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4つの概念座標から紐解く若者世代に求める成熟のあり方
活動の実績 | 2019.05.30

Pdf版はこちら 現代若者成熟論

シンポジウム論文
  《雑融性》としての「成熟」
  ―「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へー

森下 直貴(浜松医科大学)

はじめに 《規範的なもの》の歴史哲学

今日の若者世代のものの感じ方やふるまい方をめぐって、年配世代の一部から「未熟」ではないかとする評価が出されている(1)。そのように映る面があることは否定できないだろう。しかし、そうした若者世代についても一定の「成熟」を語ることはできないのだろうか。いや、それどころか、視点のとりかたによっては、その彼らの「成熟」の形こそがむしろ未来の世界において「人間の成熟」の主流になる、という事態が成り立つかもしれない。もしそうだとすれば、その「成熟」はどのような内容をもち、さらに、彼らが今後スムーズに「成熟」するためにはいかなる条件が必要とされるのだろうか。この論考では、筆者なりの「歴史哲学」の視点からその答えを探りつつ、若者世代論を跳躍台にして倫理の「規準」そのものへと考察を深めることにしたい。
ここでいう「歴史哲学」の視点とは、「出来事」の連続としての人類の活動に定位しながら、《制度的なもの》の形成・変容に焦点を合わせ、その基盤である《規範的なもの》の起点・起源に立ち還ることで、現在から未来にいたる動向を展望するというものである。《規範的なもの》を基盤とし、《制度的なもの》を発生させつつ逆にこれによって包含されているのが、《倫理的なもの》すなわち「倫理」の場である(2)。したがって、この論考では、《規範的なもの》の生成という根源的な視座に立ち、《制度的なもの》の変容を背景において、個人の「成熟」の意味・方向を「倫理的」に考えることになる。なお、「歴史」にはもとより「物語」という意味もあり、それは「成熟」の具体化には不可欠である。その点については末尾でまとめて考察する。
また、「成熟」が問われる時代背景についてはこう考えている。「倫理」の場は、諸々の外部(倫理外)の力によって取り巻かれており、それらの諸力の配置の変容や変質に応じて転変する。倫理を歴史的に考察するためには、その場で働いているダイナミズムを捉える必要がある。近現代でいえば、「国家の力」「習俗の力」「資本の力」「テクノロジーの力」が絡み合い、「言説の力」を媒介にして「倫理」の場を変容させてきた(3)。日本の社会をながめると、明治から昭和の前半まで支配的であったのは「国家の力」と「資本の力」の絡み合いであるが、一九七〇年代以降とくに一九八〇年代以降になると、価値・商品・資本・マネーとしてすべてを平準化する「資本の力」と、数量化・機械化する「テクノロジー(またはテクノサイエンス)の力」とが絡み合う形になる。そして一九九〇年代後半からは、とくにデジタル「テクノロジーの力」が強烈な影響を及ぼし始めており、その影響が「成熟」を特有の時代的課題へと押し上げているとみなすことができる。
以上の構図では、「成熟」という問題は、若者世代に顕著に出現するとはいえ、彼らだけのものではなく、女性を含めて全世代に深く関連する倫理的な事柄になる。さらに、未来の人間の社会と文化の行く末に眼を向けるならば、平成日本だけの特殊な現象をこえて、グローバルで普遍的な倫理課題になるはずである。それゆえ筆者としては、上述した「歴史哲学」の視点と時代背景の認識に立ち、時代の動向の内部観察者として、今日の若者世代の不安や困難や模索に寄り添いつつ、未来社会の倫理に向けて考察を進めていくことにこだわりたい。
なお、本文中には、《薄い私》をはじめとして、《雑融性》、《虫》、《もの》、《mono》、《動き》、《形》、《意味》、《情的やりとり》、《非–物語》など、それこそ「未熟な」タームが続出・頻出する。これらは、事柄を的確に言いあてられない筆者のボキャブラリー不足と、オリジナリティへのこだわりから生じたものである。また、論述が必要以上に長大になり、読者の忍耐の限度を超えてしまったのではないかとも危惧する。シンポジウムの発表のさいの質問に応える必要からではあったが、併せて読者の寛恕を乞わなければならない。

第一節 若者世代、薄い私、社会環境

身近な現象から始めよう。今日の若者世代が抱いている「自己」の感じ方に注目し、それを表している三つの断片をとりあげてみたい。それらを典型例と強弁するつもりはないし、マスコミによる針小棒大な流布による影響という面もあるかもしれない。とはいえ、それら断片の背後には、一定の共通した世代感覚が横たわっているように思われる。
まず、「若者の草食化」をとりあげたNHKの討論番組である(「日本の、これから」2010年五月六日放送)。そこでは、「買わない」「結婚しない」「出世しない」という最近の草食系男女に対して、団塊世代の出演者が寄って集ってバッシングをしていた。あまりに非生産的で結論が見えるような番組に耐えられず、途中でテレビを消したのだが、同じスタジオ内で参加していた一人の若者がツイッターで反論した問いかけが、後々まで印象に残った。それは「クルマ買ったとき幸せでしたか」というものである。ここに表明されているのは、「草食系」という揶揄的な表現が、たんなる消極的な逃避ではなく、むしろ一つの積極的なライフスタイルを意味するという可能性である。
次は、同じくNHKの報道番組「クローズアップ現代」でとりあげられた「大人かわいい」である(2010年5月放送)。ここでの主役はアラサー女性たちであり、その彼女たちの「ファッションリーダー」が「吉川ひなの」であるらしい。吉川ひなの氏へのインタビューから浮かんでくるのは、年齢相応の装いを強いる既成の価値観に縛られず、また男性からの視線にも囚われない、自由な生き方である。ゲスト識者の解説によれば、アラサー女性たちの心理の背後には、先行き不透明の不安感があるという。この解釈は今ひとつ不明瞭だが、後述するように、日本社会の現在を反映した「不信と不況の感覚」を指しているようである。
三つめの例は、デジタル・マルチメディア時代にかかわる。チャットやモバゲーなどは、世の大人たちからマイナスイメージを持たれがちであるが、それは一面にすぎない。「デジタルネイティブ世代」の感覚では、オンラインとオフラインとの境界が消失し、ネットでの出会いがそのまま現実の出会いにスムーズに連続する。そこでは時空の距離だけでなく、年齢・性別・人種・社会的地位・学歴・宗教などの壁も消失する。とくにツイッターでは、個人的な呟き・コメントの輪が瞬時にして広がる。もとよりそこには同好者だけの一定の狭さはあろうが、他人との対面的で双方向の爆発的なつながりには、新たな公共性の立ち上がりを期待させるものがある(4)。
ここまで現象の断片を拾い上げてきた。それらの断片をつなぎ合わせるとき、そこに若者世代の自己像がおぼろげながら浮かび上がる。だが、その輪郭は先行世代からみれば、何ともつかみ難く、またあまりに心許ないものに映るだろう。そこでさしあたり、彼らの自己感覚に対して《薄い私》という名称を与えておきたい。この《薄い私》に似た言葉が何人かの論者(社会学者や精神病理学者)によってやや否定的に用いられたり(5)、《薄い私》の社会性の傾向に対して若者世代の一部が否定的であったりすることも事実である。しかし、社会性の縮小や剥落の面だけでなく、逆に一種の安定さや柔軟さを漂わせていることも確かであるから(浅野智彦編『検証・若者の変貌』勁草書房,二〇〇六年)、ここでは巨視的な動向に眼を向け、バランスをとった受けとめ方をしておきたい。
さて、言うまでもなく、《薄い私》は無から生じたのではない。そこで次に視点をぐっと後ろに引き、草食系の若者世代が登場してくる社会環境を一望してみよう。
まずは「不信と不況の感覚」をもたらしている「経済」の動向である。現在、経済の「成長モデル」はすでにして失効し、人口の少子・高齢化のなかで、産業構造の転換が模索され、とくに雇用機会の創出が叫ばれつつ、社会保障をはじめとする制度全体の改革が急務となっている。ふり返るなら、産業構造の転換の端緒は、一九七〇年代末以降の生活意識と消費行動の変化や、環境問題、「心の豊かさ」への関心にまで遡る(ポストモダン化)。その動きは八〇年代半ば以降のバブル景気によっていったんは蓋をされたが、しかしそのバブル経済も長続きはせず、その後の金融引き締め政策や、冷戦構造の崩壊、グローバリゼーションの拡大によって、あっけなく崩壊する。こうして日本経済は深い傷を負ったまま、さらにIT革命の到来によって従来の雇用形態を崩されながら、円高デフレによる長期の不況に陥る(1993〜2002年の間は「失われた10年」と呼ばれるが、それはその後も続いている)。新たな産業構造への突破口を見出せず、生活格差も広がって生活保護支給者数がいまや1950年代の水準に戻り、人々のあいだに先行き不透明感が蔓延するなか、2000年代に入ると世代格差論争が堰を切ったように噴出して現在に至っている(6)。
他方、「文化」に目を転じると、今日、デジタルメディアが本格的に浸透している。その端緒もまた1980年代初めに遡る。八〇年代から九〇年代半ばにかけて、子どもを取り巻く娯楽・情報環境は激変した。ビデオデッキが家庭に普及し、個室が標準化するとともに、九〇年代半ばにマンガ週刊誌が史上最高の発行部数を記録する。そうしたなかで、子どもたちは自宅・自室に居ながら、いつでも好きなときに溢れんばかりの娯楽・情報に接するようになった。さらにその後の長期不況のなかで、内向きの娯楽体験に拍車がかかり、報道を含めた情報全体が「エンターテインメント化」し、刺激・快楽・瞬間的な笑いがメディアの全面を覆うようになる。また1990年代の半ばからはケータイやインターネットが普及する。こうしてデジタルメディア環境が張りめぐらされるにつれて、グローバルなつながりが広がる反面、ネットからだけから得られる「現実感覚」に一元化されるようになる(7)。
以上のように、ここ三〇年間、エンターテインメント化する文化情報が氾濫し、面白さ・刺激を内向きに追求するメンタリティが浸透する一方、出口を見出せない経済と政治のなかで袋小路・不透明・絶望等の感覚が蔓延している。これが「成熟」を時代の課題へと押し上げる社会環境である。ここでふたたび「自己」の有り様に戻る。1970年代の終わり頃から自己探しの模索(人生や仕事の意味の問い直し)が始まっていた。1980年代前半のポストモダンブーム(とくに浅田彰『構造と力』勁草書房、1983年)もその一環であったし、八〇年代から九〇年代にかけて広がった宗教ブームや、九〇年代半ばの「哲学」ブーム(『ソフィーの世界』1995年)も同様であろう。そうしたなかで、明治維新前後から高度経済成長期にいたるまで、「個人」の成長もしくは成熟の拠り所となってきた国民的モデル(例えば『坂の上の雲』や『おしん』)が、1980年代前半にはすっかり退潮したにもかかわらず、世代ごとの感じ方の違いが際立つなかで、それに代わるべき新たなモデルを見出せない状態が続いているのである。とくに、閉塞感を抱き、関心を内向させるデジタルメディア時代の若者にとって、「自己」の模索はますます困難なものになっている(8)。

第二節 四つの言説、制度的なもの、規範的なもの

それでは、若者世代のもつ自己の感じ方、つまり《薄い私》の本質的な特徴とは何であろうか。それをめぐって現時点では少なくとも四タイプの言説があり、それらがそれぞれの視角から「成熟」を論じている。四つの言説を配置した(個人性/集合性の軸および反省性/身体性の軸からなる)概念座標を見ていただきたい(図1)。それらが若者世代の本質をどこまで的確に捉えているか検討してみよう。そのうえで筆者の見解を提示する。
図1
座標の下側には否定的な言説がくる。まず、左下に位置するのは「動物化」である。この言葉は、ポストモダン世代の代弁者の感のある東浩紀が、ヘーゲル学者コジェーブの解釈を下敷きにして、『動物化とポストモダン』(講談社、2001年)のなかで持ち出したものである。ここで「動物化」とは、ヘーゲル的な(いわばナンバーワンを目ざす)欲望承認の競争の水準を「人間的なもの」であるとみなしたとき、それ以前の水準に逆戻りすることを指している(ただし、東自身は身体的・無意識的な行動である「動物化」を肯定的に受けとめている)。つまり、競争から降りた若者は「サル」に退化したということである。その意味で、『ケータイを持ったサル』(正高信男著、中公新書、2003年)という書名はあまりに的確すぎるほどであった。しかし、そのような解釈は、ヘーゲル=近代社会に準拠した戦後世代=大人=モダンの視点を絶対化しているかぎり、若者世代から強く反発されている(9)。
他方、右下に位置する言説は、若者世代にとくに顕著に露呈しているとされる「希薄な結びつき」を嘆くものである。それは例えば、内山節の『共同体の基礎理論』(農文協、2010年)や、見田宗介の最近の講演(『軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ』東京大学大学院人文社会系研究科、2009年)等に窺える。ただし、その種の「希薄な結びつき」とは近代的自由をベースにした「ロマン主義的」な観点からの診断名であって、処方箋として内山の場合では共同体=生命世界の取り戻しがストレートに表明され、見田の場合には有限世界での共生への希望が屈折して説かれている(10)。若者世代はそこまで徹底しないかぎり、近代主義・個人主義に染まっており「未熟」だとみなされる。
座標の上側には肯定的な言説が位置を占める。まず、左上にくるのは「絶望・怒り・闘争」である。世代格差論争を誘発した書物には『00年代の格差ゲーム』(佐藤俊樹、中央公論新社、2002年)など多数がある。それらを受けてこの言説は、若者世代の置かれている不利な状況とそれをもたらす不公平な構造を告発している。さらに、そのように告発し合うフリーター・ニート論壇も存在する(『論争 若者論』)。ただし、論壇で発言できる彼らは若者世代のうちでもエリートといえなくもない。それはともかく、ここに復活している「主体」は、カント的自律ではなく、ニーチェ的自己(ルサンチマン)であったり、レーニン的自己(暴力革命)であったりする(白井聡『未完のレーニン』講談社、2007年)。
最後に、右上には「差異・個性・アイデンティティ」が位置する。この言説は例えば宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書、2010年)に表現されている。ここで世界の中心に立っているのは、差異・個性・アイデンティティの対等な承認を求める「私」、つまり、「オンリーワン」の輝きを求める「私」である。この立場が他の三つの言説に比べると、若者の目線や体感にもっとも近く、共感的ではあるのは疑いない。しかし、「私」の位置づけに関していえば、《現代的近代》のモダンな「個人」や「シングル」の延長上の「折り返し」的な位置にいるのか(社会学者のギデンズに依拠した宇野のこの表現はじつは解りにくい)、それとも、モダンとは完全に断絶しているのか、そのあたりは曖昧なままである。実際、宇野自身がいわゆる若者世代に属しているわけではない。
以上ここまで若者をめぐる四タイプの解釈をながめてきた。それぞれが若者世代の特徴の一面を捉えていることはまちがいない。しかし、筆者の眼には、そのいずれも表層に止まっていて、深層にまでふみこんで若者世代の本質的な特徴を捉えているようには見えない。もちろん、四つの言説のうちで若者世代の感覚にいちばん近いのは、右上に位置する「私」であろうが、それとてもなお不徹底との印象を拭いきれない。《薄い私》たちが「オンリーワン」としての承認を求めているかといえばそこは微妙である。むしろ、「グローバル平準化」にともなって一つの個性・差異にこだわらない「フラット」感覚とか(遠藤智己編『フラット・カルチャー』せりか書房)、「多元的自己」の感覚(浅野前掲書)が広がっているようである。それでは、そのような傾向の本質的特徴とは何か。筆者の見解ではそこには二つの水準がある。
第一の水準は、既存の社会的・文化的な決まり事や約束事から乖離し剥離する傾向である。あるいは、既成の殻や枠を着脱する自由度の深まりともいえる。つまりは《制度的なもの》からの距離・離脱の感覚である。それはいわゆるポストモダン的メンタリティとも重なっており、例えば、国民/非国民(国家・ナショナリズム)、大人らしさ/子どもらしさ、男らしさ/女らしさ、望ましい人生コース/望ましくない人生コース、などの分割へのこだわりから降りることへと向かっている。
第二の、より深層にある水準は、《制度的なもの》からの距離・離脱の感覚の広がりを受けて、《制度的なもの》の基盤である《規範的なもの》じたいが相対化され、流動化するような感覚である。《規範的なもの》を特定の方向に秩序づけていた《制度的なもの》が感覚的に遠のくにつれ、その内部を構成していた種々の分割=分別の境界線が剥き出しにされる。こうしてさらに、《規範的なもの》じたいに織り込まれていた種々の分割の正当性まで疑われ出し、その境界線が揺らぐようになる。そしてそのような動きは、自己/他者、生/死、親密な関係/疎遠な関係といった、《規範的なもの》(常識)を構成するもっとも基本的な次元の輪郭・境界にまで及んでいる(11)。
要するに、《薄い私》という「自己」の本質とは、《制度的なもの》からの距離・離脱の感覚であり、それゆえの《規範的なもの》の相対化・流動化という感覚である。今日の日本社会の表層を「草食系」とも「多元的自己」ともいわれる多様な現象が漂っているのは、そのような感覚が複合した結果であると捉えられる(12)。むろん、《薄い私》は日本社会だけに見られる現象ではない。日本で突出しているが、基本的には高度な産業・消費社会に共通する傾向だと考えられる。ただし、その様相は日本ではもとより、諸外国でも一様ではないだろう(13)。

第三節 成熟/成長、自己言及の次元、雑融性

それでは一歩進めて、《薄い私》においても「成熟」は可能なのだろうか。可能だとすれば、それはどのような内容をもつのだろうか。いや、その前に、そもそも「成熟」概念をどのように捉えたらよいのだろうか。常識から出発しつつ、最終的には筆者なりに咀嚼したオートポイエーシスの論理をふまえて考えてみたい(14)。
さしあたりの出発点として、「成長」と「成熟」に関する常識的な見方を手がかりにしよう。それによると、「成長」とは事物の量的な拡大を意味する。例えば、身長の伸びや、領土・版図の拡張、経済規模の伸張、人口の増大などがそれにあたる。そのさい内部の部分も同時に膨張するから、成長では内外を問わず量的な境界線が膨張することになる。それに対して「成熟」とは、量的な拡大・膨張が止まっているなかで、内部が質的に充実することを意味する。例えば、たわわに実る果実(爛熟)とか、植生の平衡状態(安定)のように、イメージの中核は生命的なものである。しかし、「質的な充実」をたんなるイメージを超えて捉えようとしても、なかなか判然としてこない。
そこで、常識的な見方から離れ、事物を抽象的なレベルで統一的にみるシステム論の視点をとってみよう。この視点からは、「成長」は外的「分化」、「成熟」は内的「分化」として捉え直される。そしてこの対比に沿って標準モデルが組み立てられ、「成熟/成長」「成熟/未熟」という区分・分割が画定される(15)。しかし、少し考えただけで分かるように、その種の区分・分割は、あくまでシステムの外部にいる観察者から眺められたものである。システムの「分化」をどれほど精密に語ろうとも、外部性という事態、つまりシステム自身からすれば恣意性という事態は変わらない。生物進化を例にとろう。「複雑化」(H.スペンサー)、「反復」(E.ヘッケル)、「個性化」(フォン・ベーア)といった物語がこれまで提出されてきたが、どの物語が「成長」であり「成熟」であるかは、それじたいでは決まらず、理論家や観察者によって任意に決められるほかないのである。
とすれば、システムに内在する視点をとるなら(つまりオートポイエーシスの論理では)、よりましな規定ができるのだろうか。その視点に立つとき、高次・複合システムへの「分化」について、形式的に次の三つの場合が考えられる。一つめは、要素システムが独立したオートポイエーシスであることを止めて高次の複合システムを作り上げる場合である(原核細胞から真核細胞への移行)。二つめは、要素システム同士がゆるやかなネットワークをつくる場合である(ハイパーサイクル)。そして三つめは、要素システムも高次システムも共にオートポイエーシス・システムを維持する場合である(心的システムと社会システム)。しかしそれらのうち、どれが「成長=外的分化」であり、どれが「成熟=内的分化」であろうか。残念ながらここでも相変わらず定まりようがない。なぜなら、内在的な視点をとってオートポイエーシスの論理に従うかぎり、そこにはあるのはただ作動の連続だからである。もう少しだけ精密にいえば、作動の連続がシステムを形成するとき、基本的には、「内=自己/外=他者」という区分以外のいかなる区分(「/」)も存在しない。結局、内在する当事者の視点をとったとしても、「成熟/成長」はやはり恣意的にシステムに持ち込まれた区分・分割なのである。
以上の結論が成り立つとすれば、「成熟/成長」はどこにも存在しないのだろうか。そうではない。外部の観察者であれ、内部の当事者であれ、その区別・分割が導入されるのは、個々の「心的システム」(いわゆる心)の内部で行われる自己言及的な確認作業をつうじて、ということなのである。自己の境界の引き直しという自己言及(あるいは広くいえば自己調整・自己遡及)作動のなかで、個々人なりにそれぞれ、「成長」に対して「成熟」の意味(「/」)が作られるのである。
そのさい、人類によって作られる「意味」がバイナリー(二項)の対をとる(つまり「意味」はシャノンのいう「情報」にあたる)とすれば、すべての意味は「成熟/未熟」または「成熟/成長」のように、単独の項としては存在しないことになる。また、その対(図)に対してそれ以外は「地」になる。加えて、「心的システム」による意味の形成(例えば3次元空間、三原色、等々)は、心的ではない実在世界の意味=情報(一〇次元空間、電磁場、等々)を一定の生物的方向に「縮減」したものである(16)。
 さて、そのように縮減された意味=区分・分割の産出が「心的システム」に固有の作動だとすれば、「心的システム」ではない「社会システム」について、内在的な事柄として「成熟/成長」を語ることは可能なのだろうか。そもそもそれは恣意的な押しつけではなかろうか。必ずしもそうではない。その成否は、「社会システム」(ここでは倫理の場)という(意味を共有する)コミュニケーションシステムが、その内部に自己調整もしくは自己言及の次元(システムの内部にありつつシステムから距離をとって自己を対象化し限定する次元)をもつかどうかに懸かっている。そして、社会システムの内部に自己言及の次元が生じるのは、個々人の《心的システム》における自己調整・自己言及による意味づけが、個々人のあいだに張りめぐらされるネットワークの場のなかを流通し、偶発的であれ、自己言及的な意味の同一性を獲得することを介して、なのである。
以上を敷衍してみよう。個々人のあいだに成り立っている《社会システム》(倫理の場)と個々人の《心的システム》(規範意識)とのあいだには、作動的に産出されて回路を形成する構成素として、多重の意味(=区別・分割)が相互乗り入れ的に循環している。個々人による心的な意味づけが、共通の回路に送り込まれ、受け手によって偶発的な変形を受けながら、別の受け手へと送り出される、という繰り返しのなかから、摩滅しつつも同一の意味が立ち現われるとき、そこに標準的=共通的な意味(社会通念)が生じる。したがって、より高次元の自己言及的な意味(より低次元の意味を修飾的に改変したもの)もまた、より低次元の意味の循環の回路に上書きされつつめぐることで、社会システムの自己言及的な意味として定着する。こうして社会システムについても、自己調整的・自己言及的に、ということは内在的に、「成熟/成長」を語ることが可能になるのである(17)。
とはいえ、しばしば想定されているように、社会システムじたいが自己調整・自己言及の次元を自律的に産出することはないのだろうか。筆者の答えは、産出はするが、それは自律的ではない、というものである。自律的という外観が生じるのは、おそらく上述のような作動プロセスを把握できず、システム固有の意味を物在化された(物象化の)水準で捉えているからではなかろうか。あるいは、たんに省略して語っていることもあれば、心的システムの自己言及を心的でないシステムへとメタファー的に転用しつつ、しかもそのことに気づいていないこともあろう。別例を出すなら、経済システムにおいても、その固有の構成素=意味(交換価値・価格)は、集合的な回路をつうじて、個々人の心理(心的システムの自己言及的な意味づけ=利潤・富・グリード)と交叉しているのである。
以上をふまえるなら、「成熟」概念、すなわち「成熟/成長」あるいは「成熟/未熟」という意味=区分・分割は、システムの自己調整・自己言及が作動するところではいつでも存在することになる。これを逆にいえば、システムの自己言及性の高次化の進行が、すなわち「成熟」なのである。したがって、成熟/未熟または成熟/成長について、例えば、高齢者の成熟、中年の成熟、女性の成熟はもとより、社会の成熟、技術の成熟、狭義の文化の成熟(爛熟)、等々、高次の自己言及の視点からいくらでも語ることができる。それはもちろん若い世代の《薄い私》についても同様である。
前述のように、《薄い私》の本質は、世界分割が特定方向に縮減・固定された《制度的なもの》からの距離・離脱の感覚にあり、またそれゆえの《規範的なもの》(世界分割)の相対化・流動化(弛み、揺らぎ、越境、組み換え、交錯、ずれ、破線化、等々)の感覚にあった。とすれば、《薄い私》の自己調整・自己言及の高次化において出現する「成熟」とは、《規範的なもの》の相対化・流動化を積極的に受けとめ直した肯定、すなわち、ゆるやかな分割の保持であると考えられる。
この「成熟」概念に対して相応しい名称を与えてみよう。世の中のボキャブラリーの在庫には、類似した表現として例えば、「クレオール」(文化的・言語的混交)があるし、社会的・文化的現象ではないが、「ハイブリッド」(雑種、品種改良の文脈)もあれば、「サイボーグ」という表現もあり、さらに現代思想からはドゥルーズの「錯合体=リゾーム(根茎)」もある(18)。しかし、「クレオール」が植民地主義のニュアンスを払拭できず、「ハイブリッド」が「種」の残滓を引きずり、「サイボーグ」がフェミニズムの主張を含み、「リゾーム」が管理・全体へのたんなる反発やアンチテーゼの形に止まるように、いずれも何らかのいわば手垢に塗れているように見える。そこでそのような負荷を振り払うために、思い切って新しい造語を作ってみた。それが《雑融性》である(ただし、このタームは後述する「雑種性」等を意識したものであるが、人口に膾炙するにはやや難があるかもしれない)。
《雑融性》という「成熟」の形に対して、たまたま咲いた一時期の徒花ではないかとの疑念が出されるかもしれない。経済状況が変化すれば《薄い私》も消えてしまうという意味である。しかし、筆者の考えでは、人類の歴史を《規範的なもの》の生成という視点(つまり倫理の場の生成という視座)から洞察するかぎり、そうはならない。それどころか、《雑融性》はむしろ未来世界における成熟の規準になるはずである。それを説明するために、次節以降であえて日本文化の底を探り、さらにそれを突き破って人間の世界経験の基底(制度的なものの成立以前=原初的なそして原形的な世界分割)にまで降りていくことにしたい。

第四節 重層性、雑居性、雑種性、アニミズム

「日本文化」に関して戦前と戦後をつうじて有力であったのは、「重層性」「雑種性」「雑居性」という捉え方である(19)。そうだとすれば、《雑融性》もそれらの別表現ということになるのだろうか。そこで、加藤周一・木下順二・丸山真男著、武田清子編著『日本文化のかくれた形』(岩波書店、1989年)をとりあげ、事柄の帰趨を確認しておきたい。
まずは「重層性」である。戦中・戦前に「日本精神」の単純で強引な捉え方が跋扈していたなかにあって、「重層性」という斬新な見方を提示したのは和辻哲郎の「日本精神」(『続日本精神史研究』所収、1935年)である。和辻は、新しい文化要素を取り入れつつ旧い要素が保存されるような、多様さの「並存」という積極的意味を「重層性」に担わせた。そして「絶対者」を立てない独特の融通無碍さ(祀り祀られる「通路としての神」)が、その背後で働いているとした。戦後、和辻は『鎖国』(1950年)の冒頭で、「日本精神」で打ち出した基本枠組みを維持しつつも、鎖国政策以前に芽生えていた「合理性」の精神が途絶えてしまったところに、日本精神の唯一の「弱点」を見ている。それは、近代国家の「国民」形成にこだわってきた和辻がなしうる最大限の反省であったといえよう。
次の「雑居性」というタームは丸山真男の『日本の思想』(1960年)に登場する。「雑居性」とは、だらしない無節操さとか精神の弛緩を表しているが、その背後にあるのは「無思想」であり、そのモデルとしての「固有信仰」である。このモデルの核心は絶対者の不在からくる無限包容にある。丸山の捉え方は一見して分かるように、評価だけを反転させているが、和辻によって設定された枠組みの上にある。そしてこの枠組みは、西洋思想(=高尚文化=一神教=高度の抽象的な原理=主体)との観念的な対比の強調によって拵えられたものであった。その後丸山は、『歴史意識の「古層」』(1972年)において、日本文化の核心を、「つぎつぎとなりゆくいきおい」という独特の「無窮的」な「永遠の今」=「現在主義」として押さえた。そしてその論文の末尾で、1960年代後半以降の大衆消費社会の広がりのうちにその「現在主義」が反響しているとし、そのもつ享楽主義の先進性を皮肉っている。さらにその後、『日本文化のかくれた形』では方法論的に一歩進み、「古層」のメタファーを「バッソ・オスティナート」に変更し(これは執拗な低音音型を意味するが、典型例はシベリウスの交響曲第二番の第四楽章である)、外来のものを取り入れて変化させる、その「変化の仕方」のパターンとして「日本的なもの」を位置づけたのである(武田編著、143-151頁)。
最後は「雑種性」である。提唱者の加藤周一によれば、「雑種化」すなわち「日本化」とは、いろいろな要素が混じって一本の木になるように、幹そのものに異文化が混じり合うことである(20)。加藤はその混じり合いの構造を知るために、『日本文学史序説』(1983年)と『日本 その心と形』(1988年、2005年)を書き、文学と造形美術の歴史のなかに「思想史」を探ることをつうじて、日本文化の全体の構図を捉えようとした。加藤を衝き動かしたモチーフは、日本の文化が多くの芸術的傑作を生み出しながら、どうしてあれほどまでに野蛮で滅茶苦茶な戦争を続けることができたのか、その答えを探ることであった。今日の時点からみて、そのような問題の立て方が適切であるか否かはここでは問わない。
ともかく加藤は、時間と空間という抽象度の高い概念に注目し、時間に関しては自己完結的な「現在」の連鎖を原型とする「現在主義」を、また空間に関しては「今いるところ=ここ」にこだわる「閉じた共同体」を特徴として取り出した。そこに共通しているのは全体に対して部分を強調する傾向である。この傾向が感覚の次元に表われると、瞬間の感覚的経験にすべてを還元する「感覚主義」(芭蕉の俳句)になり、実践の次元では共同体の空間秩序を変えるよりも、自分の心を変えることを重視する「主観主義」になる。こうして結局、日本人のすべての美術であれ行動であれ、「共同体中心の現在主義」によって方向づけられることになる(21)。
以上のような加藤の割り切りすぎる見地は『日本人の死生観』(1977年)の延長上にあるが(22)、そこで下敷になっているのは、言うまでもなく、日本人の「固有信仰」を掘り下げた柳田國男の考え方である。柳田が『先祖の話』(1946年)のなかで捉えた「固有信仰」は、「家」の存続を願う先祖との交流を核心とする。柳田は和辻や丸山とは異なって、多様な習俗のうちに成り立つ共同性のレベルと国家が要請する共同性のレベルとのあいだに、ある種の亀裂(先後関係)を意識していた。『先祖の話』以降の柳田が、『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』(「新国学談」三部作)および『田社考大要』において、氏神祭の前段階に山宮行事(山の神)を想定し、両者を合わせて(さらに田の神を含め)先祖との交流の表現として捉えたのは、常民の常識(=固有信仰)の核心(氏神信仰・先祖崇拝)を、伊勢神宮(大社=国家)への信仰から切り離し、原点の位置におこうとしたからである(23)。
ここまで、「重層性」「雑居性」「雑種性」というキーワードに注目し、その分析をつうじて、和辻や丸山、加藤や柳田の考え方をたどってきた。そこから浮かび上がってくるのは、《制度的なもの》の成り立ちという観点に立つかぎり、和辻や丸山の視線(国家共同体=天皇)より、加藤や柳田の視線(国家以前の共同体)のほうが、日本文化の深部に達しているということである。しかし、国家以前の共同体の水準に届いているとはいえ、その加藤や柳田の視線もまた、すでに成立している《制度的なもの》を前提にしている。つまり、《制度的なもの》が成立した後の地点で止まり、それより以前には突き進んではいないのである。では、そこからさらに《制度的なもの》の生成の最中に飛び込むとき、いかなる情景が見えてくるのだろうか。
日本文化の核心もしくは底流・基層には、しばしば、「自然(とくに山岳)崇拝」とか「精霊崇拝」(アニミズム)があると言われる。例えば、梅原猛が唱える縄文文化論や、中沢新一の『精霊の王』(講談社、2003年)ほか一連の著作が典型である。とくに中沢の場合、日本からはみ出してユーアシア的アニミズムを提唱してさえいる。しかし、日本文化の核心を「アニミズム」として捉えたとき、そこから漏れ落ちてしまうものがある。そもそも「アニミズム」(タイラー)という規定じたいがキリスト教的な視点から導入されたものであるし、また「自然崇拝」(F・マックス・ミュラー)でも同様である(24)。筆者の考えでは、「アニミズム」という水準、あるいはそれに近い水準(アニマティズム、マナイズム)の捉え方は、《制度的なもの》の生成の最中にふみ込んでいるとはいえ、霊魂と身体との分割=区分の萌芽を自明の前提にしているかぎり、より原初的なリアリティ感覚からすれば、いまだ中間段階に位置している。
アニミズムが「霊魂・精霊/身体・肉体」という分割を最初から前提にしているとすれば、分割される以前のリアリティ感覚が先行しているのではないか。次節の話を先取りしていえば、そこに立ち現われるのは、「物」でも「人」でもない中間的な「もの」たち同士がやりとりするような、交換と分配のネットワークの世界であろう(「もの」は「身」とも表現できる)。《制度的なもの》が成立する以前のそのような段階から、アニミズム・精霊信仰が発生し、さらに《制度的なもの》が成立するとともに、祖霊や神々も発生してきたと考えられる(これは後述するように、ベルクソンが洞察したプロセスであるが、それが成り立つとすれば、柳田はその最後の段階から出発していることになる)。それゆえ、《雑融性》を、「雑種性」でも、さらには「アニミズム」でもなく、むしろ《制度的なもの》の発生以前の原初的なリアリティにつなげ、そこからさらに原形的リアリティへと遡る必要があろう(25)。

第五節 虫、もの、mono、雑融体

日本文化のうちに原初的なリアリティ、すなわち《制度的なもの》が成立する以前の原始的な世界分割・区分を探ろうとするとき、その手がかりとなるのは「虫」ではないだろうか。それは日本人の死生観にとってはごく自然で親しいメタファーである。
例えば、伊藤整の分析によれば、宇宙における自己の存在の「小ささ」、あるいは「はかなさ」とか「無」という視点が、近代日本の文学者たちの思考様式を方向づけており、それはとくに志賀直哉に円熟した形で表現されている(『近代日本人の発想の諸形式』)。その視点はまた、徳川と明治の二つの時代を生きた福沢諭吉の「蛆虫」の視点とも響き合う(『福翁百話』第七話)。さらに過去をたどれば、「虫愛づる姫君」(『堤中納言物語』)の脈々たる伝統が浮かび上がるし、虫が棲む草木すら「成仏」するという「草木国土悉皆成仏」の宇宙観にも合流するといえる。いのち=草=虫=人(民草)という感じ方からは、パスカルのいう「考える葦」はけっして出てこない。それは端的に「葦」であり、「虫」なのである。古来、甲骨文字以来の漢字の(呪術的な)世界では、虫あるいは蟲は万物の原形を意味した。それが日本で独自に育まれ、自己を虫になぞらえる独特の感覚が発達した。そしてそれは、戦後を代表する社会運動家であった小田実のいう「虫瞰の視点」ばかりでなく(『世直しの倫理と論理』)、さらには最近のジャパニメーションまでをも貫いている(例えば『風の谷のナウシカ』)。「虫」のメタファーはこのように日本人の感性に深く融け込んでいる(26)。
それでは、「虫」」に成りきってその眼で眺め回したとき、世界はどのように映るのだろうか(27)。無数の小さな《虫》たちは、すべての生きもの=存在するものの象徴である。個々の虫は多様な衣装を身にまとって種々の形(物・者)で現われる。その奥底には原形あるいは裸形の《虫》がいる。そしてそれらの無数の虫たちが働き合い、うごめき合ってネットワークを作っている。そこから種々の具体的な形が輪郭をもって立ち現れては、やがてまたそこへと薄れて消えて行く、と想像できよう(図2)。直観的なイメージをさらに重ねるなら、「小さきもの」としての《虫》は、種々の衣装(鎧・制約・負荷)を帯びることで、例えば、「祖霊」「神々」「仏性」「無我」「一族郎党」「個人」「聖」「名人」「サムライ」「臣民」等々、種々の多様な形態で立ち現われ、斜面を登って近代国家の「国民」に到り着き、そしてそこを頂点にして後はひたすら滑り落ちて、「市民」から「シングル」をへてやがては《薄い私》に帰着するだろう(28)。
図2
原初的な、そしてそこから透視して原形的な、世界分割のリアリティを発掘する視点からは、「虫」の世界観が日本文化の伝統の奥底を脈々と流れるだけでなく、未開の人々のあいだにも見られることは、じつに興味深いことである。例えば、アマゾン奥地に住むヤノマミ族のシャーマンが描く世界では、死んだら人は虫になって天(空)に昇り、そして天(空)から降ってきてまた虫になり、それから人として生まれる。地上には無数の虫、例えば蟻がいて、生と死の繰り返しのなかで、蟻が人になり、人が蟻になるということらしい。また、蝶は死者が虫となった姿であるという。そのようなシャーマンの断片的な語りから、虫=人のリアリティが暗闇のなかに印象深く浮かび上がってくる(2009年末NHK放送)。いや、未開の人々ばかりではない。さらに驚くべきことに、現代の哲学者ベルクソンもまた未開の人々と類似の洞察を示しているのである(29)。
『道徳と宗教の二源泉』の第二章「静的宗教」において、ベルクソンは「アニミズム」以前のリアリティ感覚を三つの側面から照らし出している。一つめは、物事のもつ抵抗にかかわる「動きのイマージュ」、二つめは、死者にかかわる「分身・影身のイマージュ」、そして三つめは、運・不運にかかわる「意志(好意/悪意)をもった力のイマージュ」である。そしてそれらをまとめて、「物」でも「人(者)」でもない中間的な「半人格的意志的」なリアリティとみなしている(『ベルクソン全集6』白水社版、中村雄二郎訳、148-217頁)。このような捉え方は、筆者の考えでは、直観の哲学者ベルクソンにして初めてなしえた、人間の原形的世界のリアリティの見事な洞察である。
それを筆者なりに言い換えてみる。人間の原形的世界は、後述するように、《動き》が《情(こころ)》であり、その《動き=情》が《イマージュ=像=形》をもつことで《もの》となり、そうした無数の《もの》たちが働き合うような、《情的やりとり》のネットワークとして立ち現われる。ちなみに、デュルケームの後継者M・モースは、「お返し」の心理的圧力で支えられたその種の《情的やりとり》を「贈与関係」として捉えたが(『贈与論』)、それが《制度的なもの》の成立する以前にも存続していたとは考えていなかった。以下、ベルクソンの発想をふまえつつ、筆者なりのオートポイエーシスの論理(いまだ形成途上にあるが)を用いて原形的な《もの》の世界観の骨格を素描してみよう。

(一)すべての出発点は《動き》である。作動といってもよい。ある動きに別の動きが続き、さらに別の動きが続くというように、動きが後続的=偶発的にくり返されて循環するなかで、一連の動きの回路が立ち現われる(39)。
 (二)動きは《構成素》を伝達する。あるいは、動きそのものが構成素である。動きをつうじてある構成素が伝達され、これが偶発的に後続する動きに受け渡される、というくり返しのなかで、構成素の同一性が産出される。同一の構成素が動きの回路を循環するかぎり、そこに外(環境)に対する内(自己)が生じる。同一の構成素は内/外を分割する規準であり、これによって動きの回路の同一性が支えられる(31)。
 (三)規準としての同一の構成素は二項分割(対)である。したがって、動きの回路は《意味》の回路であり、「情報」の回路である。あるいは、意味が分割=規準であるかぎり、《規範的なもの》の回路である。個々の意味の回路は、後続的につながり合い、さらにそのつながり合いが波紋のように広がることで、意味(情報・規範)のネットワーク世界が形成される(32)。
 (四)同一の構成素(意味)の回路は《形》である。動きは形になる。情報(information)はもとより形である。形には《構造》(見えない形)と《形態》(見える形)がある。構造は同一の構成素の結合様式であるが、初めにあるのは構造ではなく、意味を受け継いで受け渡す動きである。構造に基づいてミクロな見える形(物)が意味的に結合され、特定のマクロな形態が構成される。結合様式の違いが形態の違いをもたらす。
 (五)多種多様な見える形(空間)すなわち形態が、《もの》である。ものは多様な形として顕在化し、ふたたび個々の動きへと希薄化し、またその循環をくり返す。見えない形すなわち同一の構造に則って結合された多様な形態は、すべて《バーチャル》な形であり、相互に転換・変形・変態が可能である(33)。
 (六)一定の生物的形態(身体、人類)としての人間は、それじたい意味(分割)に満ちている世界を、さらにコントラストを強調する方向(=感覚)で「近似的」に受けとる。したがって、《もの》はすべて人間にとってフィクショナルである。しかし、それ以外のやりかたでは経験できないかぎり、リアルでもある。しかも、もの=見える形(像=イマージュ)は、知覚でも想起でも想像(幻想)でも同じ形であり、実在の対応の有無やデフォルメの違いを除けば、同じリアリティをもつ(34)。
(七)動きがあり、そこに形が生じるとき、《もの》がある。ものの世界のなかで人間はものの一つとして相互にあるいは他の多様なものたちと出会う。その出会いは、人間的な受けとめ方(情動から感情までを含む)と社会的なやりとりに基づくかぎり、《情(こころ)》的である。最初に立ち現われるのは、霊/肉の分割ではなく、動き=形=もの=情である。人間にとって無数のものたちは、最初から情的に関わり合っている(35)

ここまで、《虫》のメタファーに導かれ、ベルクソンに勇気づけられながら、人間の原初的な世界経験のリアリティまで降りていくことによって、《もの》たちが関わり合っている原形的世界の骨格を描いてきた。この原形的世界は、《動き》《構成素=意味》《形》《構造》《形態》《もの》《バーチャル》《社会的なもの》《情的やりとり》等から成り立ち、《制度的なもの》という固定した枠組みが形成される以前の、《規範的なもの》がゆるやかに覆う世界である。そこでは世界を縦横に分断する境界線はいまだ固定されていない(36)。
以上のように、原形的な世界が《規範的なもの》のゆるやかな分割であると考えられるかぎり、分割の相対化・流動化を高次元の自己調整・自己言及の作動のなかで暫定的に肯定する《雑融性》にとって、それはルーツとなるような世界といえよう。とすれば、《雑融性》は人類史のうちに深く根を下ろしていることになる。そして、今日の若者世代の《薄い私》の延長線上に浮かんでくる未来の自己は、(潜在的に)高次の自己言及性の水準で現れる《雑融体》であろう。それを《mono》と呼んでみたい。
《mono》は、デジタルネットワークのなかを無数の他の《mono》たちと関わり合い、多様な形態を横断・変換しつつ、バーチャルなリアリティ感覚をもつだろう(37)。その細部はともかく、「成熟」としての《雑融性》への傾向は、《mono》という形をとって今日から未来にかけて主流となって浮上してくると考えられる。しかしそのとき、《制度的なもの》はどのように位置づけられるのだろうか。人間の社会はたんなる《規範的なもの》の水準に止まることはできない。最小限でも《制度的なもの》という形態の再設定を必要とする(少なくとも当面は「国民」という集合性を必要とする)。とすれば、《規範的なもの》の拠り所に立ち返り、そこからあらためて考えを進めていかなければなるまい。

第六節 普遍主義、倫理規準、最小限の共有目標

探求にはそれに相応しい手がかりが必要である。ここでは、若者世代にかろうじて属する山下範久の『現代帝国論』(NHKブックス、二〇〇八年)をとりあげ、そこに描かれた世界システム論の普遍主義フレームを検討するなかで、《制度的なもの》を再設定するための拠り所を探ってみたい(図3)。山下は、あらゆる意味の拠り所の底が抜けてしまう「ポランニー的不安」を起点にし、その種の不安の穴を埋めるために「普遍主義」が必要とされると考え、それをめぐって三タイプの立場を挙げている。ただし、若者世代の評価をめぐる既述の座標との連動を考慮して、山下のフレームを拡張することになるが、四つめの立場を加えておくことにする(なお、「世界システム」が「システム」として成り立つかどうかはここで問題にしない)。
図3
まず、左下にくるのは、若者世代だけでなく全世代的な「動物化=自然状態」(例えば、バイオテクノロジーによる人間改造のような野蛮さ)に対して、これを規制するために、国家=普遍主義を要請する立場である(フランシス・フクヤマ)。この「国家」の立場では、《伝統的近代》という特定の「善き社会」がそのまま踏襲されているため、国家と自然状態とが永遠にくり返し、交代することになる。また、権力による規制という発想は、「善」の内容を特定方向に最大限に固定化しているから、例えば、欲望・願望追求型の医療に対応することは難しいだろう。結局、国家と制度的なものとの等号が自明視されているかぎり、この立場は実際的であるかもしれないが、自己言及性の水準は低いといわざるをえない。
次に、右下には、「普遍主義」を特殊化・有限化し、生命的・自然的な共同体・共生体に立ち還ろうとする立場がくる(内山節、見田宗介)。この立場は「自然」や「生命」を理想として実体化する。しかし今日、理念としての「自然」や「生命」は、「伝統」と同様に、マーケティングのメニューになっているだけでなく、それじたいが人工的な仮構化を著しく蒙っている。したがって、理想化することなく現実的に思考するためには、希薄な人間関係を受け止めつつ、その内部から新たなつながり合いを創出していくほかない。その方向を半ば自覚しつつもロマン主義的に語ってしまうところが、この立場の特徴であり癖なのである。
三つめは、対立する多元的価値をグローバルなレベルで包括するため、「帝国」という形式的な普遍主義に依拠する立場であり、左上にくる(山下、ロールズ)。この「帝国」の立場は、人々の善き生の考え方(文化)のあいだに優劣を付けることをせず、あくまで「中立的枠組み」を堅持する。しかし、枠組み(制度の基本理念)の前提には、何らかの共通の善、あるいは少なくとも(例えば医療にける目標のような)共通の目標がなくてはならないだろう。そうでなければ、たんなる棲み分け・分断・隔離と変わらないことになり、結局は、市場という別の普遍主義的システムに浸食されてしまうのではなかろうか(38)。
最後は、右上の、一切の普遍主義(一般化、類的括り)を否定し、身体的多様性へと差異化を徹底する立場である(大澤真幸、J・バトラー)。この立場が「身体的多様性」にこだわるかぎり、究極的には、個別の瞬間の感覚=微分的快感に突き進むことになろう。しかしそうなると、何らかの共同的運動を組織したり、社会の共通目標を設定したりするルートは、最初から閉ざされてしまう。この種のジレンマはいわゆる「差異・アイデンティティの政治学」に避け難く付随するものである。結局、身体的多様性・差異という見方は、個々の身体的・心的システムに拘泥するかぎり、制度的なものを再設定するための足場にはなりえない。
以上ここまで、世界システム論における「普遍主義」の四タイプの立場を検討してきた。筆者はそのいずれの立場もそのままの形では支持できないと考える。なぜなら、そのすべてに共通することだが、最小限の共有目標を欠落させているからである。およそ制度にかかわる理念は、社会の何らかの目標から導出されるが、その目標は人間観や存在観を前提にしており、これらと密接に結びついている。また、その目標が最小限であることによって共有化が可能にもなる。ところが、四つの普遍主義の立場はいずれも、《制度的なもの》の基盤である最小限の共有目標を欠落させており、表層の対立平面に囚われているのである(39)。
世界システム論だけではない。その種の目標の欠落は、抽象度をさらに上げるなら、「倫理規準のフレーム」においても同様に指摘できる。以下に示したそのフレーム(図4)では、善・徳、正義・権利、幸福・個性、共生・共同という四タイプの考え方が対峙している。もちろん実際には、善/悪、正義/不正義、幸福・自由/不幸・拘束、共同・支え合い/不和・争い、という二項分割同士の対立になるのだが、それはともかく、四すくみの対立状況はどこまでも果てしなく続く。規準同士の表面をどんなに動き回っても、対立状況は変わらない。そうなると、斜め睨みのシニシズムを除けば、最終的には「相対主義」という高次元の中立的枠組みだけが残ることになろう。

図4
それにしても、四つの立場に対する自己言及の視点として残るのが、「相対主義」という高次元の普遍主義的な中立的枠組み、つまり、いわば帝国の帝国(超帝国)であるとするなら、それぞれの棲み分けじたいが自己目的化することになるが、これは事実上目標そのものの揮発・蒸発を意味するだろう。それとも、実際に幅を利かせているように、四つの立場を適当に混ぜ合わせてバランスをとったような方策になるのだろうか。したがっていずれにせよ、一定の最小限の実質的な共有目標を探るような方向は不可能だということになるのだろうか。いや、最小限であれ何らかの共有目標を考えたがるのは、旧来の思考に囚われていたり、思考そのものが安易でナイーブだったりするからだ、という批判の声が聞こえてきそうである。しかし、筆者はそうは思わない。むしろ、相対主義とは対極の方向を切り拓いて、妥協のバランスを成り立たせる前提条件を問い直すことこそ、倫理学的思考を一段と「成熟」させることになると考える。そこで節を改め、具体例として捕鯨問題をとりあげながら、その異なる道を切り拓いてみよう。

第七節 捕鯨問題、根本規準、情的やりとり

「捕鯨」に関するニュース報道を見聞するかぎり、一部の環境保護団体や、欧米諸国の世論、捕鯨国の政府機関、地元漁民、多くの日本人のあいだで、見解の開きがあまりに大きく、ときに暴力事件すら発生している。対立状況の打開などそもそも不可能に思えるほどである。たしかに「捕鯨問題」には多様な論点が含まれおり、互いに絡み合って錯綜している(40)。しかし、対立と混乱はその種の錯綜ゆえに生じているのだろうか。いや、表面にのみ眼を奪われていては事柄の本質は見えてこない。個々の論点の深層に眼を向けてみよう。
そこに浮かび上がってくるのは、鯨の捕獲・食事・利用をめぐる根源的な分割線である。すなわち、「人間/動物」の分割線であり、動物に関して「食べてよい/食べてはいけない」という分割線である。後者にはさらに、食料/使役/享楽/観賞/愛玩/友達等に分割されるだろう。これらは人間観や動物観に深くかかわる根源的な分割線である(41)。個々の論点をめぐる対立状況は、具体的な事象や場面においてその種の分割線をどのように引くのかという、線引きの仕方の違いから生じている。それゆえ、根源の分割に立ち戻って論点全体を捉え直さないかぎり、捕鯨をめぐる対立と混乱を本質的な意味で収束へと導くことは困難であろう(42)。
ここでふたたび、「人間/動物」という分割の視点から、前節でとりあげた四つの「倫理規準のフレーム」、すなわち「正義・善・幸福・共同」の倫理規準を見直してみよう。倫理基準に則った例として、カント(動物に対する義務)やベンサム(快苦の総和)の見解が浮かんでくる。あるいは、動物倫理の歩みに沿って見渡せば、「残酷さ」を憂慮するヒューマニズムや、弱者に与えられる「福祉」、理想主義的な対等の「権利」、そして最近では「コンパニオン(ソウルメイト)」という見方まで揃っている。それら多様な見方では、その種の根源的な分割はどこまで考慮されているのだろうか。
結論をいえば、それらのいずれも本質的な点で、人間を中心に組み立てられた価値座標の平面に留まっており、「人類/動物」もしくは「人間/動物」の分割をもたらす根本規準を問い直すことまで至っていない。例えば、苦痛の平等を打ち出すP・シンガーにしても、人間の感覚・知能を準拠モデルにして、感覚の格差と線引きを恣意的に容認している。同様にコンパニオン論者でさえも、自分との親密さを規準にするかぎり、犬や猫は友達であるが、牛になると有役な生きた道具(奴隷)にすぎない、という具合である(43)。
ただし、四つの倫理規準のうちで、「共同性」を支える「生命」とか「自然」という拠り所は、分割線そのものを消去しているという意味では、なるほどもっとも徹底しているように見える。しかし、生命絶対平等主義という極端に陥る可能性があるかぎり、他の倫理規準とのあいだで衝突を避けられないだろう。また逆に、そうならないとすれば、宗教的な直観のレベル(ディープ・エコロジーという名の神秘主義)で満足するかぎり、そこからは何ら実際的で具体的な方針も導かれないだろう。分割線を消せばそれで済むということではなく、重要なことは、多様で多元的な宗教的・形而上学的伝統のすべてに共通する基底を明晰に語り出すことである(44)。以上を考慮すれば、四つの倫理規準の平面からいったん離れ、それらに共通する基盤を探る方向へと進まなければならない。あくまで素描であるが、以下でそれを試みよう。

第五節で描いた《もの》の原形的な世界観をふまえるとき、人間の《社会的なもの》の基底で動いているのは、無数の《もの》たちとの《情的やりとり》である。この《情的やりとり》は、好意(場合によっては悪意)の産出作動のくり返しであって、そこで産出作動を駆動しているのは「好意へのお返し」である。筆者の考えでは、これこそは「正義」の根源的な感覚にほかならない(それはプラトン『国家』の冒頭にすら登場する)が、この種の原感覚から次の三つの根本規準が引き出されてくる。
第一の根本規準は、個々の《もの》の「同一性」を保持しようとする回復の動きにともなう《安らぎ》であるが、これは別の著作で主題的に論じているのでここでは触れないことにする(45)。
第二の根本規準は、(お返しをできない)場合の未済性の情、すなわち《済まなさ》の感覚である。ものたちとの情的やりとりには、無数の他のものたちが働き合っているおかげで《もの=自己》があるということ、したがって時間的にいえば、先のものを後のものが踏み台にして引き継いでいくという犠牲の連鎖が含まれている。そのかぎり、犠牲に対する済まなさ=感謝の情(こころ)、つまり、償いえないという思いが不可避的に生じてくる。
そして第三の根本規準が、本論考で焦点となっている《雑融性》(分割のゆるやかさ)である。情的に関わり合うものたちは、同等のリアリティを有しているかぎり、情的なもの同士として、すなわち好意・悪意の意図をもつ「人=もの」として向かい合う。ここには固定した分割線(人間/動物)は存在していない。生者/死者でも同様である。既述のとおり、《雑融性》とは、《規範的なもの》に織り込まれている多種多様な分割線・境界線が、相対化され、流動化し、ずらされ、揺らいでいくという感覚を、肯定的に受けとめて、ゆるやかな引き直しを保持する自己言及的な視点である。従来、混淆・混合・融合・雑種等はたんなる混ざり合いとして否定的に捉えられてきたが、これを反転させて積極的に捉え返すとき、この視点が開示される。前節までのところでは明示しなかったが、《雑融性》は《情的やりとり》に由来するのである。

以上の三つの《根本規準》が、筆者の考えでは、多元的な「倫理規準」にとっての共通の拠り所である。それらを光源として、四つの倫理規準の平面の背後から照射するとき、正義/不正義(平等/不平等)、善/悪(徳/悪徳)、幸福/不幸(快楽/苦痛)、生命/非生命(共生/競争)といった分割線は、相対化され、流動化し、揺らいでいくだろう。そしてそれとともに、四すくみのジレンマ・対立もまた薄れていき、それぞれを同等の重みで位置づけ直すような枠組みが浮かび上がるだろう。そのような《雑融性》の方向は、倫理的な自己調整・自己言及の徹底であり、本論考の定義に従うかぎり、倫理学的思考を一段と「成熟」させるものである(46)。
そこで例示的に、以上の三つの根本規準に照らしつつ「捕鯨問題」に立ち戻ってみよう。「食べなければ生きていけない」という命の連鎖(生/死の連帯性・連続性)を考慮するなら、人間/動物の分割線ならびに動物内部の境界線を少しでも相対化・流動化する方向にもっていくことが、いかに平凡に映ろうとも、望ましい態度であるといえる。そこから導かれる方針は次の二つである。その一つは、資源の管理の下での「適度な」生産・流通・消費のやり方である。そのためには、モラルの有無にかかわらずそれを方向づける仕組みが必要である。それと同時にもう一つは、そのような管理と生産・流通と消費(欲望)を「適切に」動機づけるモラル、とくに《済まなさ》である。ここでもモラルを不断に刺激する特別な仕組みが必要である。
最後の点を敷衍しよう。動物実験の倫理に関して3R原則(refinement, reduction, replacement)があることは知られている。それはたしかによく考えられているが、上述の観点からみれば、それでも欠落している側面がある。その側面とは、犠牲となった実験動物に対する感謝の感情が自覚的に組織化されていないことである。具体的には、例えば慰霊祭のような儀式の不在である(日本では慣習として続いているが、倫理的に明確に位置づけられていない)。このような犠牲=恵みへの感謝を不断にかき立てることをつうじて、人間/動物の境界線はたえず相対化され、流動するだろう。それに対して、「ヒューマニズム」、「福祉」、「権利」、「コンパニオン」という考え方は、済まなさ・感謝の感情とその組織化によって裏打ちされないかぎり、「監督者・保護者」、「恵まれたもの・強者」、「(理想主義=観念主義的な)対等者」、「(身勝手な)友達」という外観の裏側に、人間の側から引かれた一方的で固定された分割線をいつまでも温存したままであろう(その種の傲慢さに気づくことのない一部の環境保護団体のように)。

第八節 物語、神話、歴史、非-物語

個人の「成熟」の大まかな形は、人類が交換と分配のネットワーキングとしての《社会的なもの》の場を生きるかぎり、古今を問わず、またいずれの集団であれ、それほど大きな違いはないとも考えられる。与えられた役割や仕事に対する誇り、親しい仲間との結びつき、死との折り合い、人生の意味づけ等は、ほぼ同じであろう。しかし今日、《制度的なもの》からの距離・離脱の感覚が広がり、《規範的なもの》の相対化・流動化の感覚が深まるなかで、依拠すべきモデルはすでに消滅しているだけに、「成熟」の細部を描くことはますます困難になっている。
ここまで論じてきたように、理念的にいえば、「成熟」の規準は《雑融性》である。人類にとっての原形的なリアリティの世界、すなわち《社会的なもの》の原形的次元は、《情的やりとり》である。そこには、人類以外の生きものたちとの交流だけでなく、過去の死者たちや未来の生者たちとの交流・語らいも含まれる。その世界次元から、《安らぎ》や《済まなさ》とともに、《雑融性》という根本規準が由来している。伝統的な「無」や「超越的人格神」に寄りかかったり、ナショナリズムに陶酔したり、アニミズムに安住することなく、三つの根本規準、とくにここでは《雑融性》に照らし合わせながら、生と死や、自己と他者、親密な関係の形を探りあてることが、個々人に要請されている。同様に、肥大化する自己配慮型の欲望に対して自分自身で境界線を引くことも必要である。さらに、《制度的なもの》(例えば「市民」や「国民」)を機能的に意味づけ直す作業も避けられない。そして以上の延長線上で、個々人のあいだに、薄いかもしれないが積極的なつながり合いのネットワークを編み上げて、孤立・無縁化を回避することがとりわけ重要になるだろう。以上のような自己言及的作業は、今日の若者世代にとってだけでなく、男女を問わず、全世代的に時代の要求となるはずである。
しかしながら、理念的な規準を具象化する何らかの媒体がないかぎり、「成熟」のイメージをもつことが難しいことも確かである。これまでそのような媒体とされてきたのは「物語」である。原始や未開の社会にあってその役目を担ったのは「神話」という物語であり、また、古代や近代の文明社会ではそれに加えて「歴史」という物語であった。「神話」とは、レヴィ=ストロースを拡張させていえば、人生の謎や文化の起源をめぐって、人類の普遍的思考に基づきながら、特定の社会の秩序観や関心を一定の筋に反映させることで、集団のなかに共有される「物語」である。その筋は、一人前の成人になるための試練の儀式=「イニシエーション」を基本とする。それに加えて、古代社会では王権の正当化が、近代社会では国民のアイデンティティが織り込まれる。他方の「歴史」もまた、特定の人物や出来事を「伝説化」し、それを起源とすることで集団の「共同意識」を支え、鼓舞してきたのである。
とはいえ今日、「成熟」の具体化にとって「物語」がどれほど不可欠であるにせよ、「神話」や「歴史」のような「物語」を死霊のように呼び戻すわけにはいかない。「神話」が文化の謎に対する象徴=幻想レベルでの調停=解決であるとすれば(レヴィ=ストロース)、「歴史」は特定の出来事を幻想レベルで理想化したところに成り立つ(ベンヤミン)(47)。そしていずれの幻想にも、特定の固定した分割=規準が自明の前提とされている。その点では寓話・ファンタジー作品でも同様である。
ファンタジー作品の一例として『スター・ウォーズ』を見ておこう。ハリウッド映画は世界中で大きな影響力をもっているが、なかでもこの作品の影響は圧倒的であるようだ。それが若者に向けて発信しているのは、監督やプロデューサーの話を総合すると、「成長すること」「大人になること」そして「自分のなかの悪に陥ってもそこから立ち直ること」という単純なメッセージである。これらはたしかに人生における普遍的なテーマ(イニシエーション)ではあるが、この作品ではそれらが現代米国の神話(キャンベル風の英雄譚)によって露骨なまでに脚色されている(48)。
問題は、種々の固定した分割を抱えこむ思考の惰性的枠組みである。「神/悪魔」「帝国=古代ローマ/王国」「男/女」「権力/愛」などの分割をまとめあげているのは、「敵との戦いによる愛と正義の実現」という枠組みである。「物語」に頼らざるをえないとしても、(《回復=安らぎ》や《済まなさ=感謝》とともに)ゆるやかな分割の保持という《雑融性》を根本規準にするならば、そのような枠組みや分割から距離をとり、できるかぎり流動化を引き起こす必要があろう。今日求められている「物語」は、既成の思考と感性の習慣から脱却し、可能なかぎり幻想化・理想化を排して、複数性や未完結性をも織り込んだ物語でなければならない。雑融性を《非-分割》と言い換えるなら、それは《非-物語》である(49)。

結び 宮崎=ジブリ作品、現実性、雑融性

《非–物語》の条件をさらに具体的に把握してみよう。これをもって本論考の結びとしたい。ここでとりあげるのは宮崎駿=ジブリのファンタジー作品である(ここでは両者を区別しない)。宮崎は今日「国民作家」として全世代的に評価が高く、世代が限定される例えば村上春樹よりも大きな影響力をもつといわれる(50)。手がかりとして若者世代の酒井信による宮崎駿論(前掲書)に依拠して論を進める(ただし、筆者にとっては慣れない分野であるため、試論の域をこえるものではない)。
さて、酒井は宮崎の「現実感覚」に注目する。「エンターテインメント」に関して、昭和の終わり(1980年代)以来、娯楽・情報環境が変容するなかでその「平準化」が進行している。この点はすでに言及した。他方、戦後から今日に至るまで、「敵に対する愛と正義」の物語が相変わらず根強い(例えば「宇宙戦艦ヤマト」)。このような両傾向に対して宮崎は、地に足の着いた暮らしに密着する視線をもって、食べもの・仕事ぶり・風景を描き続けており、このような「現実感覚」を主流の「エンターテインメント」に対置することで、国民的人気を得ているというのが、酒井の見立てである。
酒井はたしかに重要なポイントを突いている。しかし、その「現実感覚」の位置づけに関して、筆者は少し違った印象をもつ。宮崎作品という織物は二つのテーマ(糸)で織られている。横糸は、自然と文明とが緊張感と畏敬の念をもって対峙的に共生するというテーマである。その共生のシンボルとしてキャラクター(例えばトトロ)と主人公(サツキやメイ)が登場する。縦糸は、挫折・孤独を乗り越えて成長するという古典的な自分探しのテーマである。『魔女の宅急便』や『耳を澄ませば』がその典型である。そして、二つの糸が織りなす絵模様として、憧憬や夢想を誘うファンタスティックな風景があり、そのなかにレトロな手触り感のある事物がていねいに描き込まれている。この最後の側面が酒井のいう「現実感覚」である。以上の枠組みでは、「敵」に対する「愛と正義」をつうじて「成長」するというストーリーは明確に拒否され、共生のなかでの成長と細部における「現実感覚」とが相まって、「愛と正義」とは異なる安心感(幸福感=カタルシス)を与えている(51)。
酒井は、「平成日本」における「平準化」の進行と宮崎作品のブレーク時期とを重ね合わせて、宮崎を(「戦後日本」の国民作家である以上に)「平成日本」の国民作家であるとみなしている。それに対して筆者は、司馬遼太郎とは異なる意味で、宮崎を「昭和日本」の国民作家とみなすほうが、より的確ではないかと考えている。
その理由はこうである。「昭和」を《現代的近代》として戦前/戦後を分断せずに捉えるべきだという点は脇に措くとしても、昭和末期の作品のほうが平成の最近の作品よりも、完成度や感動の度合いが高いように思われる。また、戦争に対する平和、文明の一方的な開発に対する自然との共生、そして精神的自立の困難さを抱えるなかでの自分探しという、宮崎作品をつらぬくテーマ群には、共通して「いのち」の大切さ・重さへのまなざしが注がれているが、それが現代日本の中高年世代の価値意識や願いと強く共鳴し合っている。さらに、「昭和」(現代的近代)に対する距離のとり方(自己言及性)が不足しているため、「昭和」の「家族(核家族)」や「男らしさ/女らしさ」が自明視されることになるし、1990年代半ば以降のデジタルテクノロジーよりも旧式の機械に固執することにもなる。要は、宮崎作品は昭和20代と30年代から届いた「(トトロならぬ)レトロ」メッセージなのである。
以上ここまで宮崎作品を検討してきた。そこから《非–物語》の条件に関して何がいえるだろうか。「自己」の形成にとって「物語」は不可欠である。最近では「自己キャラモデル」のデータベースがあり、そこに集積されている純愛系・セカイ系・成長系・熱血系のキャラが、若者たちの「自己」のモデルになっているという(『リアルのゆくえ』)。それもある意味でミックス(ごた混ぜ)ではあるが、筆者のいう《雑融性》という根本規準には合わない。ポイントは、《規範的なもの》の相対化・流動化という感覚をできるかぎり物語のなかに織り込み、それをつうじて固定した分割線や枠組みをゆるやかに受けとめ直すことである。これが《非–物語》の要件である。
その要件を宮崎=ジブリ作品の「自然/文化(文明)」のテーマにあてはめると、キャラクターと主人公の視点が幼すぎることもあって、受け止められるメッセージがいささか安易であるように見える(52)。「自然」「エコ」「共生」を訴えることに誰も反対はしないが、それだけでは不十分であり、「自然/文明」の分割線を揺さぶるような鋭さと仕掛けがなければ、既存の常識(分割)の再生産から生じる癒し効果しか期待できないだろう。宮崎は紛れもなく「昭和日本」の国民作家である。しかし、未来の日本の「国民作家」とはいえない。未来に広がるデジタルメディア環境に眼を向け、サイボーグ/ロボット/生体のあいだを走る分割線を雑融化し、それをつうじて人間/動物や自然/文化・文明の境界線をも揺さぶり続けることが、いま求められている(53)。

 註

(1)「若者世代」とは基本的に、1970年以降に生まれた30歳代以下を指している(したがってアラフォー世代の前半も含まれる)。ただし、70年代初めの世代にいわせると、インターネットに馴れ親しんでいる80年代以降の世代は異質にみえるという(大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ』講談社、2008年)。インターネット元年は1995年である。ちなみに、最近見た民法の番組では、60歳前後の団塊世代、40歳前後のバブル世代、20歳前後のIT世代という世代区分をしていた。これはいかにもテレビ的ではあるが、微視的で日常的な感覚としては分かり易い。
(2)ここで本論考の前提にある基本概念について最小限の説明を加えておきたい。[1] 《行為》はものごとを選択し分割する動きであり、分割の本質とは「規準」に基づく「正常/異常」の区別である。世界は「天/地」、「男/女」、「食べられる/食べられない」、「健康/病気」、「生/死」、「成人/未成年」のように、分割・区別(「/」)から成り立つ。すべての世界分割を総称したものが《規範的なもの》である。 [2] 分割の基本は二項対立であり、そこに《意味》が生じる。行為は《分割=意味》の世界のなかで《分割=意味》を産出する。 [3] 《社会的なもの》とは、多様な「分割=意味」を「交換・分配するネットワーク」のことである。個々の行為の連結をつうじて、分割=意味が受け継がれ、受け渡されるというくり返しのなかから、《規範的なもの》が立ち現われる。《社会的なもの》と《規範的なもの》とは相互に支え合っている。 [4]《規範的なもの》のうちで、社会的にみて重要・重大であり、緊張・対立を引き起こすような選択=分割が《倫理的なもの》である。「仲間/敵」、「殺してはならない/殺してもよい」がこの例である。《倫理的なもの》には「正/不正」および「善/悪」という標識がつく。 [5]《倫理的なもの》が、集団全体に関わるかぎりで具体的に設定されるとき(in+ stituere = set up ; establish)、そこに《制度的なもの》が成立する。「婚姻関係を結べる/結べない」「自分のもの/他人のもの」がこの例である。《制度的なもの》の設定とともに、「文化/自然」の分割ならびに「社会/社会以前」の分割も同時に成立する。さらに、支配/隷属からなる国家が成立するとき、「文明/自然」の分割も成立する。
(3)諸力の絡み合いという見方は、学術的に高水準にありながら文学的な想像力をも喚起する内田隆三の『国土論』(筑摩書房、2002年)および『社会学を学ぶ』(ちくま新書、2005年)を参考にしている。ただし、ここでは内田の用いる「社会性」を《規範的なもの》の観点から「倫理の場」として受けとめ直す。
(4)アニメやゲームを好むオタク=孤独で引きこもりというイメージがあるが、それは必ずしも正確ではない。酒井信『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書、2008年)によれば、「アニメやゲームやフィギュアを友達作りに役立つアイテムとして活用することで、社会のなかで孤立するリスクをうまく回避していた」(38-39頁)のであり、孤独というイメージは世の中のおじさん・おばさん、つまり外からの視点が作り出したものだという。ただし、酒井が注目するように、若者世代の「現実感覚」の質が問われることも確かである。それに関しては『リアルのゆくえ』が、モダンとポストモダンの対立を扱い、後者のネット共同体構想を語っていて興味深い。
(5)ただし、中西新太郎の一連の著作(『若者たちに何が起こっているのか』花伝社、2004年、とくに「〈薄い生〉の現在」『21世紀への透視図』所収、青木書店、2009年)では、必ずしも否定的とはいえない。
(6)以上のような社会環境の認識は、名古屋哲学研究会の本シンポジウムの設定者やシンポジストたちによっても共有されていたと考えられる。それのみならず、全国を見渡しても、本田由紀の一連の著作(戦後日本システムの崩壊論)や、山田昌弘『希望格差時代』(筑摩書房、2004年)、佐藤俊樹『不平等社会日本』(中央公論新社、2000年)等にも共通して窺うことができる。
(7)このあたりの記述は酒井前掲書に依拠している。ちなみに、『リアルのゆくえ』では、1980年代は差異の消費、1990年代は癒しの消費にとされる。1970年代から続く「おたく」の文化=サブカルチャーが、1980年代半ば以降には「オタク」となり、「おたく」のもっていた幅がこぎれいに切り捨てられてしまったことを大塚は怒っている。また、彼らの認識では1990年代半ば以降に大きな転機があった(関西・淡路大地震、オウム事件、エヴァンゲリオン)。IT革命は1995年である。
(8)『論争 若者論』(文春新書編集部篇、2008年)によれば、現状打破を求める潜在的なエネルギーが溜まっている。安全・セキュリティ問題や、格差問題=ジェラシーから、心情右翼的な外国人排斥・ナショナリズム意識や、戦争待望が、若い世代のあいだに広がっているという。
(9)例えば、辻太一朗『就活革命』(日本放送出版協会、2010年)では、「離職率」の高さ(個人や企業によって差があるが、平均して3年で35%になる)に関連して、若者=新入社員の側の弱さや、自己の過大評価、仕事のつまらなさが指摘されている。たしかにそういう面がないとはいえないが、他面では、就業形態の変化(二極分化)や、企業側の方針、職場環境の問題もある。就活の現状に警鐘を鳴らし、大学にしかできない「知的トレーニング」を強調する好著ではあるが、視点が「企業」サイドに偏る。
(10)すでに別の論文で指摘したことだが(拙著「〈無形のもの〉たちのリアリティ」『東アジアの死生学へ』所収、2009年)、NHK世論調査では「個人」そして「シングル」の価値観の延長上に今日の若者世代が位置づけられ、「シングル=お一人様」以降の差異が見落とされている。決定的なポイントはデジタル・マルチメディア環境の浸透度であって、引きこもりやネット通販、ネットゲームへの熱中など、マイナスに映る現象をことさら強調するのはバランスを欠いている。
(11)常識の基本次元については拙著「西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉」(『〈昭和思想〉新論』所収、文理閣、2009年)を見られたい。
(12)薄い現象については村上春樹『1Q84』や、押井守「スカイ・クロラ」および「イノセンス」が参考になる。また、東浩紀の『ポストモダンと動物化』と『ゲーム的リアリズム』や大塚との対談『リアルのゆくえ』は、平成前後の若者の感性をふまえていて説得力がある。「核家族」の理念やその進化形である「シングル」の理想を追い求める《個人》とは違って、《薄い私》は何らかの理念や理想を「真理」(本物/偽物の区別)としてはもたない。そしてこの《薄い私》こそが、筆者の見方ではモダニティが行き着く究極の「自己」の姿である。ただし、その一面では、本田由紀も指摘するように(「毀れた循環―戦後日本型モデルへの弔辞」『思想地図』Vol.2所収、日本放送出版協会、2008年)、日本社会のシステムが1990年代後半以降大きく変容し、従来のような仕事・家族・教育の循環モデルが解体しつつあるなか、若者たちは屈折・屈曲を余儀なくされ、「自己責任」を強いられつつ、無気力・絶望の淵に立たされ、孤立・無縁化の方向に追い込まれている。以上をふまえるなら、日本社会のそしてグローバルな未来世界の課題は、孤立・無縁化への傾斜に抗するために、《薄い私同士のつながり合い》を幾重にも張り巡らせるような未来志向の動きを促進することであろう。これについては拙著「『家族の変容』から見た代理出産と終末医療の未来」(浜松医科大学紀要(一般教育)24:1-22、2010年)で言及している。
(13)日本在中の外国人が日本文化について語り合う番組「クールジャパン」では、「草食系男子」が好意的にとりあげられていた(2010年6月放送)。「草食系男子」の特徴は、「出世したくない」「弁当を自分で作る」「デートは割り勘」「プロポーズは女性主導」「女性とファッションの話をする」「クルマより自転車を好む」等々である。また、日本人女性の75%程度が「草食系男子」に好意的というアンケート結果も紹介された。ゲストのフランス女性や中国男性からも好意的だったが、イスラエル女性をはじめ、ウクライナ女性、スペイン女性、アメリカ男性、イタリア男性、ブラジル男性、南アフリカ男性は否定的であった。「サムライはどこにいるのか」とはウクライナ女性の発言である。なお、ゲストのフランス女性の個人的な印象では、同国男性の80%が草食系だという。
(14)この節の論述はほぼ全面的に河本英夫『オートポイエーシス』(青土社、1995年)に依拠している。この卓越した本は、ユクスキュルやヴァイツゼッカーの視点を徹底させ、第三世代システム論の方法序説の域にほとんど達している。なお、本論考の脱稿後、河本が新たな領域を拓いている『システム現象学』(新曜社、2006年)を読んだが、「自己調整」を除いてこの論考に組み入れることができなかった。
(15)例えば、村上泰亮「産業文明論」の「技術パラダイム」(『新中間大衆の時代』中央公論社、1984年)や、富永健一『社会学原理』(岩波書店、1986年)の社会変動=発展論がある。
(16)ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの』上下、草思社、2004年。
(17)今日の状況をみると、倫理の場において標準となる基準・モデルが失効・消失し、世代ごとあるいは個人ごとの基準・定義・思い込みが混在している。「成熟」言説の乱発や問い直しの動きも、共有された標準観念の不在、したがって倫理の場の動揺に発しているといえる。
(18)「サイボーグ」を思想タームとして最初に用いたのはハラウェイであるが、彼女の「サイボーグ」概念は多義的である。それは、半導体工場で働く東南アジア出身の女性労働者から、遺伝子組換え植物や、オンコマウスまでを含む(『サイボーグ・フェミニズム』)。他方、ドゥルーズの「錯合体=リゾーム=地下茎」は、モル=マクロに対するモレキュラー=ミクロの攪乱・反乱という構図をもつ(『千のプラトー』)。それはモル状化することを作為的に拒絶することであるが、その種の作為は今日、アーキテクチャの配置によってほとんど無効化されつつあるといえる。
(19)近代において日本文化の特徴を典型的に示すのは「着物」の「和モダン」である。大正・昭和初期の時代の着物姿(残された映像や絵画で見るかぎり)は伝統のたんなる残存ではなく、まさに(筆者の枠組みでは)《現代的近代》の産物である。着物=伝統のファッションが洋服に押されるという危機感が、新たな融合を生じさせ、アール・ヌーボー(草花の装飾性・伝統美との融合)、アール・デコ(幾何学的文様・色の組み合わせ=和モダン)、そしてポップ・アート(カラフルで多彩な図柄の「銘仙」の大量生産)を展開させた。以上の展開のうちに「雑融性」の伝統をうかがうことができる。同じことは女性の髪型にもいえる。
(20)ちなみに、丸山の『日本の思想』の末尾は、「雑居性」を「雑種性」に高めるための主体形成で結ばれているが、その「雑種性」を最初に用いたのが加藤周一であり、丸山が彼の考えを念頭に置いていたことはまちがいない。また、これもありうる推測だが、すでに三木清は『人生論ノート』のなかで、積極的な意味を込めて「混合の弁証法」を語っていたが、丸山はそれと「雑種性」を重ねていたのかもしれない。
(21)『日本文化のかくれた形』所収の講演では、日本の社会・文化の深層に内包された基本的特徴として、競争的集団主義、現実主義・文化の此岸性、現在主義、象徴体系の形式主義と主観主義、外部に対する閉鎖的態度が列挙されている。なお、『週刊読書人』第2602号(2005年9月2日)には、加藤自身による前掲二著のモチーフの解説が掲載されている。
(22)これについては前掲拙著「〈無形のもの〉たちのリアリティ」で論じている。
(23)この点で、神道の普遍宗教化を図った折口信夫とは対照的である。なお、柳田の「常民」の「固有信仰」にはいくつかの問題点を指摘できる。まず、氏神信仰は天皇家の氏神信仰と同質であることによって伊勢神宮信仰へとつながる。とすれば、村落の共同幻想と天皇制国家の共同幻想とのあいだの連続性・同質性は断ち切られていない。この点を批判したのは吉本隆明『共同幻想論』(1968年)であることが、内田隆三『社会学を学ぶ』で指摘されている。また、柳田には抜き難く「日本」「日本人」の同一性へのこだわりがある。さらに、筆者がもっとも注目するのは、柳田が種々の精霊信仰(山の神、田の神、水の神)をすべて氏神すなわち先祖の霊=家の神に還元・解消している点である。山の神と氏神とのあいだの亀裂を見ないことによって、先祖の霊(祖霊)からそれ以前の原初的な世界経験にいたる通路を塞いでしまっている。
(24)松村一男『神話学講義』角川出版、1999年。
(25)原初的(もしくは原始的)世界と原形的(もしくは原的)世界との区別については、拙著『〈昭和思想〉新論』第二章、八九、一五八~一五九、一六九~一七〇頁を見られたい。
(26)この伝統については、前掲拙著「無形のものたちのリアリティ」および「西田・三木・戸坂の思想と〈ものの思考〉」でも論じている。
(27)「虫は僕であり、僕は虫である」と言いながら、98歳まで虫や花を描き続けた画家がいる。『熊田千佳慕の言葉 私は虫である』求龍堂、2009年。
(28)山中学写真集『阿羅漢』では、コートを羽織ったホームレスの老人を無欲の「阿羅漢」として捉えているが、その姿はどこから見ても「蓑虫」を彷彿とさせる。
(29)この点を指摘したのはレヴィ=ストロースであるが、そこには誤解もある(『今日のトーテミスム』みすず書房、1970年)。誤解というのは、論理を強調するデュルケームが「聖なるもの」の起源を「感情」に求めたのとは対照的に、ベルクソンは直観の哲学者であるのに未開人の思考を構造的=二項的と捉えた、とみなしている点である。しかし、ベルクソンにとって実在は流動そのものである。緊張と弛緩という逆向きの動きはあるが、基本的にいわば《動き一元論思考》をする。構造とか形というのは、あくまで生物が生存するために拵えた便宜的な押しつけ(欲求的同一性)にすぎない。だから未開人が構造的思考をするのは当たりまえなのであって、むしろ『創造的進化』で披露されているような、インデアン=未開人が有している流動性の哲学こそ、ベルクソン本来の《動き一元論思考》に近い。いずれにせよ、《動き一元論思考》は、人類の原初的世界経験の捉え方としてはまちがいである。ただし、ベルクソンのうちにもそれをはみ出して《動き=形の思考》に向かう兆しをいくつか発掘することはできる(拙著「生命と回復」『比較思想』36:14-23、日本比較思想学会、2009年)。そのうちの一つが次に引用する『二源泉』の第二章である。
(30)このような見方は、物理の世界や、化学の世界、生物の世界にも通用すると思われる。例えば、宇宙を成り立たせる基本的な構成素に関して、目下二つの有力な理論(相対性理論と量子力学を統一する理論)があるとされる(ブライアン・グリーン前掲書)。一方の「超ひも理論」は「振動する繊維状のエネルギー」を構成素とみなし、他方の「ループ量子重力理論」は幾何学状の「ループ」をそれとみなす。しかし両者とも、動きに動きがつながることで循環=形ができている事態を示していると考えれば、両者の違いは同じ事態の別表現とみることができる。いずれにせよ、そこに何らかの循環=形ができている。さらに、「超ひも理論」の自己言及版である「M理論」のいう「(メン)ブレーン」(膜)にしても、循環=形のネットワークとして捉えられるだろう。
(31)「構成要素」ではなくあえて「構成素」としたのは、河本英夫前掲書の示唆による。
(32)作動する円環は、構成素=意味を微妙に変換することで、つぎつぎに多元的な円環を形成しつつ、相互に交錯・交叉する。そのような複合体として真核細胞、ハーパーサイクル、心的システム、社会システムが生じる。
(33)バーチャルとは、たんなる想像上のもの=仮想されたものではなく、同一の《もの》(構造、潜勢力=ヴィルトゥ)が多様な局面に現われるかぎり、元の同一のものに対して多様な一つひとつのもの(形態)を意味する。数学でいえば、一つの構造の多様な写像があるとき、構造に対するその写像のことである。バーチャルなものはすべてリアルであり、リアリティに関して同等である。
(34)木下順二は『日本文化のかくれた形』のなかで「複式夢幻能」をとりあげ、そこに写実主義を超えるリアリティ(「水に映る月」のリアリティ)や、自分でありつつ自分でないようなシテの自由自在な変化(主語の捨象)、それに、自分を超えた力・運命との対峙・緊張をみている。それらはすべて写実主義的なリアリティに固執する近代演劇とは対照的であり、むしろギリシア演劇に表現されていたものである。それが「能」では明確に現れているという。影身・分身のリアリティはベルクソンの洞察に近い。そればかりか、ベルクソンの思考のうちにも、「直観」と「知性」との共通の根として「虚構」「仮構」の能力を位置づけて、直観/知性を組み換える可能性が潜んでいる(拙著「生命と回復」19頁)。
(35)「情」に関しては、ダマシオの情動・感情・意識研究や、フッサールの「受動的総合」の考え方が重要であるが、その方面の論究は別の機会を待ちたい。なお、津田雅夫氏は「〈宗教〉伝統の創造」(『哲学と現代』21号、2005年)のなかで、鈴木大拙の霊性シリーズと柳田國男の新国学シリーズとの表面的な対比の奥に、共通した伝統があるのではないかと示唆しておられるが、優れた洞察である。筆者はその答えを《無数のものたちの情的やりとり》に求め、それが大拙(即非の論理)=西田(平常心)と柳田(先祖の魂)とに共通する宗教的=形而上学的な根底ではないかと考えている。この考えに従えば、《情的やりとり》の前駆体あるいは抽象体として大拙の霊性や西田の宗教哲学があり、その派生体として柳田晩期の新国学が位置づけられる。
(36)レヴィ=ストロースの『神話論理』(みすず書房、2006-2010年)によれば、天/地、男/女、生のもの/火を通したもの、人類/動物、太陽/月、等の分割線は、原初においては流動的であり、固定されておらず、双方の側からの越境が可能であった。しかし、天の火をトリックスターが地上に持ち去る行為をもって、世界に固定した分割が生じた、と説明するのが神話である。
(37)《雑融性》の例として、最近の若者のダンスをとりあげたい。例えば阿波踊りやワルツは完成した型をもつが、伝統・約束事の型がないとき、人類の身体の動き・踊りがどうなるかをそれは示している。驚くなかれ、そこに立ち現れているのは、チンパンジーの動きとロボットの動きとのミックス・混合、つまり《雑融性》である。そのように見えることをどうしても禁じえない。それは霊長類の動きと連続する初期人類の踊りを連想させる。もう一例を挙げる。渋谷の路上で若者のファッションを定点観測しているウェッブ誌『アクロス』によれば、2000年代になると、若者たちは時代やルールを超越し、いろいろ要素をミックスするようになった。そして最近では、経済情勢を反映して、消費よりもコミュニケーションを大切にしているという(朝日新聞2010年9月21日付夕刊)。
(38)ちなみに、J・ロールズを批判するM・サンデルによれば、他者の善き生の考え方(道徳・宗教観・信念)を「尊重する」とは、中立的枠組みの外部にそっと置くことでも、シニシズムを標榜することでもなく、むしろ、善き生の考え方の内部に立ち入って論じ合い、時には批判し合うことである。そしてこの議論は対話的にいつまでも続くことになる(『自由主義と正義の限界 第2版』三嶺書房、1999年)。そのかぎり筆者はサンデルに賛同するが、サンデル自身の「善」「徳」あるいは「市民」「公民」の内容は、特定の道徳的・宗教的モデルを含意しているのか(こうなるとコミュニタリアニズムである)、それとも、抽象的なモデルに立つのか(こうなると実質的にはリベラリズムに近づく)という点で、曖昧さを残している。
(39)世界システム論と同様の欠落は、橋本治がまとめた政治哲学のフレームにもあてはまる(特集「実践的哲学入門」、『週刊東洋経済』2010年8月14-21合併号)。そこに配置されている四つの立場は、必要な変更を加えれば、若者世代論のフレームにも、世界システム論のフレームにも、倫理規準のフレームにもおおむね重なるだろう(図5)。
図5
ただし、違いがあるとすれば、橋本のフレームではもっぱら米国内部の政治哲学に視線が限定され、そこから一般化されている点である。また、橋本のいう「保守主義」(伝統的価値)は、日本や欧州の文脈では「自然」に依拠する「共同・共生」(コミュニズム)に置き換えるべきであろう。もっとも、どちらも助け合い・相互扶助を志向していると捉え直せば、ほとんど重なり合うかもしれない。とはいえ、「保守主義」というタームは、どの立場であれ、時代状況のなかでそうなりうるという意味で、この平面上にはふさわしくない。いずれにせよ、ここでは四つ立場の対峙状況がどこまでも続き、それを乗り越える展望はない。ここでも最小限の共通する目標および規準が欠如している。
(40)各種のニュース報道やネット情報から浮かび上がる論点は以下のとおりである。天然資源管理(希少資源・絶滅の危機、科学的調査)、生活・生産・産業・経済(生業、沿岸漁業、遠洋漁業)、食の消費・欲望(過食・乱獲、高級魚・グルメ志向)、食文化の多様性(欧米肉食文化、日本魚文化、中国広東)、生命至上主義(ベジタリアン、共生)、人工飼育・作り育てる漁業への転換、捕獲のやり方(残酷さ)、調査捕鯨の問題(科学性、天下り・補助金)、環境保護団体の活動(侵入、盗み、暴力等の不法行為)、マスメディアによる扱い(一面的な描き方、問題の矮小化)、政治的駆け引き(国内世論の意識、関連問題への波及考慮)等々。
(41)同様の対立はもちろん医療倫理の分野にもある。例えば「中絶」問題では、人間/胎児(人間の資格、生命の資格)の境界をめぐる対立である。生命/非生命の分割線もある。胎児のみならず、受精卵・胚、各種の幹細胞でも同様である。あるいは脳死移植の場合、生/死、自己/他者という分割線が問われる。家族/非家族という分割線は医療に関連するすべての事柄に共通している。生命の操作の場合では、生命/非生命、人間/動物、生体/機械体という分割線がある。医療倫理全体では、医療者/患者、医師/看護師/その他のメディカルスタッフ、医療/非医療、治療/非治療などがある。さらに話を《生命倫理》に広げるなら、これは「生命」という大きなカテゴリーに含まれる分割の境界線(《規範的なもの》)にぶつかる。《生命倫理学》は、種々の力によって変容するその種の《規範的なもの》を自己言及的に問い直す営みである。別言すれば、生命という角度から世界を形づくる分割=意味の境界線のすべてを再考する作動である。
(42)試みに、根本問題の視点から多様な論点を再構成するとこうなる。まず、イルカも含まれる鯨(クジラ)類は、動物のカテゴリーのうちのどこに入るのか、食べられるカテゴリーか、それとも、食べられないカテゴリーか。食べられる場合、資源管理をすべきか、自由操業でいいか。自由操業なら生業までならいいか、商業でもいいか。生産・商業でよいなら、沿岸までか、それとも遠洋までか。管理する場合、どこまで割り当てるか、稀少性を考慮するか、育てる漁業に転換するのか。他方、食べられない場合、その理由は残虐なやり方をするからか、工業的な産業だからか。保護すべきとすれば、知能が高いからか、友達だからか、命を尊重すべきだからか。あるいは、食べることが避け難いとすればどのような条件を付けるべきか。それは例えば、恵みに対して感謝を忘れないということでいいのか、それとも、一定の限度を設けたり、育種したりするべきなのか、等々。
(43)スウェーデン人の動物倫理学者ヘンリックとの私的な対談(2008年5月)にもとづく。
(44)この点は拙著「デーミウルゴス的主体性とその彼方」(『生存研究B』19:95-111、2009年)で言及している。
(45)拙著『健康への欲望と<安らぎ>』(青木書店、2003年)。
(46)「最小限の目標の共有」について、代理懐胎のケースで説明するとこうなる。「生まれてくる子」をめぐっては、四つの観点(子どもや代理母の安全性・リスク=自然、代理母の人権=正義、依頼者の願望=自由、現行の家族制度=善)が対立している。現行案(学術会議答申)のように、それらを同等の重みづけで包括しないとすれば、対立はいつまでも解消されないままであろう。それゆえ、多様な見解を包括する社会で必要とされるのは、依頼者カップルはもとより代理母・ドナーや医療・行政・司法関係者を含めた《身近な他者たちの協同作業》というチームが、「家族」のかたちの変容と多様化のなかで要請され、そのチームが「ひとりの子を関係者全員で育てる」という目標を共有するという枠組みではなかろうか。
(47)歴史の哲学に関していえば、例えば、A・ダントの歴史=物語行為論を受けた野家啓一の『物語の哲学―柳田國男と歴史の発見』(岩波書店、1996年)がある。その「歴史のミクロロジー」の立場は、個々人の「想起」の解釈的な再構成であり、言語化・構造化・共同化という三つのモーメントによって「歴史」が構成されるとする。具体的には、物語行為=古老の話のネットワークである。しかし、問題はまさにその「共同化」にある。野家は最初から「共同化」を前提にしているが、「世代」の対立に注目するかぎり、今日では「共同性」を安易に前提することはできない。別例として、柳田にある面で似ているベンヤミンの歴史哲学がある(今村仁司『「歴史哲学テーゼ」精読』、岩波書店、2000年)。これは、オートポイエーシス風にいえば、敗者・非抑圧者・犠牲者の痛切な思いを「構成素」として産出的作動をくりかえす自己言及的な想起の物語システムである。このシステムでは、例えば古代ローマのスパルタクスの反乱も、現在と呼応するなかで歴史的な意義をもって立ち現われ、そうやって立ち現われた歴史的事件が、現在の我々の意識と行動を照らし出すことになる。しかし今日、埋もれた「革命的事件」はかつてほどの歴史的インパクトをもたないし、優生学的差別・排除、植民地主義、被抑圧階級等々という「左翼」的な括り方も、すでに半ば以上失効している。圧倒的に多い勝者の歴史も同等の権利でもって描かれるから、勝者/敗者の本質的な違いはない。とはいえ、ベンヤミンの思想が好んで産出され続けるのは、むしろ勝者/敗者のゲームの背後で、勝者に対する敗者というよりむしろ、切り捨てられ、見捨てられた人々という意味での他者(くず・ぼろ、裏通り、異邦人)に対する共感のまなざしが貫いているからであろう。それらの「名もなき人々」に注がれたまなざしは、勝者/敗者のメインストーリーから外れるとしても、そうあらざるをえない圧倒的に多くの人々の「成熟」モデルにとっては貴重である。この点で(「日本人」という枠を別にすれば)無名の「常民」を復元する柳田に近い。
(48)舞台となっている宇宙帝国=連邦共和国は、テクノロジー装置だけは新しいが、古代ローマ帝国そのままであるし、主人公のアトキンは(父親のいない処女受胎だから)まるで救世主イエスである。元老院議会や評議会のほかに女王までいて、その女王が日本の着物を身に付け、日本風の髪型をしているのは、もう一人の主人公ダース・ベイダーの鎧兜姿と併せて、監督の趣味だろうか。「フォース(力)」や「暗黒」があり、権力志向の陳腐な欲望もあるが、とくに「死を克服したい」という野望は古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』を彷彿とさせる。ともかく、そのような宇宙スペクタクル=英雄の活劇に熱狂するかぎり、米国の若者たちが「草食系」の発想を受け入れ難いことも頷ける。
(49)本論考の脱稿後、「物語」に関して、個人の成熟という自己の次元にのみ止めるのではなく、〈最小限の目標を共有する身近な他者たちの協同作業〉という親密な関係の次元へ、そしてさらに「国民」の次元へと拡張することが、倫理学にとって決定的に重要であることに思い到った。この点についてはあらためて論じたい。
(50)《雑融性》の視点からする物語批評が必要である。かつて自己形成の点で影響をもったものに、明治初期の福沢諭吉の『学問のすすめ』『文明論之概略』や、大正時代の夏目漱石の一群の小説、新渡戸稲造の修養論があったし、さらに戦後では司馬遼太郎の『坂の上の雲』があり、また最近では、影響の広がりは落ちるかもしれないが村上春樹の『1Q84』もある。ちなみに、夏目の例えば『三四郎』と村上の小説はちょうど百年の隔たりがあり、それぞれ《現代的近代》の始まりと終りとに対応しているから、その比較分析はきわめて興味深い。両者のあいだには、例えば、言葉・外来語、文体、速度、筋、舞台装置とともに、登場人物の自己意識の落差(孤独・無縁・絶縁、わずかなつながり)が目を引く。なお、村上春樹の『1Q84』では、エンターテインメント性を計算してか、キリスト教の「受胎」が登場するが、これは安易といわざるをえない。
(51)宮崎のファンタジー作品の「現実感覚」は、もの・仕事・風景のいずれをとっても、レヴィ=ストロースのいう「未開人」や「神話」の世界に近いものがある。ということはおそらく、両者ともに、《制度的なもの》が成立した後の視点から、制度以前を想像=幻想しつつ、自然と文化(あるいは自然と文明)の関係を描いているからであろう。ただし、レヴィ=ストロースでは二項対立の幻想的な和解、宮崎では自然との敵対関係のファンタジックな和解の模索、という違いはある。
(52)『崖の上のポニョ』は、自然と文明とのあいだで双方の側がもつ一方的な敵対状況(港の浚渫・ゴミ浚い=破壊と人類嫌い=デボン紀への復帰計画とのあいだの冷戦状態)を、ポニョという人面魚=お化けの越境(人間への憧れ、「ハム」を食べること=文明)と、海が好きな保育園児の宗助(夏目漱石『門』)との交流をつうじて、和解・回復させる試みである。しかし、ファンタジックな和解劇をもたらす「五歳児の視点=囚われのない無垢さ」は、若者世代や大人の世代には物足りなさを残す。たしかにファンタジー作品としてみれば、極彩色とスケールの大きさが圧倒的な迫力を感じさせるのだが、感動の点では『となりのトトロ』にはるかに劣る(サツキの苦労がなく、無邪気なメイだけだからか)。
(53)五歳児の「現実感覚=イノセンス」(無垢さ)とは異なる「イノセンス」を強調する押井守の場合、人間/動物、生体/機械体、人間/人形、霊魂/身体/情報体、を越境することが志向されている。この点は評価できるが、ネット上に漂う情報体=霊体がコンピュータ・機械に憑依するとするところに、「機械のなかの幽霊」という旧式の思考パターンが見え隠れする。それに加えて、機械体・物体(オブジェ)への偏愛、美少女=人形へのロリコン趣味(例えば、澁澤龍彦『少女コレクション』中公文庫)や、押井の視点から描かれた若者たち(スカイ・クロラ)と実際の若者世代との異同という点も問われるだろう。なお、宮崎の「現実感覚=イノセンス」と押井の「現実感覚=イノセンス」とは、表面的には対照をなすが、その奥底ではつながっていると解釈することもできる。「お化け」と「アンドロイド」「サイボーグ」あるいは「情報体」とは、《もの》の視点からみれば、どちらも雑融性のリアリティをもつ点で同等であろう。宮崎と押井とを結びつける方向で、多様で多彩な《非–物語》群を産出する若い世代のアニメ作家の登場が待たれるところである。なお、本論考の脱稿後、井筒俊彦の思想と押井とをつなぐ上野俊樹の興味深い論文「アニメ的オートマトン」(『アニメは越境する』岩波書店、2010年)や、アニメ表現のもつ形式的な「原形質」に着目する加藤幹郎編『アニメーションの映画学』(臨川書店、2009年)を目にしたが、残念ながらこの論考に反映させることはできなかった。

 
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