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令和「子育て」の意義  
活動の実績 | 2019.05.30

PDF版 現代における子育ての意義

『都市問題』2011年12月号掲載(2011.11.08脱稿)
「子育て」に今日的意義はあるか
〈身近な他者たちの協同作業〉という視点

森下直貴(もりしたなおき)
浜松医科大学倫理学教授

1 子育てをめぐる論議水準を超えて

野田聖子議員の場合
 野田聖子衆議院議員は、政治家として少子化対策に取り組んできたことや、女性として総理大臣を目ざしていることで知られている。しかし、彼女の名を一躍有名にしたのは、何といっても不妊治療中である事実の公表であり、また、そののち海外で卵子提供を受けて妊娠した事実の公表であった。彼女は妊娠中と出産後の二回に渡ってインタビューを受け、自分の胸の内を率直に語っている*⑴。彼女の場合を検討することからこの論考を始めよう。
 インタビューによれば、彼女は不妊治療を何度も繰り返したが、結局うまく行かなかった。そのせいで離婚も経験した。その後に今の夫と巡り合って一緒になり、夫の子を願うようになる。そこで米国に渡り、夫の精子と現地の女性の卵子を用いて体外受精を実施した。妊娠中の彼女は意気軒昂である。養子縁組の困難さ、法改正しない立法府の怠慢ぶり、これを変えるため自ら人体実験のつもりで臨んでいること、血縁へのこだわりは諦めたこと、生殖補助技術の支持、家族の大切さを熱く語っている。
1回目のインタビューは、高齢出産のリスクの心配もなく期待に満ちていた。ところが、出産後の2回目のインタビューでは、その期待が開き直ったような強さと明るさに転じている。じつは仮死状態で生まれた子は重篤な障害を伴っていた。妊娠中に異常が発見されたが、あえて検査をせずそのまま妊娠を継続した。覚悟の上での出産であった。子は出生後からすでに何度も大手術を受けている。しかし彼女は「子育てが楽しい」という。障害をもった子を産んだことで人間としても政治家としても「優しく」なったと笑い、これまでの少子化対策には産みの実感が欠けていたと反省し、出自を問わず実子とする法律を作りたいと意欲を燃やしている。

四つの立場
野田議員の体外受精による出産は、卵子を提唱した現地の女性の側からみれば、別の女性に産んでもらうわけだから代理出産にあたる。このように生殖補助技術は別々にみえる側面が相互に連関している。おそらくそのこともあって、体外受精で妊娠したときも、また障害児を産んだときも、彼女の言動はネット上で猛烈なバッシングを受けた*⑵。その辺りの事情を確認するため、「子育て」をめぐる論議状況の内に野田の立場を位置づけてみよう。図1には対峙する四つの立場が配置されている。

図1                 個体
         正義                   幸福
           男女平等、弱者保護   自己アイデンティティ
             女性の権利      個人の自由、快楽
          制度         子育て         生命
             現行制度の維持     母性、身体
国家競争力     自然で安全な環境
           善                    共同
                     集団

その四つの立場とは、左上から反時計回りに、女性の権利として産み育てるために平等な環境を求める正義の立場、国家を維持し繁栄させるために少子化対策に力を入れる善の立場、自然な環境を求めて生殖技術の利用を問題視する共同の立場、そして個性の実現や楽しみのために自由な選択の保障を求める幸福の立場である。いずれの立場も女性が子を産み育てるための条件の改善を求める点では同じであるが、目ざしている方向や方法を異にする。
以上の座標軸に野田の立場をあてはめると、それが左下にある国家の少子化対策の立場に立ちつつ、右上にある個人の産む自由や育てる楽しさの立場を取り込んだものであるといえる。そのため、正義や共同の立場から批判されるばかりか、現行の制度と政策に固執する立場からはいい顔をされないし、個人の幸福を求める立場からも胡散臭くみられることになる。要するに四面楚歌なのである。

私(本論考)の視点
 私は野田議員の芯のある言動に共感を覚え、彼女を応援しているが、全面的にというわけではない。彼女の場合、「産む」面ではたしかに柔軟であり、現行制度(異性愛で性別分業付きの血縁核家族)をはみ出している。しかし、「育てる」面に関するかぎり相変わらず狭く、現行制度の枠内にとどまっている。野田議員の立場をさらに一歩先へ進めるとすれば、現在進行形の動向を踏まえつつ将来を見据えなければならない。そのとき、子産みだけでなく子育てについても現行制度をはみ出す方向、すなわち、「子どもを関係者全員で大切に産みかつ育てる」という方向が浮かび上がる。
ここでいう「関係者全員」は、上記の四つの立場で想定される当事者とは異なる。つまり、現行の標準家族や、子育てを楽しむ個人、権利主体と社会(制度)全体、産みの母と地域共同体(地域ぐるみ)ではない。これら四つの「関係者」では、後述するように変容しつつある現実をふまえる方向で、生命と制度との間ならびに個体と集団との間をつなぐことはできない。このためには、「身内」を超えつつしかも顔のみえる「身近な他者」の存在が不可欠であろう。そのモデルは臓器移植や生殖補助医療におけるドナーや代理母である。これら身近な他者が身内と一緒になって子どもを産み育てる「協同作業」に参加すること、それがここで含意されている。
子育てを「身近な他者たちの協同作業」として捉え直すことは、多様化しつつある家族の形に共通の目標と方向性を与えるはずである。さらにその協同作業をきっかけとして、関連する種々の制度や政策の練り直しから、人員の再配置や産業の育成にいたるまで、公共性の次元の大胆な組み換えをも可能にするにちがいない。要するに、「子育て」に今日的な意義があるとすれば、それが「身近な他者たちの協同作業」の内に組み込まれることによって、親密性の次元と公共性の次元を方向づけるような起点となるところに求められる。以下、今般の大震災や日本の歴史を省みながら、その起点たる理由を詳らかにしてみたい。

2 震災を通じて「見えてきたもの」と「見えなくなったもの」

見えてきたもの
大震災からすでに9ヶ月が経過した。原発事故の汚染処理をめぐる混乱はまだ続いている。そうした中でいくつかの世論調査が行なわれた*⑶。その結果やマスメディアの報道を見渡したとき、それまでは見えていなかったが、震災後になってはっきりと「見えてきたもの」がある。それを三点にまとめてみる。
 一つ目は、圧倒的なまでの破壊力をもった異形の自然である。それは、計算できる管理された自然でも、手の行き届いたこぎれいな自然でも、息をのむように美しい自然でもない。ただただ荒ぶれる自然であった。もちろんこれまでにも、台風をはじめ、竜巻、集中豪雨、猛暑などが年中行事のように到来してはいる。しかし、今回の破壊力は桁違いであって、多くの人々は茫然自失するほかないその自然の力に、古代人と同様、須佐ぶる神々の働きを感じたのである。
 二つ目は、救い難いほどの機能不全に陥った政治や行政の惨状である。保守長期政権が崩壊したあと、国民の期待を背負って登場した現政権ではあるが、この政権に何ほどかの歴史的意義があったとすれば、それは日本の政治・行政システムの欠点を白日の下に曝け出したことであろう。今回の震災はそうした事実をたんに冷厳なまでに展示したにすぎない。こうした中で例のごとく「大転換」を唱える言論人が登場しては話題を呼んでいるが*⑷、いま求められているのは空疎な大仰さではない。地に足の着いた変革の方向性なのである。
 そして三つ目が、「家族の絆」を再認識し、「社会的貢献」への熱意をみせる人々の姿である。「一人では生きられない」「助け合えるパートナーが欲しい」という理由から、婚活市場が活況を呈しているという。未婚女性だけではない。一般のサラリーマンの間でも家族と過ごす時間が一番大切な価値にランクされている。他方、社会貢献に関しては、若者のボランティア活動にとどまらず、企業で働く人々も何かの役に立ちたいとそれぞれの持ち場で工夫している。さらに、これまで形式に流れていた葬式を本来の弔いの儀式として見直す動きも出ている。

見えなくなったもの
 ただし、「見えてきたもの」の内で三つ目に関するかぎり、そのまますんなり受け入れることはできない。マスメディアによる半ば無意識的な作為のせいであろうが、見えてきたものの背後に隠されてしまい、見えなくさせられたものがあるからだ。それは少なくとも二つある。
 その一つは、家族の形が多様化している現実である。「家族の絆」が強調されることで、現行制度に合致した特定の家族の形だけが唯一理想的な形であるかのようなイメージが、それこそ洪水のように巷に溢れた。婚活をめぐる針小棒大な話もその類いである。しかし、国勢調査などの信頼のおける統計によれば、少子高齢化が急速に進行する中で、現行制度の標準モデルとされている核家族世帯数はシングル世帯数によって凌駕され、核家族世帯の中でも老親と中高年の子の組み合わせが増え、昭和一けた世代が主力となった高齢者の意識も40年前とは様変わりし、(NHK朝の連続ドラマ「てっぱん」のような)多様な家族の形が生まれつつある。つまり、標準モデルが存在しない状況が広がっているのである*⑸。
 もう一つは、若者世代のリアルな実態である。ボランティアの様子から若者を見直すような論評が垂れ流されているが、震災を通じて若者世代は変わったかと問えば、答えは否である。じつは1990年代半ばから若者のボランティアへの傾向は強くなり、その後も一貫している*⑹。図2は若者世代をめぐる震災前の議論状況を示している。詳細は別に譲るが*⑺、子育て論議と同様ここでも四つの立場が対峙している。合わせて構想される政治システムも示す。

図2                 個体
 普遍的帝国の構築       差異の政治の徹底

          怒り、絶望、世代間闘争 個性、自己アイデンティティ
         制度         若者世代        生命
        動物化(ケータイをもったサル)  希薄な社会的関係

          国民国家の管理強化      地域共同体の復活
                      集団

四つの立場はそれなりに若者世代の一面を捉えてはいるが、それは一面でしかない。若者世代すなわち子育てを担う世代は、快楽を志向しつつ新たなつながりを求めている。私はその根本特徴を「雑融性」と捉えている。その本質は「制度的なもの」「規範的なもの」の相対化・流動化である。つまり、「こうあるべきだ」という規範力が若者の意識のうちで限りなく薄れ弱まっていくことである。彼らは緊密な人間関係の鬱陶しさを嫌ってゆるい関係を好み、既成の制度から離れた自己のアイデンティティを模索し、優しく思いやりのある快楽中心の人生を願い、肩書きや皮膚の色や性別や年齢に囚われない関係を築き、新たな公共性の立ち上げをすら試みている。このように若者世代はじつに多面的なのである。

見えてきたものの新しさや勢い
要は、「家族の絆」や「社会的貢献」という「見えてきたもの」の裏面で、家族の多様な形や若者世代の多面的な生き方が隠され、「見えないもの」になっている。しかし、その「見えない」傾向は後述するように、社会の巨大な集合的諸力によって引き起こされており、震災が起こったからといって一朝一夕で消えてしまうものではない。むしろ、現在進行中の多様化や多面性の中にすでに萌芽としてあった「つながり」「絆」「結びつき」を求める動きが、今回の震災をきっかけにはっきりと「見えてきた」と受けとるべきであろう。しかし、話はここで終わらない。その「見えてきたもの」には、異形の自然や機能不全の制度を含めて、これまで存在しなかったような新しさや勢いが感じられる。次節では迂遠を承知の上でその背景を探ってみよう。

3 自然の力と社会の力と思想の力

社会の集合的な力と国民の欲望
家族の形の多様化や若者世代の生き方の多面性の背後では、テクノロジーや、市場経済、国家、マスメディアといった「社会の集合的な力」が働いている。これらの諸力は1980年代以降、個人と社会の関係や文化の在り様を相対化する「ポストモダン化」を皮切りに、政治と経済の垣根を越境する「グローバル化」、メディアとコミュニケーションの様相を一変させる「デジタル化」をもたらしてきた。とくにテクノロジーの著しい進展は物と人との関わり方を根底から変え、それを通じて人々の欲望を根本から変容させている。図3に示したのは、身体(心を含む)の次元に関する四つの領域が旧来の医療の範囲をはみ出して拡大し、この拡大した動きがふたたび肥大化した広義の医療の内部に回収されるという事態である。

 図3                  健康
             保健・年金制度   エンハンスメント
厚生政策 人工化

           制度        身体        生命

 公衆衛生対策       介護・リハビリ
医学研究      老い・死
                    回復

 その限度を知らない回収運動のことを「医療化」ないし「治療化」と呼ぶ*⑻。それは、例えば「心の悩み」を取り上げるなら、悩んでいる当人が自分で対処することに先回って、薬剤や専門家による心のケアによって解決しようとする傾向のことである。この傾向を推進しているのが、社会の集合的な諸力であり、またこれらと一体化した「国民の欲望(ないし願望)」である。「国民の欲望」は、エンハンスメント(能力増強)への欲望だけではなく、介護や死に対する過剰なケア、医学研究の自己目的的な膨張、社会保障費の増大と破綻の背後でも働いている。事態は身体の次元にとどまらない。自己理解の次元や親密な関係性の次元でも同様である。
 一般的にいえば、個々人の欲望(願望)は身体の欲動・情動に根ざしているが、身体の情動・欲動が剥き出しの状態にとどまることは通常ありえず、社会的な方向づけを受ける中で一定の欲望・感情へと形成される。そこに形成された欲望の型が文化である。型としての文化は、社会の集合的な諸力の変動につれて流動化し、そこからふたたび形成されることを通じて変容する。このとき、物と直に触れ合う身体の次元やその延長上にある生活の次元がまず変容する。これが変容全体の根底にある。その次に変容するのは、物や身体や生活と密接している自己の次元や親密な関係性の次元である。それに対して物や身体の次元から離れている社会組織・制度の次元や、全体性に関わる宗教的・形而上学的思想の次元は独自のリズムをもち、容易には変容しない*⑼。

伝統的な文化の型
以上の一般的枠組みを当てはめたとき、現在進行中の変容は日本の歴史を画するほどの巨大な変動として浮かび上がる。南北朝の動乱に始まって近世を通じて形成されてきた日常の生活の仕方や人との付き合い方、つまりいわゆる日本文化の伝統的な型が今まさに変容しつつあるからである。現在がそうした転形期にあることの一端は、先祖代々の墓に「こだわらない」傾向が1990年代半ばから顕著になった事実に現われている*⑽。
もちろん、新たな型はそれまでの型を変形しつつ創出される。とすれば、変容する以前の伝統的な文化の型とはどのようなものであったか。まずは、基盤となる生活の次元から確認してみよう。古代の荘園制が解体する中で、中世の後期から山野が開拓されて生産活動が活発になり、狭いが水平的な自治のまとまりとして村(惣村)や町が形成される。そこでは日常の勤労や精進が奨励され、助け合いや細やかな気配りが尊ばれる。そして、日常世界のしきたりを先祖代々の墓を介して非日常の他界が背後から支える。以上の基盤の上に和風の生活文化が定着し、さらに独自の芸能が芽生える。
 こうして形成された文化の型は、近世の身分制秩序の確立につれて政治的な垂直の方向づけ(「上下の分」)を受け、さらに明治の国民国家によって家制度(間柄)の中に再編される。そのような過程をくぐり抜ける中で、「日本人」の「自己」は一定の型をもつにいたる。それが、宇宙の中の「ちっぽけな虫」であり、自分の持ち場で精進する名もなき「職人」であり、戦国侍の延長上で(最強よりも最高を目ざす)「武士道(サムライ)」である。いずれも「死」の意識を背後に伴っている。
 生活文化であれ「自己」であれ、それらの型は身体の欲動を一定の枠内に回収するように働く。そのさい、回収の働きはつねに中心へと向かって引き寄せられていく。この引き寄せる磁場の中心には、「無数の物たちとの情的な関わり合い」を原点とし、日本列島という特定の自然環境の中で、太古からゆっくりと錬成されてきた宗教的・形而上学的な「つながり合い」の思想がある。「縁」「霊妙な神々の働きとの感応」「先祖の犠牲・恩への感謝」「現象即実在論」のように、外来の世界思想はことごとくその磁場の中心に引き込まれ、個々の物たちが横・奥・縦に「つながり合う」方向、そしてその「つながり合い」の内に自己を位置づける方向へと収斂しているのである。

宗教的・形而上学的な思想の励起
要するに、非日常の巨大な自然の力によって、日本文化の観念宝庫のずっと深いところに横たわっていた宗教的・形而上学的な思想が揺り動かされ、これが活性化することで現在進行中の多様化と多面化をいっそう加速し、増幅させたのである。「見えてきたもの」のもつ新しさや勢いの背景にあるのは、自然・社会・思想という三つの力の合成作動であり、とりわけ励起した思想の力である。
「須佐ぶる自然」というイメージの復活は、宗教的・形而上学的な思想が励起して巨大な自然の力と共鳴したことを意味する。もちろん、宗教的・形而上学的な思想は社会的変容からは遠く離れ、独自の息の長いリズムをもつ。しかし、それが励起したという事実は、宗教や形而上学的思想の営為が特定の自然環境という土壌に深く根ざしたものであることを黙示している。
社会制度もまた思想と同様に独自のリズムをもって変動する。そのため、中世後期から近世初期にかけて形成された生活文化の型のほうは、集合的な諸力によって画期的なまでに変容しつつあるが、制度のほうはじつはそうではなかった。人々の意識は変容しつつあるのに、制度は基本的に変わらないため、最近では意識と制度との間のギャップが拡大していた。その中で非日常的な自然が荒々しい姿を見せたのである。
自然の異様な力によって壊滅的な打撃を受けたのは、人々の生活基盤や慣れ親しんできた風景だけではない。むしろ本質的には、近世国家から明治国家をへて戦後国家にいたるまで、根本的な変容を蒙ることなく、旧態依然のままに存続してきた政治・行政システムと社会制度こそがそうなのである。そのとき、既存のシステムと制度を見限った人々の想いはどこに拠り所を求めるのだろうか。それが、宗教的・形而上学的な「つながり合い」の思想(センス)だったのである。ただし、その「つながり合い」の思想はいまだ漠然としており、明確な方向性をもたない。ここで、哲学の構想力と概念的な彫琢力が必要とされる。その方向性とは何か。

4 身近な他者たちの協同作業

代理出産をめぐる論議状況と「家族」の観念
 冒頭の野田議員の話に戻ろう。図4は代理出産をめぐる議論状況を示している。子育ての場合と同様、ここでも四つの立場が対峙している*⑾。
日本には代理出産に関する法律はないが、学術会議他の報告書や判例を読むかぎり、依頼者の願望が「恣意的な欲望」として否定されていることが分かる。たしかに、代理出産の依頼者の意向には代理母や生まれてくる子という他者が含まれており、患者単独の意向と同列に扱えないことも理解できる。しかし、それにしても、「恣意」として全面的に否定されるのは、家族の形が多様化し、生殖補助技術に頼る若い世代の意識が多面化している状況では、議論として公平さを欠いており、一面的に偏っているようにみえる。
依頼者の意向はなぜ「恣意的な欲望」なのであろうか。私見では、そう決め付ける否定論者の意識の内では、現行の家族制度(つまり異性愛で性別役割分業の血縁核家族という標準モデル)が不動点として固定されているからである。この固定観念が強力に働くことで、正義や共同の観点と相まって依頼者の意向が必要以上に貶められている。

図4                 個体
             子の福祉     (恣意的な欲望)
             代理母の人権     依頼者の願望
          制度        代理出産         生命
             現行の家族制度   子や代理母のリスク
             (標準モデル)     母性の未成熟
                     集団

もしそうだとすれば、論議平面の偏りを是正し、生殖補助医療を社会の中に適正に組み入れるためには、論議平面を成り立たせている共通の基盤に注目する必要があろう。反対者だけでなく依頼者にとっても、共通の基盤は「家族(親密な関係性)」の観念である。そしてこの観念の捉え方が両者の間で微妙に異なっている。しかし、人類の「家族」の観念は地理的にも歴史的にも多様な幅をもち、けっして一様ではない*⑿。そして今日、制度的に固定されてきたその観念がふたたび多様化している。地球規模の環境が激変しないかぎり、その傾向は今後とも続くだろう。

身内(だけ)から(身内を含めた)身近へ
以上を考慮するとき、「家族」の新たな観念として浮かび上がるのが、「身内(だけ)から(身内を含めた)身近へ」という方向性であり、子どもを大切に産んで育てるための「身近な他者たちの協同作業」という構想である。ここで「身近な他者」とは誰のことか。
「この子を大切に産み育てる」という目標を共有して協力し合うかぎり、依頼者(育てる人)とその身内にとどまらず、ドナーあるいは代理母(産む人)やその家族であろうと、自分では育てられない未成年の女性であろうと、さらには医療関係者や、行政関係者、法曹関係者、それに隣人や友人であろうと、彼らもまた実質的に「家族」の一員とみなされてよい。そのように産む前から育った後まで、特定の子に対して一貫した関心をもち、濃淡の差はあれ関与し続ける彼らが、ここでいう「身近な他者」である。
もちろん、ここでの「家族」は協同作業を行なうかぎりのつながりであるから、機能限定的で一時的な関係ではある。しかし、協同作業に参加する自分たちの「家族としての物語」を共有することができれば、感情的一体感を育むこともできるだろう。さらにもう一点、見落としてはならないのが、そうやって見守られて生まれ育った子もまた、「家族物語」を共有することで自覚的に協同作業の一員になれるということである。この意味で出自を知ることは決定的に重要である。
代理出産に反対する人はその否定的な側面をことさら強調して嫌悪感を抱いている。例えば、安全性への疑念、子どもの発育発達への悪影響、商業的取引、生活を稼ぐための提供、生まれた子が出自に関して将来いだくに違いない苦悩、裕福な人たちによる身勝手な利用、などがそうである。かりに産む人と育てる人とが金銭だけのつながりしかもたないとすれば、私自身も代理出産に反対する側に回るだろう。しかし、ここでいう「身近な他者たちの協同作業」は、その類いの一面化が起こらないように知恵を絞った末に構想されている。しかも、それはたんなる夢想ではなく、英国の代理出産の手続きや体外受精児をめぐる家族ぐるみの付き合いや、スウェーデンやニュージーランドの出自告知の取り組みといった、類似した実例が踏まえられている。
子育てを「身近な他者たちの協同作業」として行なうという視点は、生殖補助医療を越えて特別養子制度や里子制度にも拡張できる。養親が出生前から関わる新生児特別養子縁組は一部でしか実施されていないが(愛知方式)、これなども「協同作業」にかなり近いといえる。かりに子に重度の障害があると、狭い範囲の身内だけで育てるのは大変である。しかも、(野田議員の場合のように、乳児や幼児が相手であれば「かわいい」で済むかもしれないが)子が大きくなると種々の問題が発生してくる。そのとき、複数の身近な人が「家族」として関わることで支え合うことができる。

親密性の次元から社会制度の次元へ
「身近な他者たちの協同作業」という構想、つまり「身内(だけ)から(身内も含めた)身近へ」という方向性は、代理出産を含めた生殖補助医療をモデルにして、介護や老後や終末期の場合を含めた親密な関係性の全体にまで拡張できる。家族の形の多様化と若者世代の生き方の多面化が今後ますます強まり広がるかぎり、「家族」をそのような「協同作業」へと拡張することはむしろ現実的(実現可能)であるとすらいえる。さらに、「身近な他者たちの協同作業」の輪が広がることで、地域の人々のつながり合いにも実質的な核ができるだろう。それだけではない。子育ての「協同作業」という視点は、親密性の次元が社会制度から一方的に方向づけられるだけでなく、そこから逆に後者を方向づけることをも可能にする。
制度と政策に関してまず問われるのはその担い手である。愛知方式が例外的に実現できたのは熱意のある専門家がいたからである。逆にいえば、担い手たる専門的知識と見識を持つ人員の決定的な不足が、制度運用の停滞と硬直を招いている。早期離職を前提にした表面的な環境の整備ではなく、深く考えて臨機応変に行動できる専門職員を子育て関連の部門に手厚く配置することこそ、長い目で見たときもっとも効果的であろう。「身近な他者たちの協同作業」に加わるのは彼らである。豊かな人材がいてこそ社会の民生部門が育ち、そこに意欲のある若い人が集まり、大きな市場もできる。
現在、社会貢献をしたいと願う女性や年配者は若者だけでなくますます増えている。この「身近な他者」候補を活用しないのは、彼らの自己実現の機会と少子高齢社会の活力とを奪うことになろう。身近な他者たちを子育てに組み入れる「協同作業」から、機能不全に陥った政治・行政システムの息の長い変革は始まるだろう。いや、地に足の着いた変革はそこからしか始まらないのではなかろうか。

⑴読売新聞2010年10月28日〜11月1日、 2011年8月5日〜7日。
⑵例えば、「代理懐胎を問い直す会」ウェブサイト。
⑶比較的大規模では読売新聞や明治安田生命の調査があり(読売新聞2011年9月14日 配信)、小規模ではアクサ保険ほか、転職支援会社ビズリーチ、JTBモチベーションズ、プレジデントの調査がある(守島基博「プレジデント」9月28日配信)。
⑷例えば、中沢新一『日本の大転換』集英社、金子勝『「脱原発」成長論』筑摩書房。
⑸森下直貴:「家族」の未来のかたち――結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望(古茂田宏他編『21世紀への透視図』第3章)、青木書店、2009年12月。および、森下直貴:家族の変容から見た代理出産と終末期医療の未来(『浜松医大一般教育紀要』24号、1-22)、2010年3月。
⑹内閣府の世論調査結果(守島前掲記事)。
⑺森下直貴:《雑融性》としての「成熟」――「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ(『哲学と現代』26号、42-87)、名古屋哲学研究会、2011年2月。
⑻森下直貴:生命倫理学とは何か――ゆるやかなコンテクストの形成へ(『シリーズ生命倫理学』第1巻『生命倫理学の基本構図』第1章)、丸善、2012年1月予定。
⑼森下直貴:西田・三木・戸坂の思想と<ものの思考>―「経験と制度」の歴史哲学への視座(津田雅夫編『<昭和思想>新論――二十世紀日本思想史の試み』第2章)、文理閣、2009年7月。
⑽森下直貴:<無形のものたち>のリアリティ――日本人の死生感の現在(『死生学研究』特集号「東アジアの死生学へ」57-75)、東京大学大学院人文社会系研究科、2009年3月。
⑾森下前掲論文:家族の変容から見た代理出産と終末期医療の未来。
⑿森下前掲論文:「家族」の未来のかたち――結婚・出産・看取りをめぐる人類史的展望。

 
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