活動の実績

老成学研究所 > 活動の実績 > システム倫理学 > 「事実」とは何か:哲学的探求が辿り着くリスク回避モデル

「事実」とは何か:哲学的探求が辿り着くリスク回避モデル
活動の実績 | 2019.05.30

PDF版 倫理学の視点からのリスク論

『臨床環境医学』23(2):76−85, 2014.12

倫理学の視点からのリスク論
A View of Risk from the Perspective of Ethics

森下 直貴
(浜松医科大学医学部倫理学)

はじめに
 「リスク」という言葉の背後には、航海、岩礁、坐礁、難破、儲け、賭け事、保険といったイメージ群が広がっている。人間と関わるかぎりの事象は、一般に、事象自体のもつ特性の側面と人間の側による意味づけの側面とをもつ⑴。この点は「リスク」でも同様であり、そこからリスクに対する二つのアプローチが由来する。事象の特性に注目するアプローチは特定可能な20世紀型リスクを想定している。それに対して近年、「不定性」を特徴とする21世紀型リスクが出現する中で、意味づけに注目し、異なる語り方をするコミュニケーションの間の対立を強調するアプローチが登場している。現在、二つのアプローチが対峙する中で、前者の内部における対立や、後者の社会的帰属によって異なるコミュニケーション同士の対立があり、さらにこの対立の解決を標榜する思想までもが分裂している。このような対立状況の中で、思想のオーダーを超える新たな倫理学の視点が求められている。思想であれ、その元にあるアプローチであれ、対立する両側の比較という視点から倫理学がめざすのは、対立の一致ではなく、対立の移動であり、その流動化である。本論考では倫理学の視点を<両側並行>モデルとして具体化することによって、リスク論に新たな刺激を与えることを目ざしている。

1. 事象の特性としてのリスク
 リスクに対する最初のアプローチは、事象のもつ危険な特性に焦点を合わせる。このアプローチが方法として明確にされたのは、19世紀の鉱山事故をめぐる補償をきっかけとしている。そして20世紀になると福祉国家の中で洗練され、今日の標準的なリスク論にいたる⑵。この標準のリスク論で想定されているのは、いわば「20世紀型リスク」である⑶。このリスクを体系的に特徴づけるために、意味に関する次のような枠組みを導入してみたい。
 あらゆる事象は他の事象と接触する中で区分(差異)をもつ。人間と接触する場合でも同様である。ここには二つの特徴がある。1つは、特定の区分が別の区分によって指し示されること(これが「意味」を意味する)である⑷。もう1つは、見える区分はその背後に区分されない可能性をともなうことである。以上から意味の二つの基軸、すなわち、<限定性/再限定性>および<現実性/可能性>が浮かび上がる。そしてこの両基軸を組み合わせるとき、①外部性(対外性)、②内部性(対内性)、③社会性(対他性)、④反省性(対自性)の四象限からなる枠組みが生じる。なお、この枠組みは以下の行論でも別の文脈(思想や倫理学)においてたびたび登場するが、①②③④の意味連関はすべて同型的に対応している。
 さて、以上の枠組みをリスクに当てはめてみよう。20世紀型リスクの根本特徴は「特定性」であり、ここに計算可能性が基づいている。例えば放射線の場合、「ベクレル」「グレイ」「シーベルト」といった単位によって計測される。そしてこの計算可能性のうえで、リスク/危険という対比、将来の予測、加害者/被害者の明確な境界設定、客観的な対象認識の成立といった諸特徴が派生している(図1)。経済の文脈でいえば、少数の犠牲者に対する補償額が算定され、大量・同等・分散を要件とする保険事業を成立させる資本の循環が生じる。

 ところが、1980年代に目立ってきたのは、従来の「職業病」や「公害」とは異なる「地球環境」問題である。つまり、20世紀型リスクの枠組みに収まらない広範囲で低影響の危険事象群の出現である。例えば、環境・食品汚染の広がり、異常気象や津波などの巨大自然災害、コンピューターウィルスの蔓延、テロの激発などがそうである。これを「21世紀型リスク」と名づけるならば、上述の枠組みを用いて図2のように特徴づけられる。

 21世紀型リスクの根本特徴は「不定性」にある。リスクの不定性を前提にするとき、空間的な測定可能性、時間的な予測可能性、加害者/被害者の境界設定、客観的な対象認識の可能性は成り立たなくなる。経済の文脈では、誰もが加害者であるとともに被害者となり、補償の対象者やその額が莫大になるとすれば、保険事業そのものが成り立たなくなる。しかし、20世紀型リスクを想定する標準のリスク論では、不特定な危険事象があくまで特定化され、無理やり計算可能な対象とされてしまう結果、推定の根拠や基準値をめぐって専門家同士が対立する状況がしばしば生じる。このとき第一のアプローチに替わって登場してきたのが、社会的帰属に結びついた語り方に注目する第二のアプローチである。

2. 語られる意味としてのリスク
 リスクに対する二番目のアプローチは、事象を受けとめる人々の語り方・語られ方、つまり意味の解釈に焦点を合わせる。したがってここでは、見る側の視点が異なれば同じものであっても異なって見えてくることになる。この点をリスクに絞っていえば、決定する側の者にとって事象はすべてリスクとして現れる一方で、その影響を被る側の者にとってはすべてが危険か安全かのいずれかになる。ただし、見え方の対立という事態をめぐって、このアプローチをとる論者の間にも捉え方の違いがある。ここではN.ルーマンによる解釈に沿って少し掘り下げて捉えてみよう⑸。
 対面的なコミュニケーションでは、双方の当事者は行為者であると同時に観察者でもある。また、そこにはたいてい第三者が横にいて両者のやりとりを観察している。観察する側の心の内部に目を向けてみると、一方に、相手の動作や感情表現に対する観察・評価があり、他方に、相手の立場に自分を置いてみたさいの自分の行為や感情に対する観察・評価がある。そのうえで、図3に示すように、二つの観察・評価が比較され、そこで得られた一致/不一致の感覚に応じて是認/否認の評価が生じる⑹。
 ここで注意を要するのは、相手に対する観察や理解がけっして「客観的」ではないという点である。自他の心の内部では情報(表現)と伝達(意図)と理解とは必然的には接続しない。そこには接続の偶発性があり、したがって選択自由の余地がいつでも残されている。そうである以上、自他の心にあるのは、他者に関する客観的観察と自分に関する主観的観察ではなく、他者についての自己解釈と想像上の立場交換による自分についての自己解釈である。つまり、比較されるのは図3のように二つの<自己解釈>なのである。

 自己解釈する者同士の間でやりとりされるのは、双方の側の内部でそれぞれに変換された「意味」である。ここで意味は多義的であり、そこから誤解が不可避的に生じる。重要なことは、コミュニケーションに関する通常の見方とは逆に、誤解こそがコミュニケーションを駆動するという点である。外的刺激が誤解をもたらし、誤解が別の誤解を呼び出す中で、コミュニケーションが接続する。その結果、理解という名の意味変換(自己解釈)と自己内比較の積み重ねを通じて、双方の側に<自己変容>が生じるのである。
 コミュニケーションにおいては、意味づけの接続の反復を通じて双方の側に予期・期待が形成され、こうして形成された予期・期待によって接続が安定的に方向づけられる。そしてこの延長上に一定の接続パターンとしての「構造」が生じる。構造をもつ循環的な接続が「システム」と呼ばれる。
 話を元に戻そう。語られる「意味」を変換しつつ共有するコミュニケーションの視点からみるかぎり、リスクを語る異質なコミュニケーションが対立する構図が浮かび上がる。それがすなわち、決定する側の人々の間のコミュニケーションと、決定の影響を被る側の人々の間のコミュニケーションの対立である。前者は専門家や政策の決定者・遂行者同士のコミュニケーションである。ここでは専門用語が用いられ、事象の特性とその人体への影響をめぐって計算や予測がおこなわれる。そこで語られるのは一番目のアプローチであり、20世紀型リスクである。これに対して後者は市民・非専門家・被害者の間のコミュニケーションである。ここでは安心と不安の両極を揺れ動く感情を基盤として、安全か危険かの二者択一の言葉が用いられる。その結果、決定する側に対する単純で過剰な反発や、救済論的な絶対的現在の感覚、過激な原理主義的な主張が生じやすくなる。
 社会的帰属の違いから異質なコミュニケーションの対立構図を描き出し,その一方側に一番目のアプローチを押し込める二番目のアプローチは、21世紀型リスクの「不定性」に敏感に反応したものといえる。個々人にとっては帰属の境界が流動的となるから、状況に応じて一方の側から他方の側へと移ることも可能である。しかし、二つの側のコミュニケーション自体が交わることはない。それどころか、21世紀型リスクが日常化するにつれて、二つの側のコミュニケーションの間の亀裂はますます深刻化し、拡大する傾向にある。

3. 思想のオーダーとその分裂
 異なるコミュニケーションの間の深刻な亀裂(矛盾)に直面したとき、亀裂を修復して対立を解消しようとするコミュニケーションが登場する。それが「全体性」を標榜する「思想」(理念システムつまりイデオロギー)である。二番目のアプローチをとる論者の多くは「思想」のにコミットしつつ対立を観察している。ここで「社会」との関係に絡めて「思想」について概略的に説明してみよう。
 そもそも「社会」とは何であろうか。結論的にいえば、それは「意味」を接続するコミュニケーションのシステムである。社会について「人間関係」や「行為連関」のような常識的な捉え方はあくまで(物象化された)二次的なものである⑺。コミュニケーションのシステムには、(それ以外のすべての社会の基礎となる)対面関係のほか、組織、機能システムといった多様な水準がある。そしてこれらをすべて包括すると「全体社会」になる。人類の歴史において全体社会の編成は大まかにいえば、「環節分化」から「階層分化」をへて「機能分化」へと変化してきた。最後の機能分化が進展した結果、現代の社会では機能システム同士が並列的に連関し合い、独立した意味世界を維持しつつ相互に影響を及ぼし合っている⑻。加えて機能システムの相互連関を媒介するような機能システムも分出する。それが1つは「マスメディア」であり、もう1つは「思想」である(図4)。

 「マスメディア」はさながら歪んだ鏡として機能する(歪みのない鏡は存在しない)。この鏡は、機能システムの内部から外部へと産出された種々の「効果/負荷」を乱反射し、他の機能システムに外部刺激として送り込む。それが「話題」である。この「話題」をめぐって「世論」が形成されるが、話題は次から次へと変わっていく⑼。それに対して「思想」は、種々の効果/負荷を「問題」として引き受け、全体性の観点からその解決策を提示する。全体性の観点はあらゆる問題を全体社会において連関づけるため、思想は理念的となり原理的とならざるをえない。この思想もまたマスメディアによって乱反射される。
 思想は抽象化された意味としての理念のシステムである(システムであるから自律して運動する)。したがって思想もまた上述した意味の枠組みによって、①実用性(対外性)、②共同性(対内性)、③統合性(対他性)、④超越性(対自性)の四極に分類される。そこから下図のような四種の立場が現われる(図5)。

 説明を加えよう。①専門家の思想のうちには、科学的合理主義、技術的対応論、コスト・ベネフィト論、自己責任論などが含まれる。②反専門家の思想では、民族やジェンダーや障害者などの種々のアイデンティティや、犠牲者への連帯、家族・親密圏のきずなが強調される。③専門家/非専門家を超える公民(市民)の思想には、反省的に成熟した市民、理想的コミュニケーション、政治的コスモポリンなどの立場があり、これらが表面上は公共政治の論議(国民の合意形成という言説)を牽引している。そして④再帰的な超越の思想には、「いのち」、東洋思想の「無」や「空」、差異化の運動を強調する論者がいる。
 さて、ここで明瞭になるのは、深刻な対立構図を乗り越えるはずの思想そのものが、内部で分裂しているという事態である。思想の枠組みの四極は四側面・四次元である。それにもかかわらず、思想の立場はそれぞれ一極だけに依拠して全体性を捉えようとする。その結果、原理的な分裂が不可避的に生じる。
 特定の視点にとって他の視点の偏りは見えるが、自分自身の視点の偏りは見えないものである。思想の立場も同様であって、それぞれ次のような偏り(盲点)をもつ。すなわち、①では啓蒙・啓発という名の(合理性への)一方的な同化、②では合理性に対する拒否と共同性の一方的な押しつけ、③では公民(市民)と合意に対する理想主義的な幻想、④では専門家/非専門家/公民(市民)の同一性という見方に対する原理的な否定、である。
 ①②③に共通しているのは、「一致/不一致」という区別を指し示す<一致(agreement)>の視点である。しかし、この視点の背後には<非一致(non-agreement)>という可能性がある。他方、④はたしかにこの可能性を繰込んではいるが、現実のコミュニケーションの外部に止まり続けている。現代では超越的・絶対的・特権的な外部の視点は消えてしまっている。とすれば、残るのは<横からの相互的な観察>しかないことになる。つまり、同じ平面上において観察する/観察される関係の中での相互観察であり、自己解釈の比較を相互刺激としてやりとりするコミュニケーションである。これが「今日の」倫理学の視点である。この説明は節を換えておこなう。

4. 倫理のオーダーと倫理学
 上述した「システム」はコミュニケーションだけに限定されない。あらゆる事象に関しても個々の接続を方向づける条件として「構造」が形成されるかぎり、そこに「システム」が成り立つ。「構造」はシステムの内部において構造的な接続(構造化)として作動する。しかし、構造化がうまく作動しないときは、既存の構造(自己)を新たに構造化するように作動(再構造化)する。そのうえ構造化には三番目のオーダーがある。ファーストオーダーが通常の構造化であり、セカンドオーダーが構造化の再帰的な構造化(再構造化)であるとすれば、そのサードオーダーとは、セカンドオーダーの再構造化に対して別のセカンドオーダーの構造化を接続させる再帰的な構造化である。
 人間を例にとろう。人間は三重のサブシステムから構成されたシステムである。三重のシステムとは、生化学分子を接続する生命システム、等身大イメージを接続する生物システム、それに記号を接続する意識システムである。それぞれのサブシステムには固有の構造(DNA、情動パターン、言語規則)がある。システムの視点からみれば、セカンドオーダーのイメージ接続に対してセカンドオーダーの記号接続(代名詞)を接続することによって、サードオーダーの意味の構造を形成したところに、人間の特徴がある。このようなサードオーダーの構造をもつシステム同士のコミュニケーションのシステムが、先に言及した「社会」である。社会には対面関係をはじめとして四水準のコミュニケーションシステムがあり、それぞれが構造をもつ。そしてこの社会システムの構造という視点が「倫理」の捉え方に新たな視界をひらく。
 「倫理」という言葉はこれまで多様な文脈で語られてきた。例えば、⒜人々の生き方としては信念(道徳)、⒝対人関係においては信頼(五倫五常)、⒞組織をまとめるエートス(原理・原則)、⒟全体社会を指導し正当化する理念(思想)、という具合である。しかし、そこには倫理に関する統一的な枠組みが欠如していた。その結果、異なる四水準が混同されたり(例えば「人間主義」対「機能主義」)、対面関係の倫理と全体社会の倫理とが別世界のように論じられたりする傾向(共感と正義)が蔓延していた。「構造」の視点の導入によって明確にされるのは、「倫理」の四水準のあいだの同型性と差異性である。
 要するに、これまで「倫理」と呼ばれてきたものは、社会システム(とこれを意味的に支えるかぎりの人間システム)の「構造」にほかならない。そしてこの構造(したがって構造化)としての倫理には三つのオーダーがある。ファーストオーダーは日常的に生きられた倫理であり、セカンドオーダーは危機のときに声高に呼び求められる倫理である。思想は後者にあたる。そしてサードオーダーの倫理とは日常倫理や思想を観察する視点としての反省知(倫理学)である。
 ただし、残念なことに、従来の倫理学はいずれもセカンドオーダーに止まっている。①自由主義や功利主義の道徳哲学であれ、②アリストテレスの徳倫理やヘーゲルの人倫や和辻倫理学の「間柄」であれ、③普遍主義的なカントの義務倫理学やハーバーマスの人類倫理学であれ、④宗教的または相対主義的な倫理学であれ、セカンドオーダーに止まる点ではすべて同様である。その理由は、既述した理念の四極枠組み(①実用性、②共同性、③統合性、④超越性)に囚われ、そこから抜け出せていないからである。四極を価値(人間観)として表せば、①自由(個人の尊重)、②共通善(共同体の中の人間)、③平等(人間の尊厳)、④無差別(差別存在としての人間)になる。これらはセカンドオーダーの再構造化(倫理)をそのままサードオーダーに持ち込んだものにすぎない。
 倫理学はサードオーダーの構造化であり、ファーストオーダーの構造化ならびにセカンドオーダーの再構造化を相互反照的に観察する。それでは、倫理学という名のサードオーダーの構造化は対立状況にどのように取り組むのだろうか。

5. <両側並行>モデルとその媒介者
 対立状況に取り組むやり方として三つのモデルが考えられる(最初のモデルは対照的であるから全部で四つあるともいえる)。1つ目は、対立する一方の側が他方の側を同化・吸収する<片側同化>モデルである(図6)。2つ目は、双方が相互に相手側を尊重しながら合意をめざす<両側合意>モデルである(図7)。前者を採用するのは思想の①と②であり、後者を採用するのは思想の③である。しかし、前述のとおりどちらのモデルも<一致(agreement)>の視点、したがって一致の背後の可能性に対する盲点をもつ。それは現実の対立の根深さを直視しない幻想といえる。その結果、かえって対立構図が固定・増幅され、思想同士も分裂したままに止まる。
 そこで考えられるのが三つ目の<両側並行>モデルである(図8)。ここで期待されるのは、一方的な押しつけや双方の合意といった幻想ではなく、それぞれの側の<自己変容>である。その結果、対立状況の解消ではなく、新たな対立状況への移行(movement)あるいは対立の場の流動化が生じる。このモデルの極限的なケースとして前二者のモデルが位置づけられる。この<両側並行>モデルの前提には、外的刺激の変換による自己解釈を通じて自己変容する、サードオーダーシステムとしての人間が想定されている。

 ここで、<両側並行>モデルを例証するために、福知山線列車事故(2005年)をめぐる被害者遺族とJR西日本との対立ケースをとりあげてみよう。被害者遺族側が責任者の徹底追及と事故原因の根本究明を求めたのに対して、JR西日本側は事故を運転手個人の責任とし、組織は無関係であると主張した。事故発生から10年間、両者は27回もの交渉をもったという。しかし、その結果は同化でも合意でもなく、たんなる対立の移動だった。とはいえ、この移動の意義は決して小さくはない。被害者遺族側の一部は再発防止を自分たちの責任・使命と考えるようになったし、他方のJR西日本側はヒューマンエラーの考慮不足や組織間の連絡の不徹底をようやく認めるようになった。たしかに対立は移動しただけではあるが、そこには両側の苦渋の再帰的な構造化(自己変容)が反映されている。
 もしも、そこに<両側並行>モデルに熟知した媒介者がいたとすれば、対立の移行・流動化はもう少しスムーズに(苦渋の度合いがより少なく)進んだかもしれない。一般に媒介者には四つのタイプがある(図9)。第1は①中立者タイプである。中立者は話し合いのテーブルを用意するが、自分は見守るだけであり、決定にいたる成り行きを当事者同士に放任する。その結果は対立の継続か消滅かのいずれかである。第2は②仲裁者タイプである。仲裁者は話し合いのテーブルを用意したうえで、調停するために仲裁案を提示する。これは部外者による強引な同一化である。第3のタイプはいわば③賢明な市民として、話し合いのテーブルを用意したうえで、合意形成へ向けて介入し、誰もが納得する一致をめざす。しかし、実際には全員の一致が実現不可能であるかぎり、賢明な市民は理想世界を夢想していることになる。

 最後に、超越的な批判者に代わって登場するのが、第4の④助言者タイプ、すなわち<両側並行>モデルにおける媒介者である。助言者は、両側の当事者たちとは<観察する/観察される>関係に立ちながら、両当事者を横ないし傍らから観察する。そして双方の側に対して、A相対性(relativity、四極性)、B盲点性(blindness、一致の視点)、C事実性(facticity、真理性の条件)を示唆することを通じて、自己変容を促す(facilitation)。ただし、その示唆(外部刺激)をどのように受けとめるかはあくまで当事者に委ねられている。忘れてならないのは、観察している媒介者もまた同一平面上の他者によって観察されていることである。特権的な視点はない。相互的で相対的な観察を通じてのみ、個々の行為者たちが自己変容する中で、これと連動して対立状況自体も変容するのである⑽。

おわりに
 <両側並行>モデルは、思想の分裂状況に対してだけでなく、リスク論の二つのアプローチの対立に対しても適用される。というより、根本にあるのはアプローチの対立のほうである。二つのアプローチが不可避なのは、冒頭で言及したように事象に関わる二つの視点に由来するからである。この両方のアプローチに対して、倫理学という媒介者はA相対性、B盲点性、C事実性を示唆して変容を促す。そのうち事実性は、二つのアプローチ同士が依拠する共通の基盤であるが、それだけに止まらず、とりわけ事象の特性に注目する第1のアプローチ内部の対立にとっても決定的に重要である。「事実」の前に謙虚であるべきなのは、思想だけでなく、科学や技術においても同様である。「事実」とは何かという哲学的探究が不可欠となる所以である⑾。ともかく、以上を通じて双方の側が自己変容する中で、リスク論そのものの自己変容が期待される。ただし、いかなる自己変容が生じるのか、いや、そもそもそれが起るかどうかは、あくまで本論考の賢明な読者の受けとめ方に委ねられている。

謝辞
本論考の母体となった講演では、京都大学の学際・国際・人際融合事業プロジェクト「統合創造学創成」(総括代表者:村瀬雅俊)から助成をいただいた。


⑴ 哲学的に掘り下げると、事象とは観察の対象としての「現象的区別」であり、この現象的区別に「実在的区別」の側面と「意味的区別」の側面がある。区別を差異と呼び替えてもよい。実在的区別は、種々の観点から得られた現象的区別の比較を通じて連関的・構造的に「想定」される。実在的区別連関と現象的区別連関との間の「構造的同型性」こそ、現象的区別の実在性すなわち真理性の基盤である。他方、意味的区別によって現象的区別が多義的に解釈されるが、この解釈が思想(イデオロギー)の源泉である。ただし、これは自己解釈を宿命づけられた人間にとっては不可避である。
⑵ 中西によれば、人体に対する事象の危険性に関して、「リスク」概念が登場する以前は、安全/危険という実体論的・決定論的な基準値が設定されていた。「リスク」という確率論的な概念には、①低リスクの遍在性、②ベネフィト・コストとの比較可能性、③トレードオフ関係にあるリスク間の比較可能性が含まれ、比較の基準値は社会的合理性によって設定される。中西準子『環境リスク学』(日本評論社、2004年)、同『原発事故と放射線のリスク学』(日本評論社、2014年)。
⑶以下の内容は小松丈晃『リスク論のルーマン』(勁草書房、2003年)に依拠している。ルーマンの著書は『リスクの社会学』(原本1991年、新泉社、小松丈晃訳、2014年)。研究書としては他に小島剛『科学技術とリスクの社会学』(御茶の水書房、2007年)がある。
⑷「意味」とは、事象の区別(差異)を別の区別(差異)をもって指し示すところに生じる関係である。例えば「色」の場合、光(無色)の波長の区別(物理的区別)が、三色の生理学的区別によって変換され、これがさらに種々の記号的区別によって変換される。このように多重の区別変換のうえで記号(言葉=区別)による指し示しの関係が展開する。なお、「何かあるもの(something)」同士が接触(融合・分裂)するとき、一定の区別が「このもの(this thing)」の間の差異として生じる。物理でも同様である。「このもの」が 再帰的な構造化によって自己同一性をもつとき「システム」となる。
⑸ 以下は、T.パーソンズとA.シュッツを受け継いだN.ルーマンの見解の核心(『社会システム理論』1984年、邦訳1993/1995年)を筆者なりに抽出したものである。二つの視点に関してルーマンは両者の両立(非還元性あるいは共約不可能性)を承認する。この点が他の論者との決定的な違いであり、この違いは「コミュニケーション」の理論的な捉え方の違いに由来する。
⑹ 以上はA.スミスの有名な同感構造(『道徳感情論』原著1759年)の核心を筆者なりに自己解釈したものである。
⑺ 富永健一『思想としての社会学』新曜社、2008年。
⑻ N.ルーマン『社会の社会』法政大学出版局、2009年(原著1997年)。
⑼ 大黒岳彦『<メディア>の哲学』NTT出版、2006年。
⑽ 二つの視点の対立に関して、ルーマンは当事者の視点(ファーストオーダーの観察)と観察者の視点(セカンドオーダーの観察)を区別する。それに対して筆者は、二つの視点の違いを二つのアプローチの違いとして受けとめ、どちらのアプローチにもファーストオーダーとセカンドオーダーがあると考える。なお、筆者自身の倫理学はサードオーダーである。他方、ルーマンはコミュニケーションの解釈をふまえ、両者の間の「振動」のスタンスを提示し、「説得されずに進捗するコミュニケーション」(小松前掲書、p.79)という捉え方を示唆する。本論考における倫理学の視点は、このルーマンの示唆を筆者なりに自己解釈し、発展させたものである。
⑾ 注⑴で示した「現象的区別」に関する「命題」として「事実」が複雑に構成されている点は、歴史的事実(「従軍慰安婦強制連行」)でも、実験的事実(「STAP細胞」)でも同様である。理系的な表現をすれば、事実は「観察、装置、言語、仮説/理論」の関数であり、仮説/理論は「以前の事実/経験、以前の理論、観点、思想」の関数である。このように多変数から複雑に構成され多レベルをもつとはいえ、また、観察自体が関心・視点に左右される(「藪の中」)とはいえ、コミュニケーション(議論)の土台はあくまで「事実」同士の整合的連関であって、この上に「推定」という「事実」も成り立つ。この辺りに関してはチャルマーズ『改訂新版 科学論の展開』(恒星社厚生閣、高田・佐野訳、2013年)を見られたい。

付記
本論考の内容は、平成22〜25年度基盤研究(B)一般:先端科学技術の「倫理」の総合的枠組みの構築と現場・制度への展開(課題番号:22320004、研究代表者:森下直貴)の成果の一部である。

要旨
リスク論には大別して二つのアプローチがある。事象の側面に注目する第1のアプローチは特定可能な20世紀型リスクを想定している。それに対して近年、「不定性」を特徴とする21世紀型リスクが出現する中で、異なる語り方をするコミュニケーションの間の対立を強調する第2のアプローチが登場してきた。現在、その二つのアプローチが対峙する一方で、社会的帰属によって異なるコミュニケーション間の対立があり、さらにこの対立の解決を標榜する思想までもが分裂している。このような対立状況の中で、思想のオーダーを超える新たな倫理学の視点が求められている。対立する両側の比較という視点から倫理学がめざすのは、対立の一致ではなく、対立の移動であり、その流動化である。本論考では倫理学の視点を<両側並行>モデルとして具体化することによって、リスク論に新たな刺激を与えることを目ざす。
キーワード: 21世紀型リスク、コミュニケーション、思想、両側並行モデル

Abstract
There are two approaches in risk-discussions. The first one is interested in objective sides of things and supposes ‘20th century type’ of risk that is characterized by ‘specified.’ As opposed to the first one, the second approach has been appeared, which pays attention to communications between different social belongings, in the face of ‘21st century type’ of risk that is characterized by ‘unspecified.’ As a result, we confront with such multiple conflicts as those among approaches, different communications, or, furthermore, even ideologies that try to resolve conflicts. Now, we need the perspective of ethical thinking that surpasses the order of ideology. This perspective is characterized by comparison of both sides concerned, and aims to some mere movements, not to any agreement of conflict. In this article, we propose a new model illustrating this perspective. Through giving some stimuli to readers, whether professionals or non-professionals, we hope to raise any self-transformation of conflict-discussions.
Key words: 21st century type of risk, communication, ideology, both sides parallel model

 
一覧へ戻る
© 老成学. All Rights Reserved.
© 老成学. All Rights Reserved.

TOP