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自己再帰視点からの変容・循環・関係/高齢化社会・医療・哲学における「老成学」構想
活動の実績 | 2019.05.30

PDF版 紀要30号老成学

『浜松医科大学紀要』第30号(2016年3月)

<老成学>の構想
——老人世代の社会的再関与によるコミュニティづくりへの展望——

森下直貴
(倫理学)

The Conception of “Re-Ageing” Gerontology

Naoki MORISHITA
(Ethics)

序章 <老成学>事始め

 日本社会はいま、超高齢社会という人類がこれまでかつて経験したことのない未踏の時代へと移りつつある。この移行にともなって種々の問題が社会のいくつかの領域ですでに発生している。今後はますます拡大しながら深刻化することが予想される。もちろん、少子化による人口減少と高齢者の長寿化によって人口構成が高齢化することは、人々にとって身近で深刻な問題を引き起こしてはいる。とはいえ、それも現代社会を激しくゆさぶる様々な相互影響のうちの一つにすぎず、その他にもデジタル化*1、気候変動と大災害、貧困格差と構造的排除、テロ、排他的民族主義などがある。したがって高齢化に注目するとしても、影響全体との連関をつねに考慮しておく必要がある。このような限定をつけた上で、超高齢社会の到来をみすえつつ、一個の統合的な学問領域として、ネオ・ジェロントロジー(新・老人学)を構想してみよう。
 キーワードは<老成>である。この名称によって意味されるのは、老いの熟成のような完成した状態ではなく、老いが老い自身を不断に意味づけ直すという再帰的なプロセスである*2。この視点をジュロントロジーそのものに組みこむならば、不断に自己に再帰するジェロントロジーという構想が生まれる。これを<老成学>と命名しよう。めざすは老成の視点から捉えられた未来社会、すなわち<老成社会>である。そのためには既存の関連諸学問分野の横断と統合が不可欠である。本論文はこの<老成学>の構想を説明するが、読者諸賢のコメントによってさらに改良したいと願っている*3。なお、以下では「高齢者」という当たり障りのない行政用語に替えて、基本的には「老人」という威厳のある名称を使用する。
 <老成学>の構想にいたった経緯を説明しよう。着想の1つは、生殖補助医療における代理出産に関して、家族機能を拡張する方法として提案した「身近な他者」である*4。もう1つは、長年手がけてきた健康論の延長線上で浮上した国民規模の「健康への際限なき欲望」に関して*5、そのコントロールの鍵を握る主役として注目される元気な老人世代である。そこから彼らが活躍する「老成社会」のイメージが出てくる*6。なお、理論的な要である<再帰性>という視点については、それ以前にルーマンの社会システム理論から刺激を受けていた*7。
 とはいえ、「老成社会」のイメージから直ちに<老成学>が結実したわけではない。それには現実の後押しが必要だった。それが老人世代の内部で発生している階層二極化であり、これに対する素朴な疑問である。既成のセーフティネットがうまく機能しないのはなぜだろう。その背景要因として浮かび上がったが家族の変容である*8。本論で後述するように、家族の変容じたいは1970年代の後半に芽生え、1980年代の前半とくに1990年代の後半になって急速に目立ってきた*9。この家族機能の弱体化という現実に直面したとき、その補完として注目されたのが比較的元気な老年世代であり、彼らの社会的関与(再関与というべきか)である。要は、近所の同世代の老人たちに活躍してもらうという算段である。
 老人世代の社会的関与はとりわけ<共助>の場面で(なかでも認知症の人をめぐる現場において)期待されている*10。しかし、その関与を共助にだけ止めるのはもったいない。彼らの社会的関与は社会のあらゆる領域で期待されている。もしそうだとすれば、ここに新たな老人観とそれを理論的に支える視点が要請されるはずである。それが<老成>の視点である。これを織り込んだ<老成学>は、老人世代が活躍する近未来の社会、すなわち「老成社会」の実現をめざす一種のフィールド実践学である。以下ではこの<老成学>の構想を展開しよう。
 なお、本論とは別に本論文には補論が付されている。<老成学>の理論的な枠組みの一つは後述するように「4領域」構造である。なぜ4か。この根拠と成り立ちについてはどこかで論じる必要があるが、そのためにはいささか厄介な哲学的考察にふみこまざるをえない。そこで本論から外して補論に回した次第である。関心がある読者にはぜひともお読みいただきたい。
 最後に、私自身の研究全体にも一言しておこう。土台は私なりの(ポスト・ルーマン)システム理論であるが、これについては補論を参照されたい。その上に四つの柱が立っている。第一の柱は、意味論を中軸にして実在の運動と展開や、それと認識との関係を扱う形而上学である。これまた補論を見てほしい。第二の柱は、対立媒介のシステム倫理学であり、先達である和辻哲郎の「間柄の倫理学」を超えることを目標としている*11。第三の柱である近代日本思想史研究では、戦後の視点を括弧に入れつつ明治以降の哲学思想の歩みを書き換えることを目論んでいる*12。そして第四の柱がここで新たに構想する実践学としての<老成学>である。この実践学は対立媒介の倫理学を未来の現実という一点に向けて具体化する。

第1章 老人世代の階層二極化と家族の変容

 今日の老人たちの見せる姿には対照的な二面がある。一方に元気で活動的なお年寄りがいる。他方には病院や施設をたらい回しされる「下流老人」がいる。このあまりにかけ離れた両面をどのようにつなげたらいいのだろうか。既存のジェロントロジーや既成のセーフティネットの仕組みと絡めながら、老人世代の現実の断面、家族の変容と介護力の低下、そしてそれらの背景にあるコミュニティの大きな変動を把握してみよう。

1.1 大量の元気な老人と既存のジェロントロジー
 まず、現象面からいえば、元気なお年寄りが行楽地はもとより、美術館、街中の飲食店や喫茶店、スポーツジム、公民館やカルチャーセンター、ゲームセンターなど、人の集まるところならどこでも、朝から夕方まで溢れている。また、かつては手術の適応は70歳未満と決まっていたが、今では90歳を超えても本人が希望するならごく普通に実施されている。手術に耐えられるほど元気だからである。
 元気さを示す指標として平均寿命と健康寿命をとり上げよう(出典は『2014年度高齢社会白書』、以下同様)。まず、平均寿命の最新統計(2014年)では、男性80.50歳、女性86.83歳である。それが約45年後の2060年では、男性84.19歳、女性90.43歳になると推計されている。つまり、90歳の老人がふつうに周囲にいることになる。他方、自立していて寝たきりでないという健康寿命では、男性71.11歳、女性75.56歳である。それが2060年には男性75歳、女性80歳になる推計されている。平均寿命との差は現在でも将来でもほとんど違いはなく、10±1歳くらいである。60歳定年の場合、男性で10年間、女性で25年間は達者な老後を送る計算になる。
 元気で長命だけではない。そのような老人がしかも大量・大群にいるのである。2015年に65歳になった世代は1949年生れで約270万人いる。彼らが小中学校時代の教室は60人を超える生徒でそれこそ犇めき合っていた。2014年生れが約100万人だからその2.5倍である。1947年〜1949年生れの世代は「団塊世代」と呼ばれるが、3歳合わせると806万人もいる。少し広げて1951年生れまでを含めると何と1084万になる。わずか5歳合わせた人口が総人口の8%を占めるのである。その彼らが一斉に高齢者の仲間入りをする。その10年後には「介護崩壊」が、そしてさらにその10年後には「葬儀崩壊」が待っている*1。
 もはや統計をこれ以上持ち出す必要はないだろう。周囲を見回しても、統計数値を見比べても、元気な老人たちが身の回りに大量にいる。そしてそこに浮かんでくるのは、自活し、趣味を楽しんでは、仕事やボランティアをする老人像である。
 このような老人像を支持しつつさらに弘めているのが、既存のジェロントロジーである。これには大別して2つある。一つは老年医学(ジェリアトリックス)であり、早期発見・早期治療や抗加齢(アンチエイジング)治療を通じて、老化の進行を遅めたり、壮年期を二倍にすることをめざす。もう一つがいわば老人生活学であり、第二の人生である人生の三分の一を充実させるために、脳トレーニングや健康体操*2を推進する。

1.2 「下流老人」現象とセーフティネットの崩壊
 しかし、ここ数年のことだが、以上で見たような元気な老人たちの姿、そして積極的で活動的な老人の像とは対照的な姿がマスメディアを通じて知られるようになってきた*3。いわゆる「下流老人」現象である*4。それまで人目につかないように隠れされていた事態がもはや覆い隠せなくなり、あちこちで噴き出してきたということだろうか。
 日本の老人たちは、従来なら漠然とではあれ、老後にはつましいながらも何とか安心して暮らしていけるし、その意味では自分は人並み(中流)だと思っていたのではないか。最期を迎える場所としては、(実際には病院であることが多いとしても)大半の希望は自宅である。他方、家族の縁がない場合、年金だけでも入所できる特養老人ホームか、資産の余裕があれば民間の有料老人ホームが終の住処になる。ところが、ごくふつうの老人たちの希望と期待は無残にも打ち砕かれる。中流を自認していた老人がひとたび病気になると、医療費がかさんでしまい、乏しい貯蓄を切り崩すことになる。その結果、生活保護世帯へと容易に転落していく。とくに高齢者の5分の1がいずれは罹るとされる「認知症」————この「認知症」キャンペーンの問題性については後述する————になり、老老介護や認認介護となった場合、そのリスクは決定的に高くなる。ましてや、介護する子ども世代が離職したり就職していなかったりすると(非正規雇用の場合も含めて)、それはもはやリスクというより、現実そのものである。実際、自宅で老人が介護を受ける場合には、あるいは徘徊による事故の賠償ケースが発生し、あるいは介護する家族の不眠等から殺人や心中といった痛ましい事件が多発している。
 他方、治療のために入院した場合、そこでは「たらい回し」が待っている。慢性期の療養病床では自宅に戻れない患者たちが長期に渡って占有していた。このような「社会的入院」を減少させるねらいから2006年に導入されたのが、90日という入院期間の制限ルールである。その結果、患者は別の関連病院に一時的に移されたり、リハビリ施設である「老健」や「特養ホーム」に送り出されたりする。しかしそこに入りきれない患者が「介護難民」になる。ところが、それらの施設では患者が吸痰や呼吸器装着や胃瘻造設等の治療を要すると、ふたたび病院に送り返す。そしてまた90日経つとそこから別の病院や施設へと回される…。「たらい回し」の末に行き着く先は、介護の質を問わない精神病院であり、無届け介護ホーム、そして念書をとって老人を預かる介護ビジネスである。行き場のない少なからずの老人たちがいま日本中を漂流している。そして薬漬けになり、寝たきりにさせられ、無念にも亡くなっていく。
 ここで老人ホームについて問題点を押さえておこう。特別養護老人ホーム(特養)は、とくに都市部では施設が不足しており、待機者は50万人もいる。ただし、2000年に導入された介護保険制度によってそこでの介護の質が劣化したといわれる上に、介護職員の離職も重なって量すら確保できていない。質量ともに水準が低いために閉鎖されている施設もあるという。何という齟齬であろうか。その打開策として、地方創成の掛け声によって日本版シルバータウンづくり(CCRC)や特養ホームの地方移設が計画されている。他方、もちろん高額の有料老人ホームはあるが、これは資産次第である。また、日本では宅老所から出発して1980年代から広がったグループホームや、2006年に導入された在宅ケアの「小規模多機能」もあるが、医療との連携や定額制という報酬制度の問題があり、目下のところそれほど広まってないない*5。
 なお、介護職員の量質の水準を確保することは緊急の課題である。たしかに介護職はストレスの多い重労働ではあるが、職業としての魅力を感じない心理の背景には、職業の位置づけや配置の問題がある。同じことは農林水産業でもいえる。若い家族が地方移住する例では、コンピュータ関連の仕事に就くことが多い。人手不足を手っ取り早く補うために外国人の介護職員も現場に投入されている(東京都)。しかし、それと同時に長期的な観点から、HAL等のロボットの導入と併せて*6、少子高齢社会における職業配置の政策を打ち出す必要があろう。
 それにしても、である。このように酷薄で悲惨な状況が広がってきたのはどうしてなのか。戦後に作られた既成のセーフティネットの仕組みが50年経過する中で、変動する現実にもはや対応できなくなっているからではないか。振り返ってみよう。戦後のセーフティネットの基盤は、自助(貯蓄)+共助(家族や企業)+公助(年金や生活保護等)の三本柱だった*7。そのうち年金は老後の生活をそれだけで支えるようには設計されておらず、あくまで補助として位置づけられていた。ちなみに、「生活保護」に関していえば、2015年6月現在、受給世帯は162万5941であり。前月より3400世帯増加している。これは1951年以来で最多という。そして受給全体の半数が65歳以上の高齢世帯である。さて、このように貧弱な社会保障(公助)の上で老人がひとたび病気になると、なけなしの貯蓄(自助)をとりくずすことになる。そのとき残るのは家族による共助である。ところが、この最期の頼みの綱である家族が1980年代以降、とくに1990年代半ばから大きく変容し、共助機能を大幅に弱体化させたのである。次節ではこの家族の変容に注目してみる。

1.3 家族の変容・漂流・高齢化と「在宅主義」の陥穽
 1980年代の前半、日本社会の家族が変容して漂流し始めた。この時期、家族をテーマにしたテレビドラマ映画、例えば「おしん」「家族ゲーム」「細雪」が話題になったし、出版界でも同様に家族論のブームが起こり、シリーズ『いま、家族を問う』や『家族史研究』が刊行された。こうした話題作りやブームが映し出しているのは社会の深部における動向である。家族の変容じたいはすでに1970年代後半に始まっている。テレビドラマ「岸辺のアルバム」(1977年)はその予兆とされる*8。
 ここで家族の「変容」や「漂流」とは何を意味しているのか。それは「核家族化」の進行でもなければ、逆にその崩壊過程でもない。夫婦と子供2人からなる「核家族」は、形の上では、戦後一貫して社会制度の設計の標準となっている。統計によれば(『2014年度高齢社会白書』)、全世帯のうち核家族世帯は59.29%、単独世帯27.19%、残るは三世代世帯6.9%、その他6.8%である。このように形の上ではあいかわらず核家族が6割を占めている。それでは、「変容」や「漂流」は何を意味しているか。
 その答えは、「家族」という名の共同体の求心力のゆるみやゆらぎである。したがって多様なつながり合いを受け容れる許容の幅の広がりでもある。もちろん、ゆらぎあるいは広がりは日本社会だけに固有な動向ではなく、1970年代以降の北欧を含めて先進各国に共通している。湯沢・宮本みち子編『新版データで読む家族問題』(出版社、年)をながめると、家族の漂流という現象が全体社会の機能分化にともなう多様化の現れであることが見えてくる。家族の形は親族集団の中の一員から、連帯する個人からなる核家族、そして「おひとりさま」をへて、多様な対関係(ダイアド)へと移行しているが、そうした多様化は今後ますますグローバルに広がるものと予想されている。
 問題は、そのような動向にあって家族の高齢化が急速に進行していることである。2014年現在、65歳以上の高齢者を含む世帯は全世帯の43.4%を占める。4割を超える世帯に老人がいる。そのうち高齢核家族世帯は56.6%であり、ここでも6割近くを占める。つまり、全世帯の4分の1が夫婦とも高齢者か、高齢の親プラス未婚の子なのである。他方、高齢単独世帯は24%になるから、全世帯のおおよそ10分の1を占めている。両者を合わせると3割を大きく超える。高齢夫婦、高齢親プラス未婚の子、高齢単独の割合はほぼ同じである。高齢化した核家族はやがて消滅するか、単独世帯になる。
 ところが、家族の高齢化の只中の2000年、介護保険制度がスタートした。これは家族による介護(共助)を社会全体で支援しようという仕組み(公助)である。そして2006年には「病院・施設から地域・在宅へ」という政策がいっそう強調され、「地域包括ケアシステム」が提唱された。しかし、そこで想定されているのは、介護できる家族であり、居場所としての自宅(持ち家)である。これを<在宅主義>と呼ぼう。ちなみに、戦後の住宅政策は産業政策の一環であり、狭小な持ち家の所有を誘導し、安価で良質の公共住宅を供給してこなかった*9。その結果、老朽化して手狭な公営アパートではバリアーフリーにできず、民間の賃貸アパートではそれに加えて家賃が老後の生活を圧迫することになる。
 目下のところ「地域包括ケアシステム」はそれほど機能していないように見える。導入されてからの年数が浅いせいか、高齢者の7割がそれについて知らないという報告がある*10。また、地域のつながりが弱まっているため、システムの担い手が地域にいないこともある。たしかにコミュニティの介護力が落ちている。しかし、それ以上に問題なのが<在宅主義>である。これを柱としているために制度設計の最初から躓いている。家族の変容・漂流と高齢化によって、家族の介護力が著しく低下するという事態がそもそも織りこまれていない*11。この評価は厳しすぎるかもしれない。しかし、介護する子世代が共働き夫婦か専業主婦の場合、要介護度が低いうちはヘルパーの支援を受けて何とか乗り越えられるが、要介護度が高くなるとお手上げになり、白昼独居(寝かされきり)、介護離職、そして生活困窮が待っている。それが老老介護や認認介護になると、事態は最初から深刻であり、最悪の場合には心中や殺人や遺棄が待っている。
 けっきょく、どうやっても老人たちは寝たきり(寝かされきり)の状態になる。「家で最期を」という願いは、(施設に移れないから)「家しかない」になり、そして終には「家にも居られなくなる」。送られた先の施設で寝たきりになるのがはるかに速いのは、言及するまでもない。突破口はどこにあるのだろうか。

1.4 孤立・無縁化とコミュニティの転換期
 ここで孤立や無縁化の現象に注目しよう。高齢単独世帯(つまり一人暮らしのお年寄り)は、大まかにいうと国民の全世帯の1割を占めている。大都市の内部であろうと、過疎地の奥であろうと、被災した仮設住宅であろうと、老人たちが孤立し、無縁化しつつある。孤独の中で死ぬ人も少なからずいるが、一人暮らしする事情はさまざまである。高齢化率50%で全国一の中津江村の例では、高齢になればなるほど暮らしの不便さが増すにもかかわらず、子供のいる都会に行こうとせず、住み慣れた土地から離れたがらない*12。都会では孤独死を望む人もいるかもしれない。ただし、いうまでもなく、単独・単身・孤立という現象は老人だけではない。若い人や中高年も含めて単身世帯が急増し、全世帯の3割に達している*13。
 コミュニティの介護力の観点から孤立や無縁化の現象を歴史的にながめてみよう。ここでコミュニティとは「顔の見える対面的コミュニケーション」の集合体としての地域(村や町)を意味する。社会編成の原理についてはルーマンの見解に準拠する*14。
 日本列島で形成されたコミュニティの起点はもちろん原始社会である。そこでは親族単位の集落が自足自給的に点在し、相互に交易を通じて結びついていた。社会編成の原理は「環節分化」である。次の古代社会では部族連合を通じて国家が形成され、文字やシンボルを通じて氏族単位の集落(郷村)が支配された。ここでは「中心/周縁分化」が編成原理である。転換は中世に起った。古代の村落構造がなし崩し的に変容し、新たなコミュニティ(惣村や町)が日本列島の津々浦々で形成された。編成原理は「身分階層分化」である。こうして新たに形成されたコミュニティは伝統的な村落構造としてその後も長らく存続し、近世の幕藩体制を通じて閉鎖的になり、より強固にされた。そして中央集権化と機能分化を編成原理とした近代国民国家の中でも、再編されつつ存続してきた。しかし今日、親族集団の「家」が三世代家族から核家族へと縮小し、これがさらに変容し高齢化する中で「おひとりさま」や「単独世帯」が大量に生じている。かつての構造の外殻は残っているが、メンバーをつなぎとめる共同体の求心力がもはやゆるみ、明らかにゆらいでいる。
 以上をふまえるなら、孤立や無縁化という現象を、日本史上の第一の転換によって生じたコミュニティ構造が解体・崩壊した結果として否定的に眺めることもできる。しかしそれとは逆に、それをゆるやかな新しいつながりの端緒であり、新たなコミュニティの形成の萌芽として肯定的に眺めることもできる。後者のように捉えるなら、孤立や無縁化は第二の転換期の胎動あるいは振動ということになる。本論文では、後述するように接続可能な老成社会へとつなげるねらいから、後者の肯定的な見方により力点をおきたい。コミュニティの新たな創出とみる観点からいえば、放射線被災地の福島で試みられている村おこしや村再編の動き*15は、強いられたものではあるが先駆的な社会実験といえるだろう。

第2章 <老成学>——自己に再帰するネオ・ジェロントロジー

 一方に元気で活動的な老人たちの大群がいる。他方ではたらい回しされ、行き場を失った老人たちが寝たきりになっている。家族が変容し高齢化する中で家族による共助の力が弱体化している。それとともに地域コミュニティの支える力も落ちている。そこでこう考えてみてはどうか。地域の元気な老人世代に関与してもらうことによって家族機能を補完できないだろうか、と。このアイデアを敷衍してみよう。

2.1 「身近な他者」としての元気な老人世代
 アイデアの核心は「身近な他者」としての老人同世代による<共助>である。ここで「身近な他者」とは、私が代理出産に絡めて子育て(産育)の場面で提唱した方法であり、一人の子を地域ぐるみで大事に育てるために、従来の家族や親族の枠をはみ出して結集した人たちのことである。この方法を拡張して介護の場面に当てはめたとき、老人による同世代間の「共助」というアイデアが生まれる。
 その「共助」において焦点となるのは、「認知症」をかかえた老人とその介護家族である。目下のところ、介護をめぐる問題の中心には「認知症」がある。老人全体の5分の1が「認知症」になり、80歳台後半から90歳台ではそのほとんどが認知症になるといわれる。日本(2015年)には700万人の認知症患者がおり、早期発見・早期治療の対象とされている*1。もはや国民病というほかない。
 とはいえ、「認知症」には医学的にみて問題が含まれている*2。それは主に老人に特有の症状の総称である。脳内の原因疾患には「血管性」「アルツハイマー型」「レビー小体型」「前頭側頭型(ピック病)」などがあり、その違いによって症状が様々になる。他方、それとは別に若年性認知症(とくにアルツハイマー型)があり、40〜50歳台で発症する。日本には約1万人の患者がいるとされる。じつはこちらの若年性脳疾患のほうが、アルツハイマーによって発見され、1910年に教科書に記載された元々の病気(疾病)である。ところがその稀な疾患が1970年代の米国で老人性症状と一緒にされ、「アルツハイマー病」と呼ばれるようになった。その結果、日本でも700万人の患者が誕生することになった。2004年には「認知症」に改称される。しかし、物忘れ(健忘)=アルツハイマー病=認知症という常識はすでに過去の話である(DSM-5)。日本では血管性が多いとされるが、1960年代まで「老化」特有の症状とみなされていた。それがいまでは早期発見・早期治療(したがって薬漬け)の対象になっている。
 そのように医学的には問題含みの「認知症」ではあるが、これがいま「徘徊」、「弄便」、「行方不明」、「交通事故」、「共倒れ」、「介護殺人」、「介護心中」等として社会問題化している。重度になると家族による介護はほぼ不可能になり、施設に任せるほかない。そしてそうなると確実に寝たきりが待っている。この事態は上述したように介護保険制度の想定を超えている。こんな例がある*3。

認知症の夫を介護する女性が近所の人から匿名の手紙を受け取った。そこには「あなたの夫が日中戸外で女の人に向かって下半身を露出している」と書かれていた。その丁重な手紙に女性は強いショックを受け、また申し訳なさも感じて、夫が勝手に外出できないように自宅の鍵を二重にした。女性の夫は三年前にアルツハイマー型認知症と診断された。自転車で出かけて行方不明になったこともある。手紙で忠告される数日前には自宅の駐車場で用を足している姿を見かけた。下半身の露出はその流れの中で起きたのではないかとは思う。とはいえ「このままでいいのか」と悩んだ。その挙句、県外の山間地に引っ越すことも考えた。しかし、気を取り直して地元の介護者支援団体に相談した。支援団体が自治体に連絡してくれた。そのおかげでデイサービスを利用できるようになった。ただし、根本の事態は変わっていない。なお、同じ欄には専門家のアドバイスも載っていた。それには「警察にも相談しておいたほうがいい」、「前頭側頭型の疑いがある」とあった。

 ここで注目したいのは親切心から匿名の手紙をくれた「近所の人」である。匿名の連絡以外の関わり方はなかったのだろうか。ターミナルケアの場面では、医療や介護のプロとは別に近所の人たちの協力がなければ、一人暮らしの老人が自宅で最期を迎えることはできないという*4。近所の人たちの関与は側面からだとしても重要であろう。そこには同世代の老人たちも含まれる。軽度の認知症段階でなら近所の老人たちでも何とか共助できるだろう。
 近所にいる「身近な他者」としての老人世代の社会的関与にとって、原点(アイデアの起点)となるのは介護場面における<共助>であり、しかもとくに「認知症」をかかえた老人をめぐる介護現場である。とはいえ、彼らの社会的関与をそこだけに止めておくのはもったいない。老人世代の関与を共助から広げてさらにコミュニティづくりにまで活用できないだろうか。このような拡張は共助のための必要条件としても要請される。なぜなら、問われているのはたんなる介護の個別支援というより、むしろコミュニティの介護力だからである。コミュニティとしての底力がなければ介護の共助も支えきれないだろう。
 本論文では老人世代の社会的関与に焦点を合わせている。しかしもちろん、共助にせよコミュニティづくりにせよ、老人世代だけが活躍すればそれで万事片付くわけではない。老人世代とともに中年世代や青年世代がそれぞれの長所を生かしつつ、相互に補い合うことが望ましい。例えば、先述した大分日田市の中津江村では、都会からやって来た青年が老人たちの身の回りのことを支援している*5。これは青年世代による関与の事例であるが、それとは逆に、元気な老人たちが関与することがあってもいいはずである。老人世代も含めて三世代が役割を分担しなければ、おそらく持続可能な社会は支えられないだろう。そのためには老人像の転換が必要である。

2.2 老人像の転換とネオ・ジェロントロジー
 老人ないしは老いには多様な側面がある。それに関連する言葉を拾ってみる。身体的次元でいえば「老弱」「老衰」「耄碌」などがある。同様に、経験的次元では「老獪」「老練」などが、社会的次元では「老残」「老醜」「養老」などが、そして精神的次元では「長老」「老師」などが浮かんでくる。日本の中世社会では「翁=神仏」であったように、過去の時代には老いの積極的な側面も考慮されていた*6。そしてそれは今日、「老人=語り部」のうちに受け継がれている*7。しかし、近世から近代にかけて老いの多面性が消えていく。とくに戦後の日本社会では次の2タイプの老人像に限定される。
 1つは、家族的・受動的老人像である。60歳で隠居し、補助的・欄外的な形で役割を果しながらつましく暮らし、家族から世話を受けつつ最期は看取ってもらう。ここでは家族的な受け皿が自明視されている。この老人像は1970年代に起こった米国のシルバーパワー運動によって「エイジズム」として批判された。しかし、NHKや民法のテレビ番組を見れば分かるように、現在でもたえず再生産されている*8。マスメディアが「家族の絆」を好んで強調するのは、人々がそれを希求しているからである。人々はなぜ希求するのか。震災後の状況を見ても分かるように、現実の家族が望ましい姿から乖離すればするほど、その分だけ家族という共同性への憧れは強くなる*9。
 もう1つは、個人的・能動的老人像である。定年後は人生のほぼ3分の1近い第二の人生が待っている。自活して健康な老後を過ごすために、ボケ防止の健康体操や犬の散歩を欠かさず、スポーツジム通いも日課に組み込む。歩けるうちは海外旅行をするが、もちろんツアー参加のビジネスクラスである。さまざま趣味や習い事を楽しみつつ、社会的意義を感じたくてボランティア活動にも参加する。このような老人像を裏打ちし、かつ拡大再生産しているのが、第1章の1.1で言及した既存の二つのジェロントロジーである*10。
 ところが、そのような夢を打ち砕くのが老人世代の階層二極化である。この危うい現実を前にして新たに浮かび上がるのが、三つ目の共同的・能動的老人像である。定年後も何らかの形で仕事を継続する。生活のために仕事をせざるを得ないという事情がある。支えつつ支えられる関係の中で、仕事やボランティアによって種々の社会的関与を行う。この社会的関与を通じて同世代や他世代から尊敬され、これが生き甲斐となって幸福感をもつ。社会的関与は間接的に健康づくりにも寄与する。このような老人像を地域のコミュニティ再生へとつなげるためには、新たに理論的な視点が要請されるだろう。それが<老成>の視点である。

2.3 <老成>の視点と<老成社会>
 <老成>とは、老いが老いに成ること、つまり、老いが老い自身を再帰的に意味づけ直すことである。この視点にたてば、老いは熟成のように完成した状態ではなく、不断に自己更新するプロセスとして捉え返される。英語で表わせば、”Age-becoming” または ”Re-ageing”になる。
 <老成>の視点から個人と社会をながめてみよう。個人のレベルで老成するとは、老いた個人が自身を意味づけ直すことである。これをさらに展開すると、老人が自分自身の社会的関与の仕方を捉え直すことになる。他方、社会のレベルでは、老いた社会が社会自身を意味づけ直すことであり、延いては老人世代が自分たちの社会的関与の仕方を見直すことである。「老いた社会」という表現は分かりにくいかもしれないが、こう考えてはどうだろう。近代化の延長線上にある現代社会は人口構成上では「高齢社会」であり、「高齢社会」とは「老いた社会」にほかならない、というように。
 世代的な社会関与の見直しの中から浮かび上がるのが、老人世代の経験と知恵が活用される社会、すなわち<老成社会>である。これは「一億総活躍社会」という総花的で拡散的なイメージではなく、ターゲットをとくに老人世代に絞ったいわば老人活躍社会である。この未来社会では老人たちは社会的関与を通じて他世代から尊敬を受け、生き甲斐と生きる喜びを感じる中で、溌剌として健康にもなるだろう。その社会的関与は介護場面の共助にとどまらず、社会の全領域に及んでコミュニティづくりにつながる。
 <老成社会>は地域の住み慣れたコミュニティを基盤とする。この点で既存の社会モデルとは違っている。一例を挙げよう。政府の地方創生会議では現在、先にも言及した日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community)を目玉の一つにしている*11。これは老人だけが暮らすコミュニティであり、米国に多く見られるシルバータウンの日本版である。そこでは相互共助が旨とされ、それを大学や企業がバックアップする。また、老人が例えば地域の教育に関与する形の多世代共生も謳われる*12。しかし、そこは住み慣れた地域ではない。
 老中青の三世代が住み慣れた地域の中でコミュニティづくりをめざし、それぞれの特徴を発揮しながら補う合うことによって、はじめて持続可能な社会が期待できるのではなかろうか。振り返れば、国民国家を立ち上げた日本の近代社会は、富国強兵の政策を推進する中でピラミッド型の人口構成になった。そこでは家族と企業による共助が介護・福祉の中心だった。その後の国家総力戦の敗北を経て、戦後社会の人口構成は少子化・高齢化によって次第に釣鐘型になった。それに対して持続可能な社会の人口構成は、総人口が減少する中でおそらく鉛筆ロケット型になるだろう。ここでは30年区切りの三世代がいて、支えつつ支えられる関係の中で相互に関与し合う。
 ただし、もちろん問題もある。例えば、釣鐘型からロケット型へとスムーズに移行できるのだろうか。また、かりに移行できたとしても、異常気象による自然災害や戦争のリスクが否定できないかぎり、三世代のバランスといっても短命であるかもしれない*13。あるいは、高齢化がますます進行すれば、老化にともなって「認知症」をかかえる老人も増加する。そのとき、老衰による自然死を待たずに自発的安楽死を願う声が強まるかもしれない。社会はその答えを用意しておく必要に迫られる。

2.4 <老成学>の理念
 <老成学>とは、再帰的な視点を組みこんだジェロントロジー、つまり、不断に自己に再帰すジェロントロジーである。この老成学が最終的にめざすのは、地域に暮らす老人世代が同世代・多世代に向かって社会的に関与する中で、ともにコミュニティづくりを担うことを通じて地域の中に持続可能な社会を実現することである。
 そのためには社会の全領域を視野に収める理論的枠組みが不可欠である。しかし、従来のジェロントロジーにはその種の社会理論(社会システム理論)が欠けていた。その反省に立って老成学では理論的枠組みを用意している。それが、意味の基本構造にもとづく<4領域構造>であり、意味コミュニケーションシステムをふまえた<媒介的関与>である。前者の解説については補論に回し、本論では後者について次章で論じる。この<媒介的関与>は後述するように、四つの社会的コミュニケーション群(協働・共助・協治・共有)に向けて具体化される。
 以上のように、老人世代の全社会領域にわたる関与に焦点を合わせるかぎり、<老成学>は関連する諸学問分野を横断しつつ統合する役目を負う。ここで関連する諸分野とは、二つのジェロントロジー、ジェネティクス、ジェネオロジー(生殖・出産学)、子ども学、若者論、女性学、ケア学、死生学、ボランティア論、社会保障論、社会疫学等の諸分野である。<老成学>の当面の研究目標は、社会の全領域にわたって<媒介的関与>を実現するための条件を探求することであり、そのために国内外の先駆的な事例をできるかぎり収集し、その上で多様なモデルやスタイルの試みをつなぎ合わせて国民に提示することである。
 ここで<老成学>の理念を明確にするために「J-AGES」と比較してみよう。J-AGRSとは日本老年学的評価研究の略であり、2003年に開始された社会疫学の大規模アンケート調査である。この調査の窓口は自治体である。2016年段階では全国30の自治体が参加し、調査協力者は約14万人に及ぶ。調査項目は健康と生活に関して網羅的であり、これにもとづいて地域包括ケアのための政策づくりをめざしている。また、身近な援助や地域のつながりに関する項目も充実している。最新の改訂版では転倒防止に重点がおかれ、介護予防の政策づくりが目標になっている*14。
 それに対して老成学では、第一に、「ソーシャルキャピタル」のターゲットとして、地域の老人人口全般ではなく、近所にいる元気な老人世代が想定されている。第二に、彼らの社会的関与の仕方に関しては、新たに媒介型のボランティアが考えられている*15。これについては次章で説明する。第三に、媒介型の関与に参加する条件の探究が関心の焦点にある。第四に、「認知症」の老人をめぐる現場が研究の起点であり、ここでのモデルが社会的関与の原点になっている。第五に、四極機能連関構造(理論的枠組み)にもとづいて社会の全活動領域が整理され、その上に介護の共助を含めて老人世代の社会的関与が配置され、それらが合わさって全体としてコミュニティづくりになるように工夫されている。その点でいえば、J-AGESと違って健康はアプローチの一つにすぎない。第六に、先駆的・先進的な団体や地域が選定され、参与観察と定点観測を通じて、媒介型の社会的関与への参加の条件が探索される。この意味ではフィールド実践学といえる。

第3章 潜在的な対立構造とコミュニケーションモデル

 「認知症」をかかえた老人をめぐる介護現場に立ってみよう。その中心にいるのは「認知症」の当事者本人と介護する家族である。この両者のあいだには、「できない自分」へのいらだち、見慣れぬ世界に対する不安、周囲の視線、介護による体調不良や不眠など、さまざまな対立・葛藤の根が潜在している。そしてこの両者を介護プロや医療プロや行政プロが取り囲んで支援している。そこにもまた複雑な対立・葛藤の状況が広がっている。このような介護現場の中で、近所に住む比較的元気な老人たちに可能な関与とはどのようなものか。本論文の答えは<媒介的共助>である。この中身を詳らかにするためには、あらかじめ医療倫理を典型例にとって対立構造なるものを把握しておかなければならない。

3.1 疾患・視点・コミュニケーション
 医療倫理における対立構造を把握するには、疾患タイプ、患者への視点、それにコミュニケーションモデルの違いについて、前もって押さえておく必要がある。
 一つめは疾患タイプの違いである。傷つき病み苦しむ人が医療システムの内側に入ると「患者」になるように、病気も医療システムの中では「疾患(または疾病)」になる*1。他方、人間が生命システムと情動システムと自己意識システムという三つのサブシステムから成り立つとすれば*2、すべての疾患は生命システムにおける生体分子の接続の異常とゆるやかな形で関連している。その限りでいえば、疾患はすべて生物身体の疾患であるといえる。しかし、その発現の仕方や態様は多種多様であって、例えば、個体の身体機能の不全、発生・発達における障害、情動や思考のコントロールしがたさ、社会的な異常行動のように、問題の焦点がそれぞれ違ってくる。以下では対立構造を論じるために無謀さを省みず、あえて通常の病理学の教科書とは異なる分類を試みよう。
 まず、圧倒的に多いのは①癌や感染症や関節炎のような身体疾患タイプである。このタイプでは身体の特定部位の異常によって身体の全体が影響を受け、日常生活に支障を生じる。次に、②発生・発達の形成異常に関連して個体の形態や機能が影響を受ける疾患タイプがある。遺伝子単一病などの先天的な疾患がこのタイプである。他方、③脳・神経の異常に原因をもち、記憶や人格の変容にともなう不安感から、行動やコミュニケーションのトラブルを発生させる疾患タイプがある。「認知症」がこのタイプである。最後に、④うつ病、自閉症、サイコパスなどの精神疾患タイプがある。このタイプの原因に関してはクレペリン以来、脳の分子接続異常という説が有力であるが、それ以外の諸説もある。ここでは自己や世界の認識の歪みに基因する独特のタイプとしておこう。
 二つめは患者に対する視点である。医療現場では、職業倫理や、組織倫理、家族倫理、一般社会倫理、生命倫理、法規制など、複数の倫理的な視線が交錯するアリーナである。ここでは患者に対する視点をさしあたり四つに分類できる。まず、患者を生物として捉え、また疾患部位を部品とみなしがちな医学的視点がある。次に、患者の人間的な心理に注目する共感的・実存的視点がある。あるいは、患者の権利と社会的人格の対等さに注目する法的・政治的視点がある。そして最後が、患者の存在や歴史といった価値に注目する社会的・歴史的視点である。これらの視点は補論で説明するように、それぞれ異なる価値理念にもとづいており、相互に独立している。
 三つめがコミュニケーションモデルの違いである。このモデルには次の二つがある。図1a, 1bを見よ。

 一つは<片側同化>モデルである。ここでは双方の側が一方的な説得(啓蒙・啓発や情動的な訴え)を通じて、自分の立場に相手側を引き寄せ、最終的に同化することをめざす。これにはさらに二つのサブタイプがある。専門家(または為政者)の側が説得を通じて非専門家(または民衆)の側に働きかけるタイプと、その逆で、非専門家の側が感情を総動員して自分たちの見解を専門家の側に押しつけるタイプである。救急医療の現場には今日でもこのモデルが通用している。
 もう一つは<両側合意>モデルである。これは双方の側が話し合いを通じて相互を理解し合い、最終的に合意に到るというモデルである。臨床のコミュニケーションではこのモデルが理想と考えられている。医療者側はベストの治療法や予後を提出し、患者側は自分の希望や人生観を語る。そして相互理解の末に最善の治療が選択される。たしかに慢性病の場合ではこのモデルは魅力的に見える。しかし、そこでは双方の側の視点の違いが軽く考えられ、理解の捉え方も表面的であるといえる*3。

3.2 医療倫理における対立構造
 以上で指摘した3点の違いを総合して捉える中で、医療倫理をめぐる対立構造を際立たせてみよう。ここで際立たされる対立構造は医療現場に限らない。社会組織の一般的な場面でも、もちろん介護の現場でも基本的に見られるものである。
 医療の現場では長らく、医療者と患者の家族が阿吽の呼吸の中で患者にとって、最善と考えられた治療または処置を選んできた。医の倫理は伝統的にそれを正当化してきた。これは典型的な<片側同化>モデルである。近代医学の誕生以降でもこのモデルが基本的に通用していた。その場合、おもに想定されたのは糖尿病や感染症などの身体疾患であり、また支配的な視点は医学的である。しかし、長年の医療倫理の慣行を「パターナリズム」として非難する動きが1960年代後半の米国で生まれた。バイオエシックスである。そしてこの動きは1980年代から1990年代にかけて世界中の近代医療先進国へと急速に広まっていった。バイオエシックスは政治的・法的な権利の視点にたって患者の自律(知る権利と自己決定の権利)を強調した。したがってこれまた<片側同化>モデルである。
 ところが、以上の二つの倫理同士には共通点がある。バイオエシックスは政治的・法的視点だけでなく近代医学の視点をも前提しており、その上で自己決定と両立する身体疾患タイプを想定していた。そのため、当初は鋭く対立していた両者であるが、やがて折り合えるようになった。こうして「インフォームドコンセント」の手続きと「倫理委員会」の装置が制度化され、二つの<片側同化>モデルの対立を乗り越える方向として、<両側合意>モデルが位置づけられた。図2を見よ。
しかし、そのような<両側合意>モデルを断固として拒否したのが、障害者運動・障害学である。アリシア・ウーレット著『生命倫理学と障害学の対話』(安藤泰至・児玉真美訳、生活書院、2014年)によれば*4、障害者運動の側にとって焦点となるのは身体疾患一般ではなく、発生・発達疾患タイプである。そしてその種の「障害」に対する社会の否定的な視線による差別と苦しみが原点にあり、これに向けられた共感と連帯が倫理の起点でなければならない。したがってそもそも「疾患」という医学的視点じたいが拒絶される。また、「倫理委員会」という合理性の装置ではなく法廷闘争が選ばれる。これはつまり極端な<片側同化>モデルである。この立場からすれば、バイオエシックスの<両側合意>モデルも<片側同化>モデルの偽装にすぎない。図3を見よ。

 こうしてここに二つの<片側同化>モデルの対立が際立ってくる。ただし、このような対立構造は発生・発達疾患タイプの障害だけに特有なのではない。歴史的に見るならむしろ精神疾患タイプにおいてこそ典型的であったし、今日では脳疾患タイプのとくに「認知症」をめぐって露呈している。要するに、二つの異質なコミュニケーション同士の対立、二つの異なる(閉鎖的な)意味づけ同士の対立なのである。医療現場を離れて社会組織における政策決定の場面に広げてみれば、決定する側と決定の影響を被る側のあいだで、その種の対立はいつでも発生している。そうだとすれば、そうした対立構造を解きほぐすためにはどうすればいいのか。求められているのは新たなコミュニケーションモデルである。

3.3 対立の移動をめざす<両側並行>モデル
 本論文の回答は<両側並行>モデルである。図4を見よ。これは双方の側の「一致」をめざさない。<同化>も<合意>も「一致」である。そのかわり、現状の硬直した対立の場を流動化し、別の対立の場へと移動させることを目標にする。なお、このモデルの前提にあるのは<自己変容システム>という捉え方である。このシステムは外的刺激を変換して受容しながら、内部において意味を解釈することを通じて自己変容する。双方の側が相互に外的刺激となって自己変容する中で、対立の場そのものも変容することになるが、この論文ではこれ以上は詳述できない*5。

 もちろん、対立の場の移動といっても多様なパターンがありうる。双方の側が接近してほとんど重なるパターンもあれば、いっそう離反して対立が激化するパターンもあろう。<片側同化>や<両側合意>というパターンは、多様なパターンのうちの一つ、極限パターンとみなすことができるだろう。現実のケースで例証しよう。
 2005年の福知山(別名は宝塚)線事故をとりあげる。死者は運転士を含めて107名、負傷者は562名にのぼる。大惨事であった。被害者遺族とJR西日本は話し合いのテーブルについた。被害者遺族側が事故の責任者の徹底追及と事故原因の根本究明を要求したのに対し、JR西日本側は事故の責任は運転士個人にあり、会社組織は無関係と弁明した。2015年までに27回の話し合いがもたれた。その結果、会社側はヒューマンエラーが起こりうること、組織内の連携不足が在ったことを認めた。対する遺族側は再発防止を遺族の使命と考えるようになった。しかし、対立構造はそのままであり、解消していない*6。
 以上の事態をどのように評価するか。「一致」を目標にすれば、対立の関係が残るかぎり否定的な評価になる。しかし、双方の側が自己変容して対立の場が移動しているかぎり、<両側並行>モデルでは肯定的に評価できる。時間はかかってはいるがこれが対立の現実の動きであり、それに沿った形で対立構造をとらえる必要があろう。ただし、もしもそこに<両側並行>モデルを体現した媒介者がいたら、ここまでに辿り着く時間はもっと短縮されたかもしれない。そして、後悔と苦しみは消えることはないにせよ、多少とも軽減されて癒されることになった可能性はある。たしかに時間が解決(解消)するが、人間はその時間を短縮できるはずである。

3.4 両側並行モデルの<媒介者>
 関係し合う双方(ないしはそれ以上の複数者)のあいだに一定の対立構造が横たわるとき、それを解きほぐすよう働きかける媒介者(仲介者)には、大まかにいえば次の4タイプがある。すなわち、<中立者>、<仲裁者>、<合意形成者>、<助言者>である。図5を見よ。いずれのタイプも話し合いのテーブルを準備する点では共通しているが、その先の関与の仕方が違っている。

 最初の<中立者>は、話し合いのテーブルを用意した後ではいかなる関与もしない。ただ外部から見守るだけである。話し合いを通じて何事かを決めるのはあくまで双方の当事者の側である。その意味で放任であり中立である。話し合いの結果、対立の状況が継続するか、いっそう激化するか、あるいは消滅するかについては関知しない。
 二番目の<仲裁者>は、話し合いの推移を見守りながら、それが膠着状態に陥ったとき、自身が最適と考える仲裁案を提示する形で関与する。そして強引に調停にもっていくことによって対立を解消する。日本の家庭裁判所の調停制度がその典型例であるし、国際紛争の調停でもこのパターンが多い。いずれにせよ、仲裁案は外部からの強引な同一化である。
 三番目の<合意形成者>は、話し合いの過程の節々で関与し、論点を整理して議論の方向を定める。そうやって合意へ向けて議論をリードし、誰もが納得できる合意をめざす。ただし、合意といっても、気象温暖化対策をめぐる国際会議(COP21のパリ協定)の例のように合意のための合意であったり、利害関係者のあいだの妥協の産物だから玉虫色の解釈を許したりすることが多い。それはともかく、合意形成者の理性的な視線は個別の利害関係を超越する。
 最後の<助言者>は、その他のタイプと違って話し合う当事者たちの外部には立っていない。対立し合う当事者たちと同一平面上にいて、見つつ見られる(観察しつつ観察される)関係にいる。そして双方の側の相対性とそれぞれの盲点を指摘しつつ、(同時に自分の相対性と盲点を自認しつつ、)その場その場で相応しい助言を与えることによって、双方の側の自己変容を促す。そうやって対立の場を流動化し移動させることをめざす。
 <両側並行>モデルにおける媒介者としてふさわしいのは、基本的には<助言者>である。老人世代が恵まれているのは、むろん身体能力ではなく、人生経験と知恵のほうである。したがって、老人世代には元来<助言者>タイプの関与が適している。これを<媒介的関与>と命名しよう。近所の老人世代による<媒介的関与>が「認知症」の現場つまり<共助>に向いているとすれば、それは具体的にはどのような<共助>になるのだろうか。それを<媒介的共助>と呼ぶ。次章ではその中身にふみこんでみよう。

第4章 「認知症」老人の主観的経験と<媒介的共助>

 ここでふたたび「認知症」の老人をめぐる介護現場に立ちかえる。そこには「認知症」の当事者の老人と看護する家族、この当事者を支援している介護プロや医療プロや行政プロ、そのほかにボランティア団体がいる。しかしここで忘れてならないのは、隣家の介護状況をそれとなく見ている近所の人々であり、とくに元気な同世代の老人たちである。近所の老人世代に注目してみよう。彼らに期待できるのはどのような<媒介的共助>だろうか。図6を見よ。その焦点は「認知症」老人の心理的ニーズとしての「主観的経験」である*1。それと同時に、介護する家族の心理をも織り込んだ両者の関係性もまた焦点である。しかし、そもそも主観的経験の世界とはどのようなものか。まずは、「認知症ケア」の対照的な二つのアプローチを比較する中で、主観的経験の相対的だが独自の次元を押さえておこう。

4.1 認知症ケアのアプローチと非還元主義的な枠組み
 その一つはいわゆる生物医学的・予防的アプローチである。これは「認知症」の原因疾患を脳の変性に求め、この観点から症状群とこれに起因する心理を推し量り、社会的な問題行動に対して効果的なケアを探る。その延長線上に早期発見・早期治療(薬漬け)を位置づけ、予防に心がける。これが現在の老年医学の主流である*2。もう一つはいわば実存的・社会心理的アプローチである。これは、記憶を失って途方に暮れる「認知症」の人が抱く不安感を正面から受け止め、人間的な限界状況の観点から彼らの行動を理解する。そしてそれにふさわしいケアを見つけて対応すると、症状が解消すると考えられる。このアプローチの好例が「パーソンセンタードケア」である*3。二つのケアの違いを図7a, 7bに示す*4。前者が下降スパイラル曲線になるのに対して、後者はレジリアンス波動曲線を描いている。

 ここで理論的な観点から評価を加える。人間は三つのサブシステムから構成されているとしよう*5。その三つとは、ミクロな生体分子の接続レベル、マクロな情動・イメージの接続レベル、それに記号を接続する自己意識レベルである。前者のアプローチは脳に還元する理論であり、生体分子の接続レベルからの一方的な因果的決定論ということになる。他方、後者のアプローチは経験主義であり、実地の臨床体験をふまえた直観にもとづいている。そしてこれまた逆方向からの因果的決定論といえる。
 ところで、二つのアプローチを総合したのが小沢勲の認知症理論とされる*6。これは脳疾患と中核症状と周辺症状から構成される。そのうち、脳疾患によって決定される中核症状のほうはいかんともし難いが、パーソナリティと環境の相互作用に基因する周辺症状に関しては、周囲からの適切なケアによって解消するとされる。小沢の理論は「認知症新時代のケア理論」として大きな影響力を有している*7。しかしすでに指摘したように、物忘れ=アルツハイマー病=認知症という等号関係を前提として中核症状を捉えている点では、一時代前の理論である。脳疾患と中核症状との接続の理論化を放置しているかぎり、二つのアプローチの総合というより、むしろ二元論にとどまっているといえる*8。

 そこで、還元主義的ではない非決定的論な理論を提案したい。図8を見よ。人間の三つのレベルでは、構成要素のあいだの接続がいつでも偶発的・未決定的あり、この不安定な接続を一定の接続パターンとしての<構造>がかろうじて安定的につないでいる。その上で、三つのレベルの<構造>同士のあいだをゆるやかに(偶発的・未決定的に)接続する二重の<ハイパー構造>が形成されている。したがって、そのような幾重にももつれ合う未決定性の上で、人間システムの三つのレベルのあいだに双方向の偶発的・未決定的な因果関係が生じることになる。以上のように考えられるならば、二つのアプローチを理論的に媒介できるだろう。
 具体的には、脳における多様な接続の異常(例えば特定タンパクのカスケード)は、身体レベルの多様な症状(記憶や見当識の障害)をもたらし、それが他者とコミュニケーションする自己の意識(不安)の中で多様な形で解釈され、問題行動(徘徊や弄便)となって表現される。あるいは、周囲の関与を通じて不安の気持ちが鎮まり、穏やかな心理状態によって症状が弱くなり、これが延いては間接的に生体分子の接続異常も停止させるという逆方向もありうる。ともかく、一つのレベルの接続のネットワークが、他の二つのレベルの接続のネットワークとゆるやかにつながる*9。こうして三つのレベルの接続のネットワーク同士が多重的かつ多層的に、多=多=多の非決定的な双方向の因果関係において連関する*10。
 以上の理論的媒介によって「主観的経験」の相対的に独自の次元が確保される。節をかえてその中味を把握してみよう。そのさい「パーソンセンタードケア」を提唱したトム・キットウッドの枠組みを検討する中で、当事者の「主観的経験」つまり自己内コミュニケーションと、そのような自己の双方からなる対面的コミュニケーションについて考えてみたい。

4.2 パーソンセンタードケアの「主観的経験」
 トム・キットウッドによれば、個々人の心理的ニーズ(主観的経験)は「愛の5枚の花びら」として把握される*11。図9を見よ。Love(愛)が花の芯にあたる。その周りを五枚の花びらが取り囲む。すなわち、Comfort(安らいだ心地)、Occupation(何かをしていること)、Attachment(親密なつながり)、Inclusion(仲間としての承認)、Identity(自分らしさの尊重)である。

 5枚の花びらはたしかに芸術的に美しい絵柄ではある。キットウッドはそれが経験と勘にもとづいていることを認めている。しかし、学問的な認識は情感豊かな芸術とは異なる。そもそもなぜケアはLoveなのか。しかもなぜこの5個になるのか。キットウッドには理論的な突き詰めが不足しているといわざるをえない*12。
 キットウッドはまた、主観的経験を有している個人の価値を低めたり、高めたりする行為が17個あるという*13。彼は臨床の経験を通じて最初に10個を抽出した後で7個を追加した。彼によれば、生物医学的アプローチにもとづくケアは個人の価値をもっぱら低めるだけである。これが従来のケアの文化であった。これに対して個人の価値を高めるよう働きかける新しいケアがありうる。それが「パーソンセンタードケア」である。さて、問題の17個とはこうである*14。

個人の価値を低める行為/高める行為
  ① 騙すTreachery/誠実に対応するGenuineness
  ② できることをさせないDisempowerment/能力を発揮させるEmpowerment
③ 子供扱いするInfantilization/尊重するRespect
  ④ 脅かすIntimidation/思いやり(優しさ・温かさ)を示すWarmth
⑤ レッテルを貼るLabeling/受け入れるAcceptance
⑥ 汚名を着せるStigmatization/個性を認めるRecognition
  ⑦ 急がせるOutpacing/リラックスさせるRelaxed pace
⑧ 主観的現実を認めないInvalidation/共感をもって分かろうとするValidation
⑨ 仲間外れにするBanishment/一員として感じさせるBelonging
⑩ まるもの扱いするObjectification/共に行うCollaboration
⑪ 無視するIgnoring/一緒にいるように感じさせるIncluding
⑫ 無理強いするImposition/必要とさせる(支援させる)facilitation
⑬ 放っておくWithholding/包み込む(安らぎを与える)holding
⑭ 非難するAccusation/尊重するAcknowledgement
⑮ 中断するDisruption/関わりを継続できるようにするEnabling
⑯ からかうmockery/一緒に楽しむFun
  ⑰ 軽蔑するDisparagement/尊び合うCelebration

 どう見ても、雑然とした印象を拭い去ることができない。重複もあれば、区別の難しいものもある。しかし、ここでもなぜこの17個なのか。経験的思考とちがって哲学的思考の特徴の一つは、データをふまえて形成された一般概念(法則)を合理的な観点からあらためて再構成することである。キットウッドの経験的な洞察を活かしつつ、それをまずは対面的コミュニケーションの基本に立ち返って再構成してみよう。

4.3 対面的コミュニケーションとその分化
 対面的なコミュニケーションとは、主観的経験をもつ個人同士が一定の意味をやりとりすることである。それは手探りから始まる。相手の行動の意味(情報と意図)は双方ともに不明である。いや、むしろ相互に相手が不明だからこそ、意味をめぐる偶発的で未決定的な接続が反復する。このコミュニケーションの原初の姿は、童謡「やぎさんゆうびん」に典型的に見られる*15。
 双方の内部では次のような理解のプロセスが進行している。すなわち、情報の受容→メッセージの解釈→比較→評価にもとづく行動選択である。ここで比較されるのは、相手の意図についての(客観的ではなく)主観的な解釈と、相手の立場に自分が立ったときの意図である。そのどちらも自他に関する自己内部の主観的な解釈にほかならない。
 やりとりの反復の中から予期と期待を通じてコミュニケーションが安定してくる。やがてそこに一定の接続パターンとしての<構造>が形成されるに到ると、対面的コミュニケーションは社会システム(短縮して「社会」)になる。ここでの構造とは<信頼Trust>である。
 以上は対面的コミュニケーション一般の話である。しかし、実際のコミュニケーションは双方の側の機能的な差異に応じて、大きく4タイプに分岐・分化する。すなわち、<能動—能動>タイプ、<受動—能動>タイプ、<能動—受動>タイプ、<受動—受動>タイプの四つである。図10a,10bを見よ。

 最初の<能動—能動>タイプでは、片側の能動に対して他の片側の能動が接続する。これには、操作に操作が接続する技術、片付けに片付けが接続する生活、労働に労働が接続する産業、支払いに支払いが接続する経済がある。これらのコミュニケーション群はすべて<実用性>の価値理念の下にまとめられる。
 次の<受動—能動>タイプでは、片側の受動に対して片側が能動でもって接続する。ここには、痛みや苦しみに対して癒す、困窮に対して助ける、未熟に対して育む、無知に対して教える、といったコミュニケーション群がくる。それらは<共同性>の価値理念を志向する。
 三番目の<能動—受動>タイプでは、片側の能動に対して他の片側が受動でもって応える。例えば、制度の執行に対する従順(行政)、慣習に対する尊重(秩序)、権力に対する正当化(政治)、権威に対する恭順(法)がそうである。ここで志向されるのは<統合性>の価値理念である。
 そして最後の<受動—受動>タイプでは、片側の受動に対して他の片側もまた受動で呼応する。ここに含まれるのは、認識に続く認識(科学的真理)、感動に続く感動(芸術)、懐疑に続く懐疑(哲学)、信仰に続く信仰(宗教)といったコミュニケーション群である。ここでめざされる価値理念は<理想性>である。
 以上に説明した4タイプのコミュニケーション群にそれぞれ適当な名称を与えて区別してみよう。<実用性>の価値理念をめざすコミュニケーション群には<協働>がふさわしい。同様に<共同性>群には<共助>が、<統合性>群には<協治>が、そして<理想性>群には<共有>がふさわしいだろう。したがって<共助>とは、<老成学>でいう<共同性>をめざすコミュニケーション群、すなわち「医療」、「子育て」、「介護・福祉」、「教育」に対する総称ということになる。

4.4  主観的経験およびケアの行為の再構成
 以上をふまえてここからいよいよ、「愛の5つの花びら」としての主観的経験(心理的ニーズ)と、個人の価値を低めるか高めるかする17個の行為について解釈を試みよう。
 まずは「愛の五つの花びら」からである。そもそもなぜ介護ケアは「愛」なのか。答えは<共同性>の価値理念にある。このタイプのコミュニケーションは受動的な状態に対して能動的な行為が接続する。この点では狭い意味の「愛」も同様である。恋する状態の相手に他方が応えることから愛のコミュニケーションが始まるからである*16。したがって<共同性>の価値理念とは広義の愛だといえる。介護ケアが<共同性>をめざすかぎり、それは愛なのである。
 続いて「Comfort安らぎ」の花びらをとりあげよう。人は終末期や被災時のような限界状況に直面したとき何を願うのか。平穏無事な日常への復帰である。突き詰めるなら<ひと時の安らぎ>になる。この意味で「安らぎ」は主観的経験(心理的ニーズ)の基礎である。最小限の幸福といってもよいだろう。さらにその上、死を覚悟した人が残された日々の中で求めるものは何か。私の見るところそれは次の4次元に絞られる。すなわち、❶ささやかでもいいから最期まで目標をもって過ごすこと、❷誰かが側にいてくれ(居場所がある)こと、❸同じ人間として対等な扱いを受けること、そして❹自分という存在を受け入れてもらうこと、である*17。独断を覚悟でいえば、それらが人間の最小限幸福を構成する4要素である。なお、なぜこの4次元になるかの理由は意味の基本構造に求められるが、この点については補論を見ていただきたい。

 最小限幸福としての「安らぎ」に含まれる4次元を展開・拡大すると、残りの4個の花びらになる。すなわち、❶Occupation何かができること、❷Attention親密な触れ合い、❸Inclusion対等な承認、❹Identity自分らしさの尊重である。これらは4極の価値理念によって区分される四極機能連関として再構成される。こうして、当事者の主観的経験つまり自己内コミュニケーションにおける心理的ニーズは、最小限幸福を核心とする四極の機能連関でもって把握できる。図11a, bを見よ。
 4次元の機能が一定のパターン(構造)を形成するとき、それは自己の生き方についての<信念Belief>になる。この信念が自己内コミュニケーションを方向づける(自己統治する)。ただし、自己内コミュニケーションの<構造=信念>は、対面的コミュニケーションの<構造=信頼>に接続するかぎりにおいて形成される。二つのコミュニケーションの構造のあいだには相互に変換し合うゆるやかなハイパー構造が形成される*18。
 次は、個人の価値を左右する17個のケア(コミュニケーション)である。介護ケアは<共同性>を志向するコミュニケーション群、つまり<共助>に属している。<主観的経験>の四極機能に対応して、この<共助>もまた4次元の機能に分割することができる。すなわち、❶協力遂行Co-Occupation、❷共感一致Co-Attachment、❸相互承認Co-Inclusion、❹個性尊重Co-Identity (respect)である。これらを4次元の機能図に配置し、そのうちに17個を位置づけてみよう。それが図12である。

 ここに見られるように、ある機能は4個であったり、別の機能は3個であったりしている。する。個数が問題なのではない。4機能に分類する原理さえ心に留めておけば、4個でも5個でも6個でも列挙できるだろう。「パーソンセンタードケア」の行為の分類が難しく感じられるのは、その分類に合理性がないからである。以上のように合理的に再構成すれば、そのような心配も消えることだろう。
 老人世代にとりわけふさわしい関与の仕方が<媒介的関与>である。そして<共同性>の価値理念をめざすコミュニケーションの文脈では<媒介的共助>になる。「認知症」の現場において<媒介的共助>が向かうのは、「認知症」をかかえる当事者の主観的経験であり、介護する家族の主観的経験であり、そしてこの両者の関係性である。この章では一歩ふみこんでそれらを四機能の枠組みで捉えてみた。<媒介的共助>はその枠組みを当てはめながら、当事者や関係者たちと同じ平面において支えつつ支えられる関係の中で、相対性と盲点を繰り込んだ適切な助言によって自己変容を促し、対立の場そのものの流動化と移動をめざす。

結章 <媒介的関与>によるコミュニティづくり

 前章の4.3で分類したように、対面レベルの社会的コミュニケーションには、<共助>として総称される<共同性>のコミュニケーション群のほかに、<協働>としての<実用性>のコミュニケーション群、<協治>としての<統合性>のコミュニケーション群、それに<共有>としての<理想性>のコミュニケーション群がある。これらの社会的コミュニケーションがつながり合う中で、地域の<コミュニティ>が形成される。ここでコミュニティとは、地域にねざしたゆるやかな集合体であり、家族や組織といった集合体とはレベルと性質を異にしている*1。
 以上をふまえるなら、老人世代にとりわけふさわしい<媒介的関与>には、<媒介的共助>だけではなく、<媒介的協働>や<媒介的協治>や<媒介的共有>があることになる。そしてこれらを特定の地域において媒介してつなぎ合わせることが、老人世代によるコミュニティづくりということになろう。図13を見よ。

 さて、ここで二つの実践的な課題に直面する。一つは<媒介的関与mediate involvement>の具体的な方法である。例えば、それは仕事かそれともボランティアか(NPOはどのように位置づけられるのか)。あるいは、現場に介入する複数のプロのあいだをいかにして媒介するのか。もう一つは<媒介的関与>に参加する条件である。どのような条件が揃えば、近所の老人たちが活動に加わってそれを担ってくれるのか。以上の二つの課題の答えを見出すためには、全国に目配りして先駆的な事例(人物や団体)を収集する必要がある。その意味でいえば老成学はフィールド実践学である。以下では研究プログラムも兼ねて、参考モデルとなりそうな実例をあげておこう。
 一つめは<媒介的共助>である。<老成学>の原点は「認知症」をかかえる老人の介護現場である。この現場で近所の老人世代はどのような関与を期待されるのか。さしあたり参考になるのは京都の「認知症オレンジカフェ」である*2。
 ここでの取り組みは次の理念にまとめられている(これまた四本柱として再構成できる)。すなわち「①自分らしさを発揮し、社会とのかかわりをもてる場所とするともに、②情報交換や共感ができ、心が安らぐ場所を提供する。その結果として、③認知症への偏見をなくし、④認知症になっても暮らしやすい地域をつくる」。具体的な方針としては、「若年性認知症や軽度の段階の人に対するケアの空白を埋める」、「認知症サポーターとして(明日は我が身の)老人世代に働きかける」、「学生ボランティアや専門職(つまり多世代他職種)に協力を求める」、「民生委員や自治会・老人会の役員を巻き込む」がある。いずれも注目に値する。このカフェは「共に同時代を生きる人の交流の場」をめざしている。
 「認知症カフェ」はいま行政の後押しを受けていま全国に広がっている。例えば静岡市でも、あるNPOによって設けられ、活動を始めたところである。しかし、<共助>のコミュニケーションは介護・福祉の分野だけに限らない。前章で示唆したようにそれは4分野に細分できる。すなわち「医療」、「子育て」、「介護・福祉」、「教育」である。<媒介的共助>は4分野に応じて多彩になる。思いつくものをあげよう。図14を見よ。

 「医療」では模擬患者、院内ボランティア、産婦支援、看取り支援などが考えられる。「子育て」では片親支援、学童保育、若者引きこもり支援などがあろう。「介護・福祉」では、「認知症」の老人への支援のほかに、各種の障害者の支援、精神疾患で苦しむ人のサポート、独居老人の世話がある。「教育」ではOB教師支援、NPO塾、出張授業、政治教育などであろうか。実例をとりあげる。浜松市の老人劇団は模擬患者として貢献している。東京都港区や千葉県松戸市ではシルバー世代向けに子育て支援研修を開いている*3。名古屋のNPOでは孤立した老人向けにランチボックスカフェを開いている*4。また、高知市の「健康生き生き百歳体操」では老人たちが自主的に運営しているところがあるし、同じく高知県土佐町では健康診断に参加した老人たちが同世代向けに事業を行っているという*5。そのほか、宮城県北部の田尻町や北海道釧路市の取り組みが定点観測の対象になるだろう。
 二つめは<媒介的協働>である。この領域には「技術」、「生活」、「産業」、「経済(市場)」の分野が含まれる。これらの分野をつなぐ先駆的な例が、福島県二本松市東和地区のNPO「ゆうゆうの里東和」である*6。このNPOは「道の駅」ほかを経営している。会員250名で70歳以上が70%いる。2014年までは何と90歳以上が3名もいた。理事20名による徹底討議を行い、「里山再生プロジェクト」を立ち上げている。地方再編(市町村合併)や震災による危機感が支えとなって老人たちが知恵を絞った結果である。全国各地にはさまざまな取り組みがある。それを訪ねてみたい。
 三つめは<媒介的協治>である。自主防災組織は2011年以降になると全国各地に作られたが、その活動実態となると、結成率とのあいだに乖離があるという。その背景には担い手の高齢化や、地域の結束の弱体化、町内会の硬直化がある*7。総務省や地方自治体による上からの組織作りの限界だろうか。しかし、せっかく存在する組織や団体である。どうやったらそれらを活性化できるのか。そのためには、地域全体にかかわる政治を身近なものにする必要がある。その点で注目に値するのが、「土日夜間の議会」開催をめざす東京都千代田区の運動である*8。他方、老人になってから政治教育をしても遅い。ドイツの政治教育のように若い頃から必要であろう*9。先の「ゆうきの里」の協働を支えているのは、青年団の時分から仲間同士の議論と結束だったという(理事長の話)。シルバー世代の政治活動の実情をドイツや北欧で確認してみたい。
 四つめは<媒介的共有>である。ここには「科学」、「芸術」、「哲学」、「宗教」の分野が絡んでくる。興味深い取り組みをあげよう。信州大学名誉教授が中心になって行われている「ライチョウ・ボディーガード作戦」がある*10。舞台は南アルプス北岳山頂である。過疎化による山林放棄によって、テンやキツネやサルが山頂近くまで進出してきたため、天敵を知らず恐れないライチョウが絶滅の危機にある。これも自然環境の保護の一つであるが、若い人にはなかなかできない活動である。また、大衆演劇を支えているのは大阪のおばちゃんたちである。最近ではシルバー世代に連れられてきた若い世代もいる*11。以上は一例であるが、全国各地を見渡せば、祭りや伝統芸能の継承において老人世代が活躍している。「哲学カフェ」や「哲学塾」もある。
 以上のような多種多様な活動はこれまで、それぞれ別個のものであって、それらのあいだに何らかの関連性があるとはついぞ考えられなかった。<媒介的関与>という捉え方はそこに連関と統合の視線を向ける。それらを数珠玉のようにつなぐのが老成学である。
 <媒介的関与>によるコミュニティづくりの延長線上に、空間の再編成という課題が浮上する。現在、全国のいたるところに老人世代の孤立・孤独化が広がっている。それは宮城の仮設住宅でも、中津江村のような過疎の地域でも、東京の高島平団地でも同様である。その結果、遠距離介護、保健師の巡回、ICT活用(効果のほどは?)が必要になっている。また、地域包括ケアシステムの担い手不足も生じている。「消滅可能性都市」というおどろおどろしい言葉すら飛び交っている。しかし、そのような事態を否定的で後ろ向きにではなく、肯定的で前向きに捉えてみてはどうだろうか。いまこそコミュニティの第三の波を起こす機会として、である。
 地域のコミュニティを「コンパクト化」するアイデアがある*12。これを<老成学>として拡張すれば、同心円状の空間が構想される。コミュニティの中心(シティ)には賑やかな商店街がある。その近傍の周囲には、行政機関、病院、郵便局、学校、公民館等とともに、老人ホームも配置される。そしてさらにその周囲を<協働><共助><協治><共有>のネットワークが取り囲む。人々が集う空間としては寺社のもつ伝統的な底力を活用することも考慮に価する(それは葬儀と墓管理に縛られた寺社自身の解放と再生になろう)。例えば、福島の川内村は原発事故によって強いられた結果とはいえ、中世以来の枠組みを再編し、新たなコミュニティづくりへと歩みだそうとしている*13。
 以上をまとめる。<老成学>の原点は「認知症」の老人をめぐる介護現場に向けられた<媒介的共助>である。しかし、コミュニティの底力、つまり地域の人々の思いと活動の結集という裏付けがなければ、それはうまくいかないだろう。それゆえ<老成学>は、コンパクトなコミュニティづくりをめざし、近所の老人世代を種々の<媒介的関与>へと動かすための実現条件を探求するのである。


序章
*1これが森下直貴編『生命と科学技術の倫理学』(丸善出版、2016年)のテーマである。
*2<老成>の「成」は、完「成」ではなく、再帰的な生「成」を意味する。このような「成」の捉え方は、例えば女性の場合の「女成学」のように応用力・展開力をもつ。
*3<老成学>は科研費研究の助成を受けている。基盤B、特設分野:ネオ・ジェロントロジー、研究課題番号:15KT0005、研究課題名:<老成学>の基盤構築——<媒介的共助>による持続可能社会をめざして、平成27〜30年度、研究代表者:森下直貴。
*4森下直貴、「子育て」に今日的意義はあるか—―<身近な他者たちの協同作業>という視点、『都市問題』第102巻第12号、44-52頁、2011年。
*5森下直貴、病と健康(主題別討議報告)、『倫理学年報』第61集:58-70、2012年。
*6森下直貴、「健康」を哲学して『老成社会』の提唱に及ぶ、『人間会議』夏号18−23頁、2014年。
*7森下直貴、《雑融性》としての「成熟」――「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ、『哲学と現代』(名古屋哲学研究会)26号:42-87頁、2011年。
*8 森下直貴、「家族」の未来のかたち――結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望、古茂田宏他編『21世紀への透視図』第3章、青木書店、2009年。
*9ちなみに、1995年は時代の転換を象徴する年であった。この年の事件には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、無党派層の拡大、村山談話、金融機関の不良債権、日本型経営の崩れ、ウィンドウズ95、新世紀エヴァンゲリオンがある。また、墓や葬式に対する社会意識の変容については、井上治代『墓と家族の変容』(岩波書店、2003年)を見よ
*10ここでの<共助>は「互助」を含んでいる。ちなみに、藤森克彦『単身急増社会の衝撃』(日本経済新聞社、2010年)では、家族間の支援を「互助」、年金等の相互扶助を「共助」、生活保護等の社会保障を「公助」と区分している。それに対して私は年金も一種の公助と考えて、共助と互助を一緒にまとめる。なお、<老成学>の枠組みにおける<共助>とは、<共同性>の価値理念をめざすコミュニケーション群の総称である。本論文の第4章を見よ
*11この達成の一部が前掲『生命と科学技術の倫理学』である。
*12これに関しては、森下直貴(共著)『<昭和思想>新論』(津田雅夫編、文理閣、2009年)や、(単著)「井上哲次郎の<同=情>の形而上学」『浜松医科大学紀要(一般教育)』(第29号、1−43頁、2015年)がある。

第1章
*1ちなみに、平均が90歳という高齢化の中で人口構成を捉えるなら、0〜30歳、30〜60歳、60〜90歳で区切るほうが適しているように思う。そこで60歳以上を老人(高齢者)として計算すると、老人世代は2014年では全人口のほぼ3分の1を占めていたが、2060年にはそれがほぼ2分の1になる。つまり、二人に一人が60歳以上ということである。なお、50歳からが向老期である
*2高知市保健所によって提唱された「百歳生き生き健康体操」が有名である
*3NHK取材班による一連の書物は以下である。『無縁社会』(文藝春秋舎、2010年)、『老人漂流社会』(主婦と生活社、2013年)『認知症・行方不明者1万人の衝撃』(幻冬舎、2015年)。『老後破産——長寿という悪夢』(新潮社、2015年)。他に、新郷由起『老人たちの裏社会』(宝島社、2015年)がある。
*4 藤田孝典『下流老人——一億総老後崩壊の衝撃』朝日新書、2015年。
*5 土本亜理子『在宅ケア「小規模多機能」』岩波書店、2010年。ちなみに、老年看護学が専門の鈴木みずえ教授の話では、静岡県の浜松市では病院の数も多くて充実しているが、巨大な医療介護福祉事業団も複数あり、例えば「浜松エデンの家」のような有料老人ホームが全国でも例外的に多い。また、デイケアサービスの施設もコンビニのように競合している。浜松市のような例外的な事例の問題点を洗い出す作業も必要であろう
*6 『生命と科学技術の倫理学』第2章。
*7 藤森前掲書。
*8 成馬零一「ドラマが描いた家族(1)」2015/12/02付日経夕刊。
*9 平山洋介『住宅政策のどこが問題かー<持家社会>の次を展望する』光文社新書、2009年。
*10 日本理学療法士協会の調査。2015/12/1付Yahooニュース。
*11 滋賀県守山市の調査。2015/12/29付。認知症老人の介護家族の4割が在宅では支えきれないと回答。
*12 「ぬくもりにつつまれて」にっぽん紀行、NHKテレビ、2015年12月17or18日
*13 藤森前掲書。
*14 ニクラス・ルーマン『社会の社会2』第4章、法政大学出版局、2009年(原著1997年)。
*15例えば二本松市東和地区や川内村。

第2章
*1 2013年のオレンジプランと2015年の新オレンジプランによる。
*2 この点は美馬達哉「さらば、アルツハイマー?」『現代思想 [特集] 認知症新時代』(2015年3月号)所収に詳しい。
*3 「認知症の夫の行動に衝撃」2015/12/9付中日新聞朝刊。
*4 川越 厚『ひとり、家で穏やかに死ぬ方法』主婦と生活社、2015年。
*5 「ぬくもりにつつまれて」NHK総合テレビ2015/12/14放送。
*6 黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』(東京大学出版会、1986年)、228頁を見よ。
*7 六車由実『驚きの介護民俗学(シリーズ ケアをひらく)』医学書院、2012年。
*8 学生ボランティアを扱った番組「復興レポート若い力で元気」(2015/11/22放送)では、被災地の老人の受動的な姿が一面的に強調されていた。同様のステレオタイプは「のど自慢」や「家族に乾杯」ではお馴染みである。
*9 「家族の絆」の強調は湯沢・宮本前掲書の「家族の理念」の箇所にうかがえる。
*10 もちろんWHOが推進している「アクティブ・エイジング」という見方もここに入る
*11 www.kantei.go.jp/singi/sousei/…/ccrc/
*12 三菱総研「プラチナ社会研究会」platinum.mri.co.jpの提唱である。
*13 この点に関しては京都大学東南アジア研究所の松林教授の示唆を受けた。
*14以上に関してはJ-AGESのメンバーである浜松医大健康社会医学講座の尾島俊之教授からご教示をえた。
*15これまで見られたのは、共同関係の結合型、異なる社会レベル間の橋渡し型、異なる業界同士の連携型である。

第3章
*1医療システムに関しては前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。
*2前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。
*3以上については前掲『生命と科学技術の倫理学』の終章を見よ。
*4森下の書評がある。『週間読書人』第3073号、4頁、2015/1/16。
*5前掲『生命と科学技術の倫理学』を見よ。
*6 NHKクローズアップ現代「いのちをめぐる対話〜遺族とJR 西日本の10年〜」、2015/4/20放送。

第4章
*1これは「認知症新時代のケア」の基本でもある。井口高志「『できること』の場を広げる」、前掲『現代思想』所収。
*2東田勉「『認知症をつくる国』から抜け出すために(前掲『現代思想』所収)、美馬前掲論文。
*3キットウッド『認知症のパーソンセンタードケア—— 新しいケアの文化へ』高橋誠一訳、筒井書房、2005年(Tom Kitwood, Dementia reconsidered: the person comes first, Open University Press,1997)。
*4キットウッド前掲書、94、120頁。
*5『生命と科学技術の倫理学』序章および第4章
*6小澤勲『痴呆を生きるということ』や『認知症とは何か』。美馬前掲論文、天田城介「認知症新時代における排除と包摂」。
*7井口前掲論文、美馬前掲論文、天田前掲論文。
*8この見解は基本的に美馬や天田と同様である。
*9余談だが、新学術分野「オシロロジー」では脳内の接続ネットワークを「発振現象」とする。www.nips.ac.jp
*10以上の捉え方の前提にあるシステム理論の詳細については補論や『生命と科学技術の倫理学』第4章を見よ
*11キットウッド前掲書、142頁。
*12ちなみに、心理学者は5個を好む傾向があるのか。例えばエゴグラムがそうである。
*13キットウッド前掲書、85—87頁。
*14 次の解説書も参考にした。ドーン・ブルッカー『パーソン・センタード・ケア』水野裕監修、村田ほか訳、クリエイツかもがわ、2010年(Dawn Brooker, Person-centered dementia Care)。
*15この童謡は『生命と科学技術の倫理学』の序章で紹介されている。
*16 N.ルーマン『情熱としての愛——親密さのコード』木鐸社、2005年。
*17森下直貴『死の選択』(窓社、1999年)を見よ。
*18前掲『生命と科学技術の倫理学』第4章を見よ。

結章
*1 諸機能を未分化に包括する小集団が「家族」である。ただし、近代社会における家族では機能が限定される。また、特定の機能システムに特化したのが組織である。これはさらに四つのタイプに細分される。すなわち、企業体(コーポレーション)、共同体(コミューン)、政党(パーティ)、結社(アソシエーション)である。なお、すべての機能システムを包括するのが国家組織である。詳しくは『生命と科学技術の倫理学』序章の3を見よ。
*2 武地 一編著・監訳『認知症カフェ ハンドブック』クリエイツかもがわ、2015年。
*3「シニア男性、地域の子育て担う 研修で後押し」2015/12/1付日本経済新聞 夕刊。
*4「共助の関係築く場に 名古屋のNPOがランチ交流で新たな試み」THE PAGE 2015/12/1配信。
*5 高知市保健所所長の話、京都大学松林研究会での話。
*6 www.touwanosato.net
*7 www.fdma.go.jp/html/life/bousai
*8 www.donichiyakan.jp
*9 ちなみに、ドイツにおける政治教育の「三原則」はこうである。http://news.yahoo.co.jp/feature/61
*10 NHK総合テレビ「ダーウィンが来た」2015/11/22放送。
*11 筆者の参与観察。
*12 大西隆(豊橋技術科学大学学長)「共助維持へコンパクト化」、2014/9/25付日本経済新聞 朝刊。
*13 村長の話

補論 意味の根本構造—もの・分割・記号・システム

 本論の理論的基礎には四領域の枠組みがある。例えば、本論に登場した「媒介者」のほか、「主観的経験」、「対面的コミュニケーション」、「価値理念」、「共助」等、ほとんどすべての概念が四領域から構成されている。それにしてもそもそもなぜ四なのか。どうしてそこまでして四にこだわるのか。三でも五でもいいではないか。四にこだわることによって、むしろそこからはみ出したり、すり抜けたりするものがあるのではないか。それはたしかにもっともな疑問だ*1。しかしそれでも、ここで四にこだわるのにはそれなりの理由がある。これは「意味」という事柄にかかわる。人間はいわば意味の宇宙に住んでいる。その意味の根本構造がじつに四に分れているのである*2。この補論では、「もの」、「分割」、「記号」、「システム」の四観点に沿って、意味の根本構造が四領域になることを説明してみよう。
 *1四でなければならない、四になるのは必然的であると聞くと、誰もが「この人は大丈夫かな」という顔をするにちがいない。若きヘーゲルの失態が思い起こされる。彼は土星の惑星の数が6個である必然性を得意げに論証したまではよかった。しかしその直後、7個目が発見されたのだ。これに懲りるかと思いきや、大哲学者のヘーゲルはその後、終生にわたって三にこだわった。有名な弁証法である。三はもともと時間的順序の基本区別である。ヘーゲルはそこに統一ないしは完成の観点を織り込んだのだ。
 *2社会学者のパーソンズは四領域のシステム論にこだわり、システム「理論病者」を自認した。それはじつは自慢である。しかし、弟子たちは誰一人、パーソンズのようには四分割を使いこなせなかった。パーソンズはどこかで間違ったのだろうか。間違ったとすれば、それは四にはない。四の根拠を整合的に説明できなかったことにある(生物システム論と行為パターン論の寄せ集め)。パーソンズのシステム論は規範主義的な構造=機能論であるが、それを機能=構造論として受け継いだのがルーマンである。しかし彼は四にこだわっていない。社会学者である彼の関心が意味の哲学的探究には向かなかったからである。

1. ものthing
 <ものthing>の例として●と▲と▼を出そう。この三者が<区別distinction>されているように、<もの>は一般に区別において存在する。ただし、区別には<差異なき区別>と<差異ある区別>の区別がある。区別されても<差異difference>があるとは限らない。●と▲のあいだには<差異のある区別>がある。それに対して▲と▼のあいだには、上下に回転させて同一であるかぎり<差異のない区別>がある。もとより●に対しては▼もまた<差異のある区別>の関係にある。その意味ですべての<もの>は<差異のある区別>とする、つまり<差異>をもつ。さて、ここに●の特定の並び方が●●●あり、それらを線で結ぶとき「A」になるとしよう(図)。このように複数の●が接続されると、そこに一定の<形>が現われる。この<形>もまた「B」という別の<形>に対して<差異>をもつ。要するに、<もの>は<差異>のある<形>として存在する。注釈を加えよう。
 ① <もの>は、それを構成する要素であれ、構成される全体であれ、他の<もの>に対して差異ある<形>として存在する。<形>とは差異をもつ一定の<パターン>である。
 ② <もの>が特定の<形=パターン>として存在するのは、原初的には人間が知覚するかぎりである(*知覚の前段階に生体分子レベルのパターン反応がある)。知覚されることを通じて何かsomethingが特定の<ものthing>として立ち現れる。人間の知覚なしに<もの>は立ち現れない。知覚における一定のパターンは大まかな形である。それらが比較されることを通じて、共通した形すなわち一般的な形(概念)が形成される。知覚も概念も(そして直観も)すべてはパターン知である。
 ③ 根源的にいえば、人間の知は実在による外的な刺激なしには生じない(*幻覚もまた知覚にとっては外部になる脳の刺激から生じる)。人間は実在を直接に知ることはできない。その代わりに種々のレベルのパターン知の比較を通じて、間接的にのみ実在のパターンを類推する。この類推の上で想定されるのは、知のパターンと実在のパターンのあいだの同型性の変換である。知のパターンは実在のパターンを変換し、その動的な複雑性を静的に一面化し単純化する。
 ④ 立ち現れる<もの=形=パターン>を構成する要素もまた、差異をもつ要素からなる形である(*フラクタル的な微分・積分の関係にある)。実在の<もの>は要素同士の接続の動きの中で形成される(*その点を量子力学や宇宙論において確認することは今後の宿題である)。

2. 分割division
 「A」という特定の<もの=形=パターン>が立ち現われるとき、「A」でない(例えばBを含めて)すべての<もの>もまたそこに同時に立ち現われている。つまり、「A」の立ち現われにはつねに「非A」がともなう。Aが立ち現われるということは、Aと非Aとが立ち現れるということである。「〜A」を「非A」とすれば、「A」とはじつは「A / 〜A」である。ここで「//」は「A」と「〜A」のあいだの<分割線>である。要するに、「A」はその<分割division>において存在する。注釈を加える。
 ① 「A」が知覚において現前するかぎり、「A / ~A」の分割もまた現前する。<現実性>である。例えば「A」とともに「A / B」の分割も現に存在する。そのさい「A」が前面に出てくるのは、現時点でたまたま分割線のこちら側、つまり「A」に注目されているからである。通常、注目されマークされた側が<もの>、したがってここでは「A」である。とはいえ、「B」に視線が移れば「B」が反転して<もの>になる。この反転関係は空間的である。
 ② 「A」あるいはむしろ「A /〜A」は現在においてある。しかし、現在はつねに過ぎ去りつつ到来する。この移行は時間的である(*時間の根拠は接続の作動にある)。とすれば、「A//〜A」はつねに自身の否定、つまり「〜(A /〜A)」を含んでいることになる。これは<可能性>である。<現実性>はいつでも<可能性>とのあいだの<分割>をともなう。あるいは、<現実性>は<可能性>との<分割>として現在する。この分割線を「//」とすれば、「(A/〜A)//〜(A/〜A)」になる。
 ③ <現実性>の「/」は知覚における分割である。<現実性 // 可能性>は記憶や予期における分割である。このように知は二重の分割としてある。しかし、<知>は<実在>からの外的刺激を前提として成り立つ。実在は類推によって複雑性である。これを<潜在性>と名づけると、「〜{(A/〜A)//〜(A/〜A)}」になる。現実性/可能性と潜在性とのあいだ、知と実在とのあいだの境界線を「‖」と表記しよう。
 ④ けっきょく、<もの>は人間の知において、「A/〜A//〜(A/〜A)‖〜{(A/〜A)//〜(A/〜A)}」として、三重の分割をともなって存在する。

3. 記号
 <もの>は<別のもの>によって指し示される。この<別のもの>が<記号>である。<もの>を指し示す記号は、それじたい<もの>である。指し示す中で「意味」が生じる。意味づけるとは、ものに対して別のものを接続することである。以下は注釈である。
 ①<もの>としての<形>は差異ある区別である。したがって、指し示しにおいては二つの差異ある区別が接続している。ある差異が別の差異に接続する。指し示す=区別する差異の側と、指し示される=区別される差異の側。この両者の接続。この指し示すこととしての接続が「意味」するということである。意味は指し示しの中に生成する。
 ②指し示す側の差異ある区別が広義の<記号>であり、これには種々の形態がある。絵画、図表、マーク(シンボル、サイン、シグナル、ロゴマーク)、数式、言葉や文字。これらすべての基礎は<原図>としての<概形>である。すべての記号形態はその派生体である。なお、<原図>にもいくつかある。領域、連結、配列、座標、形象。
 ③広義の記号は、メッセージにおいて、時間空間の限界とものごとの単純さを超える。複雑なメッセージについて現在の時点を超えて伝えるためには、記号が必要となる。無文字社会においても、広義の記号性が見られる。一種の形式化。概形の具象化の試み。音声の反復、人物の名前、ものをぶら下げる行為(ぶら下げられたもの)、縄の形状(輪の結び方)。叩かれる太鼓表面上のポイント。
 ④人間の本質は、<概形>を具象化=もの化=物象化し、この物象化した<もの>でもって別のものを指し示すところにある。意味づけること。<もの>を概形として知覚するのは人間以外の生物にも共通する。その<概形>を身振りや声や表情においてたんに表出するのではなく、自分の身体から切り離すこと=物象化すること、そしてそれを記号として用いるところが、他の生物とは決定的に異なる。概形の脱身体的な操作。

4. システム
 記号による<もの=概形>の指し示しが可能になるのは、人間がサードオーダーシステムだからである。
 ①差異ある要素が接続する中で、その接続の回路の内部に一定の接続パターンとしての構造が形成され、この構造によってたえず偶発的で未決定な接続が安定的に方向づけられるとき、そこに<システム>が成立する。逆にいえば、個々の接続の連続がその内部に構造をもったとき、それがシステムになる。
 ②システムは差異ある形をもつ。<構造>とは接続を安定させる働きであるから、むしろ<構造化>というべきである。構造はシステム内部の動的な形である。
 ③構造は構造化じたいを再帰的に構造化する。個々の接続が偶発的・未決定的であるため、構造化は不断に再構造化する。ファーストオーダーでは内部的時間が生じる。セカンドオーダーでは種々の状態の比較ができる。サードオーダーで初めて記号化が可能になる。
 ④人間はサードオーダーシステムである。人間の自己意識のレベルでは、もの=概形イメージが別のもの=概形=記号によって指し示される。記号に対して記号が接続される。自己内対話のコミュニケーションである。

 以上を要するに、<もの>は、サードオーダーシステムとしての人間にとって、意味の基本構造にそって、<形>として捉えられる。意味の基本構造とは、現実性/可能性、限定性/再限定性(区別する区別/区別される区別)という二つの軸からなる四つの領域である。外部的空間性、内部的時間性、概念的一般性、想像的変容性。
 対面的コミュニケーションの場合、メッセージの理解のプロセスは、外的刺激=情報の知覚、相手の意図の解釈、自他の意図に関する主観的解釈の比較、信念による評価、という四段階になる。これを四領域に投影することができる。ここから、対外性、対内性、対他性、対自性。これも意味の基本構造がベースにある。
 対面的コミュニケーションは社会的コミュニケーションの原点。基盤である。そこから組織と機能システムが分化する。そして包括的な集合関係である家族、コミュニティ、国家。それらの分化の起点は、本論で展開したような能動/受動の四パターンである。

 意味の宇宙にいるかぎり、そこから逃れられない。何事かをするさい、かならず意味の構造にしたがって区別する。そこに四であることの必然性がある。

 
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