願いを受け入れる形で出産を決意する。家族という人間模様は悲喜こもごもの出来事の連なりの中で新しい生命を生み出すこともできるのだ。家族の絆の充実、発展を暗示してドラマは幕を閉じる。
©︎Y.Maezawa
このドラマで私が一番印象づけられたのは家族の一人ひとりが自己流に責任をとる姿だ。基本姿勢としては誰も出来合いの権威にすがらないのである。ついついエゴにとらわれて対立が生じるが、そこから何かを学んで前進する。そういう学びと成長なしには人は生きていけない。
家庭内の人間関係で辛く苦しい葛藤を経験したからこそ黒沼家の面々はそれぞれの責任を自覚するのである。彼らは社会的に小さな存在であっても、その生きざまは凛としている。
物語の当初、謙造は黒沼家の家長然としている。だが、彼も企業組織の歯車の一つにしか過ぎない。立件は免れたものの贈賄事件が原因で左遷の憂き目に会うその姿は脆さを隠せない。しかも自分を捨てた前妻に工事契約の仲介を頼んだことで父重光の大顰蹙を買い、一時的にせよ家から放逐されもする。そういう謙造が大胆な決断をする。恒子の姿がそうさせた。彼女はいまだに思い出の中で生きている黒沼家という家庭の暖かさに触れたいと思っている。複雑な事情が絡んでいるとはいえ自ら家庭放棄したにもかかわらずである。確かに謙造は朋子を愛している。二人は正式に結婚した夫婦なのだ。しかし恒子の13年ぶりの出現が巻き起こした家族間の葛藤を経て謙造は二人の妻をもつことを避けようと朋子に離婚を申し出る。これは一見無責任な行為だが、かつて出奔せざるをえなかった恒子の苦悩に鈍感だった彼なりの罪滅ぼしなのだろう。意に反して離婚を迫られた朋子は激しく動揺するが、やがて謙造との間の子が生まれるという事実が謙造と朋子を強い絆で結ぶ。
これって三角関係じゃないかという反論が湧きそうだが、恒子と朋子という二人の女性はそれぞれに一人の女性がたどる可能性のある生き方なのではないか。どちらも平坦ではない。恒子は朋子の影の部分とも言えそうだ。二人の世代の違いも大きく関係する。恒子の世代は戦前の嫁姑の関係がまだまだ旧式でジェンダー・ポリティックスの渦に翻弄されるままだ。逃げ道がまるでない。恒子の精神が壊れるのも当然だろう。朋子の世代となると若干逃げ場がありそうだ。一時的にせよ友人を頼るなりなんなり自発的に手立てをさぐる余裕が多少はある。
この二人だけでなく物語の外にいる謙造の亡き母にしろ、登場する女性たちは皆(多分今も残存する)日本の家庭における女の立ち位置を反映している。家族という集団は女性(妻、母)だけに世代差や性差から生じる圧力が凝り固まる場所である。重光が後妻にもらおうとまで思った老いらくの恋の相手の老女も杉男に執着する若い娘イズミも共に日本社会の性差のしがらみに苦しんでいるにちがいない。さらに朋子の友人時子でさえ自由人を自認し窮屈な結婚を自ら避けているように見えながら、そういうしがらみから解放されてはいない。だが、『家族熱』の女性たちは劇中でそれぞれの形で自立する決意を表明する。それが彼らの人間としてのけじめのつけかただ。
さて黒沼家の子どもたちの責任意識はどうか。長男杉男は自分が負うべき罪を被った実母の介護を決意。では、もう一人の母朋子にどう対するかが問題になる。朋子のことを彼はわずか7歳違いで以前から密かにそしていささか罪悪感を感じながら異性として意識してきたが、父の妻であり自分の継母だと納得するしかない。一方次男龍二の場合、まず乳離れ、自立が責任のとり方だと自覚する。友人のペンション事業を手伝うため一人家を出る。若い彼らも一連の葛藤を経験して初めて責任の自覚に達する。
もう一人心に残るけじめの果たし方を見せる人物がいる。謙造の老父重光だ。高齢ゆえに死の間近いことを自覚した重光が生き方の相入れない息子の窮地(贈賄事件と前妻との不倫)を救おうとしてとった行動だ。重病で入院中の重光はある時次男が家族の前で不用意に漏らした話から謙造が恒子宛に送った手紙が贈賄罪の証拠となる危険性を知る。いやもっと重大なことはこの手紙が謙造から自分を捨てた恒子に対する恋文でもあることだ。今まで朋子を全面的に受け入れていなかった重光だが、息子の恒子に対する未練が発覚すれば朋子が傷つく。それを恐れた重光。家族の幸せを願う重光老人はこの深刻な障害をとり除こうと一大決心。病院を抜け出し恒子に会ってくだんの手紙をとりもどそうとする。交換条件に株券や預金通帳など自分のヘソクリをそっくり差し出す。確かにこれは下世話すぎるほどの取引ではある。だが、人生観が大いに異なる息子を理解しようと努めた老人の行動は意義深い。どれだけ老いていようとも人にはいつでも生き方を改めるチャンスがあるのだとこのドラマは訴えかけている。
タイトルの「家族熱」とは家族間の愛憎、軋轢、葛藤が原因で生じる一種の熱病のような症状をさすのではないか。この熱病は必ずしも致命的ではない。諸々の葛藤あってのちの和解という形で治癒する。ただし人生は長い。和解の後にまた葛藤が始まらないとは誰にも言えないだろう。だが、現実に対して誠実に向かい合うしかない。
©︎Y.Maezawa
ちなみにドラマのテーマ音楽として使われているRosemary Clooney (1928〜2002年、俳優George Clooneyの伯母) が歌う「ブラームスの子守歌」(英語版はBrahms’ Lullaby: Close Your Eyes)が耳に心地いい。葛藤だらけの人間模様の中で傷つきながらも未来に踏み出そうとする者たちへの慰めと励ましである。最後に一言。個性派俳優をバランスよくそろえたキャスティングも見どころの一つである。
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(編集:前澤 祐貴子)