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クローン人間の倫理:倫理学的認知基準考
活動の実績 | 2019.05.30

図書新聞/書評 03.03.17

上村芳郎『クローン人間の倫理』(みすず書房,2003)

昨年末から今年の初めにかけて「クローン人間」の誕生が報じられた。本当に誕生したかどうかの検証は行われていないが,このニュースに関するマスコミの論調は嫌悪感に満ちたものだった。同様に,多くの政府機関がすでに禁止の措置や意思を表明している。ところが,反対や禁止の理由として持ち出される「人間の尊厳」は,少し考えてみれば分かるように,それほど明確なものではない。クローン技術は生殖補助技術の延長上にあり,根本的に「いけない」とする理由は容易には見つからないのである。実際,法律家や倫理学者の間から,仮に「安全性」が保証されたなら,禁止する理由はないはずだという声が少しずつ出始めている。

本書の著者も同意見である。数年前のドリー誕生のニュースに接して,クローン技術に関心をもったが,「人間の尊厳」という禁止理由に疑問をいだく。そこで自分なりの考えをまとめ,自分では決着を付けたつもりになっていた。ところが,それをホームページに載せたことで編集者の目に留まり,このたび著作の運びになったという。その本書では,「クローン人間」への反対派と賛成派の論拠が一つひとつ検討されており,ここに本書の特色がある。著者によれば,議論としては賛成派の判定勝ちである(どちらかといえば,著者自身も賛成派寄りである)。ただし,全面的に容認するのが正しいとも思っていない。全面禁止でも全面容認でもなく,「適正な規制」が必要であり,そのためにクローン技術の実際とともに,とくに議論の拠って立つ原理を知ることが大事だと考えている。

本書の流れを大まかに辿ってみよう。第1部「クローン人間に関する誤解」では,遺伝子決定論や同一性をめぐる誤解が解きほぐされ,クローン人間は一卵性双生児にすぎず,方法も「造る」のではなく「生む」ことであると指摘される。ただし,誤解の背景には,掛け替えのない「自分」へのこだわりがあると示唆される。第2部「クローン人間の現状」では,技術の実際と各国の規制の現状が紹介されている。「人」の道徳的な捉え方や安全性,日本政府の見解の分析などは興味深い。第3部「クローン人間の倫理学」が本書の要である。まず,アメリカ生命倫理諮問委員会の報告書を軸に,反対派と賛成派の論拠が一つずつ検討され,その上で一般の人々の常識(ドクサ)から出発して倫理の原理が考察される。さしあたり自己決定(自律)と功利主義がとり出されるが,さらにその背景を掘り下げることで,カント的な「自己目的の存在」とヒューマニズムの「共感」に至る。なお,有性生殖へのこだわりも批判されている。第4部「クローン人間の是非」では具体的なケースが扱われ,上述の4原理にもとづいて是非の判断が下されている。すなわち,まずは功利主義と自己決定,しかし複雑なケースではさらに,共感(共苦)と特に「自己目的の存在」=愛の原理(相手を手段化しないこと)である。

本書を読んで,「クローン人間」(広くは人間の生命・身体の利用)をめぐる英米の生命倫理の言説の検討についてはとても参考になった。また,実際の技術や各国の規制の実態についても,最新情報の点では少々不満はあるが勉強になった。しばらくはこれ一冊で十分カバーできそうである。多少気になったのは「生命倫理」の捉え方である。問題領域としての生命倫理と,特定のアプローチとしてのバイオエシックスとは区別しておいた方がよい。そうすれば,「素人」云々の弁明も必要でなくなろう。肝心の著者の原理に関しては,バイオエシックスの有名な4原理を連想させなくもないが,一種の多重原理であり,見ようによっては柔軟とも巧妙とも言える。あるいは,最終的には「愛」や「共感」が控えているから,意外にオーソドックスであり,良い意味で常識的とも見える。

しかし,問題点がないわけではない。「自己目的=愛」や「相互性=共感」という原理は,著者が意図する「適正な規制」の拠り所としてはうまく働かないように思われる。愛の原理の焦点は他人を手段としてのみ扱わないという個々人の内面の動機にある。ところが,個々人の動機は単純ではなく,手段と入り交じるのが普通である。純粋かどうかが個々人の自己申告に委ねられているとすれば,公共的なレベルでの「適正な規制」は実質的に存在しないことにならないか。内面の愛に依拠していると主張されるかぎり,どのような商品化も許されることになろう。著者も認めているように,動機の倫理性をどう解釈するかが大きな課題として残る。他方,共感の原理に関しては,本人が「苦しんでいる」かぎり,どこまでも援助すべきだとされる。「不条理」かどうかの基準ははっきりしない。本人が苦しんでおり治りたいという場合に手助けするのが医療である。しかしそうなると,最近目立つ若者の集団自殺についても,苦しいから自殺することをそのまま認めることにはならないか。共感だけからは「苦しみ」の背後に回る姿勢は出てこないと考えられる。

どうしてこういうことになるのか。たしかに,原理の検討という分析空間の内部では本書は全体として良くできた本である。わたしに一般読者向けに本書以上のものが書けるかというと,たぶんできないだろう。とはいえ,本書に欠けているものがあるとすれば,その種の分析空間の外に出て考えること,既成の原理を前提し洗練するだけではなく,原理(価値理念)をさらに価値誕生の瞬間もしくは価値発生の場にさかのぼって問い直す営みではなかろうか。そこで,本書の評価を絡めながら,そのような営みについて私見を二点だけ述べてみたい。

その一つは「自分」にかかわる。賛成派・反対派の議論の基礎や,著者の考えの拠り所にあるのは,「他に還元できない自分という存在の唯一性」へのこだわり,つまり「自己愛」である。功利主義の快・苦や自己決定の「自己」も,自己目的の存在や共感も,すべては「自己愛」に収斂する。しかし,本書には「自己愛」の根源へと向かう考察がない。また,これと同時に,倫理の本質とされる「他者の立場に立つ」ことの意味合いが「共同性」に引っ張られ,目的自体の存在としての「自分」が最初から愛と共感に結びつけられている。ここからいささか安易な「仏教的功利主義」も出てくる。しかし,最初から他者との倫理を前提とすることなく,倫理そのものの自明性をも問うべきではないか。

要するに,「愛」や「共感」で思考が停止しており,これらを「自分」の内部で不断に反省する次元ないし回路が存在しない。わたしの考えでは,哲学者の仕事とは,何よりも,誰もが「自分」の内部で問い直すためのいわば<価値の回路>を不断にケアし,ここに案内することである。

もう一つは「ドクサ」すなわち常識的直観,あるいは公共性にかかわる。ドクサに対する著者のスタンスは,わたしから見るとはっきりしていない。単純な「生命倫理学者」と同じドクサから出発して,安楽死の自由を肯定したかと思うと,彼らの優生思想の背後にある社会の価値規準への無批判的な依存を批判している。どちらも,特定の知的職業階層の価値観や資本主義的消費文化を共通の母胎としているのではないか。また,いきなり「適正な規制」という発想も,ドクサと公共性との関係の偏りを窺わせる。つまり,制度的公共性以外に,長い間に培われてきた生活文化(ドクサ)としての文化的公共性が考慮されていない。これは身体に刻み込まれた歴史性である。この身体性を考慮するなら,「有性生殖」でなければならないことに論理的な正当性はないとしても,有性生殖という戦略と,ここから創出された親子関係や,個体の生死,性愛を根源にもつ文化には,生物学的な「根拠」があると言うべきだろう。自分の子であるという本質ゆえの愛こそが,最も利害を超えた無私の愛であり,手段化から一番遠いとされるが,これはしかし生物学的な身体性を前提にしている。

結局,身体の歴史性を見すえるならば,安易に相対主義を吹聴するわけにもいかない。生命・身体の受けとめ方に関する人々の実情に近いのは,大多数の人々の傾向と,これに同調できない多様な少数派という構図ではないかと思われる。したがって,多数者の横暴(世間)も,少数者の側からの極論(著者が依拠するフーコー的な視点)も排する方向で,どちらも認める共存の方向こそ,生命倫理に関する制度次元の公共性にふさわしい考え方ではなかろうか。

森下直貴(もりしたなおき 浜松医科大学・倫理学)

 
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