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哲学が関わる魂の苦しみ:いのちたちの安らぎ
活動の実績 | 2019.05.29
第12回日本学術会議哲学系公開シンポジウム「生命を考える」(02.12.10)
 
生命と倫理のあいだ
−<ウェルネス=安らぎ>の視点−
 
森下直貴(浜松医科大学,日本倫理学会)
 
はじめに 
「生命倫理」という言葉。バイオエシックスの訳語。これは生命にかかわる医療と科学技術が社会の中にあるという認識から生まれた若い学際的な学問。しかし現状はというと,法律や指針による規制の是非をめぐる表面的な議論に流れる傾向にある。この場であらためて生命と倫理のつながり,両者の結びつきを考え直してみたい。そのさい,「自分が今ここにいること」「わたしのいのちがあること」のかけがえのなさ・大切さにこだわりたい。これが「善く生きること」を根底で支えていおり,この底が抜けるとき倫理は消える。それをどのように育てるのか。いかなる視点が必要とされるのか。これは教育や広く文化の問題である。ご一緒に考えてみたい。
 
1.生命と倫理をめぐる現状:再生医療
 「要旨」には医療倫理教育の現場を書いた。ここでは別の例を取りあげて生命倫理をめぐる現状を描く。「ヒト胚性幹細胞(ES細胞)の樹立及び利用に関する指針」(平成13年,文部科学省告示)。この指針はいわゆるヒトクローン法(平成13年施行)に基づいている。
 ヒトのES細胞(胚性肝細胞)の樹立は1998年。さまざまな臓器や組織が作成される多能性。再生医療への夢。体外受精時の余剰胚を用い,ある程度分割した段階でこれを破壊してとり出され,培養して得られる。日本では年間1万人の体外受精児。これには10万個が用意され,5万個の余剰が出る。また,他人のES細胞から組織や臓器を作成すると,臓器移植でお馴染みの免疫拒絶反応が起こるから,クローン技術を用いて本人のクローン胚を作り,そこからES細胞へ。
 科学技術会議生命倫理委員会。対立関係にあった価値理念は「人類の福祉」と「人間の尊厳」(人の尊厳)である。後者の観点から倫理的配慮の焦点となるのは,体外受精時の余剰胚を利用すること,ES細胞を樹立するために胚を破壊すること,さらにクローン技術を用いた場合には,胎内に戻してクローン人間を作成すること。もともとES細胞研究が開始されたのは,1人のパーキンソン病患者に6〜7人分の胎児中脳を細胞移植するやり方が,「人間の尊厳」に抵触するという批判を避けるため。また,本人のクローン胚は移植時の拒絶反応を防ぐためには必須である。したがって,ES細胞の樹立・利用の技術がめざしているのはあくまで「人類の福祉」である。体外受精と臓器移植の延長上にある技術。ところがここで再び「人間の尊厳」にぶつかる。
 けっきょく,議論の末,ヒトのES細胞は研究のみ,臨床応用は当面禁止。クローン胚の作成も種類が区別され,一部の特定胚のみ動物の胎内への移植は認めれたが,ヒトの胎内への移植は禁止。この事態をどう見るか。次のように喩えると分かりやすいかもしれない。再生技術をめぐって「人類の福祉」と「人間の尊厳」が綱引きをしている。今回は前者にやや有利な地点でひとまず休止した。しかし綱引きは延々と何回でも続けられる。おそらく次回の休止点はさらに「人類の福祉」の側に近づくことだろう。ちょうど臓器移植の拡大がそうであるように。大きな流れとして見れば,科学技術に関して「人類の福祉」の側に妥協点が傾斜していく傾向は避けられない。
 
2.注目点:生活文化と欲望
 以上で描いた現状に関して二つの点に注目したい。
 ひとつは,人々の生活実感や慣習,あるいは「世間」。最終的に綱引きの静止点を決め,事態を落ち着くところに落ち着かせるのは,世間・慣習・生活文化,つまりわたしたちの実践的な身体感覚。例えば脳死と臓器移植。あれだけ大騒動をしながら,1997年の法律施行以来わずか20数例。一般論や啓発運動の効果はあまりない。身近な人が対象とならなければ人は動かない。あるいは,生殖医療では代理母やクローン人間への拒否反応。感覚的な問題。とすれば,「公共性」という言葉を用いるなら,国家の法律や行政の指針・ガイドライン,あるいは全国学会の会告といった,ナショナルな<政治的公共性>とは別に,もっと深層の<生活文化に根ざした公共性>を考慮する必要がある。ただし,この深層の公共性あるいは規範感覚をめぐっては議論がある。文化の違いという問題。一定の幅・許容範囲の中の力点の違い。また,どの程度まで重視すべきかの問題。80年代以降の社会規範の変容・崩れか,いのちと暮らしにかかわる規範は変わらないか。(拉致問題での国民の対応。マスコミ報道。)
 もうひとつは,欲望である。ライフサイエンスと先端技術がもたらす帰結は,従来の価値観との間で葛藤や摩擦を引き起こす。これが生命倫理の「諸問題」であるが,たいていは法律や指針で葛藤の調整が図られるに止まり,葛藤の根本に目が向けられることはほとんどない。葛藤の根本にあるのは,健康から安楽へと連続的につながる「欲望」なのである。例えば,苦痛から逃れたいとか,病気になりたくない,健康でいたい,長生きしたい,若々しくありたい,死にたくない,子どもが欲しいといった願望は,ほとんどの人にとって当然の願いである。これらの願望を否定することは誰にもできない。また,死ぬときは苦しまずに死にたい,毎日楽しく暮らしたい,健康な(もしくは五体満足の)子どもが欲しいといった願いなども,その延長上にあるように思う。しかし,辛いことや苦しいことはすべて嫌だとか,いつまでも支障なく暮らしたい,若いときのままの健康美を誇りたい,不老不死(不滅)でありたい,人体を改造して優秀な能力をもちたい,優れた才能の子どもがほしいとなると,どこまでが当然の願いでどこからが当然でないのか,その境界は判然としなくなる。
 要するに,生命倫理の根本問題とは欲望の間の線引きである。そして,生活感覚的に認容されてきた欲望ないし願いのひとかたまりが,生活文化をかたちづくる。
 
3.欲望へのアプローチ:欲望の内部に距離を創る
 それでは,どうやって線を引くのか。欲望にいかに向き合うのか。ここで既成の二つアプローチと対比しながら,わたし自身のアプローチを示したい。
 第1は,生命倫理の主流のアプローチ。多元社会での公共的な合意形成。個々人の欲望には踏み込まない。法的な規制の枠を設定。産業界と競争の圧力,個々人の尊重・自由度,少数者保護・反対する自由の保障のあいだでバランスをとる。価値理念の整理。多元社会では必要なアプローチだが,これは社会調整の技術ではあっても,あるいは法的な考え方ではあっても,倫理ではない。「人間の尊厳」というタテマエ。価値理念をめぐるドイツの例(輸入により認める)。倫理なき生命倫理。
 第2は,伝統的なアプローチ。「人間の尊厳」の中味に踏み込む。個々人を越えた大いなる生命とか,共同性や伝統文化を根拠に,いのちの価値を語る。この観点から科学技術と個々人の自由に対して,快楽・欲望に対して否定的・抑制的にかかわる。とくに「苦」の意味の強調。しかし,70年代後半以降の消費社会・資本主義社会。自律した主体が欲望をコントロールすることの不可能性(「主体なき欲望の過程」)。また,多元的社会に相応しくない。
 わたしのアプローチは快楽と欲望の内側へおもむく。その外側ではなく内側に一定の距離を創りだすような拠点。これまた一種の快感であり欲望。これを原点にして自分の欲望に向き合う。自分の健康,快楽,欲望,さらには価値理念に向き合い,これらの位置をたえず測るための座標軸の原点。それが,要旨の後半で描いたような<安らぎ>という独特の(静かな)快感であり,この<安らぎ>をともなう生命の循環生成としての<ウェルネス>である。
 しかし,<安らぎ=ウェルネス>の視点を「倫理」の原点と定めるには,解決すべき二つの課題がある。まず,倫理は何らかの「超越性」なしには成り立たない。とくに責任の根拠。これをどうとらえるのかが課題のひとつ。おそらくは<わたしのいのち越えたもの>を想定しなければならない。これは二番目のアプローチと重なる。ふたつめの課題は,<ウェルネス=安らぎ>の視点が届くのは欲望のモラルや,せいぜい医療現場の倫理まで。個々人を越えたナショナルな<政治的公共性>には届かないのではないか。この限界に関しては,先ほどの<生活文化に根ざした公共性>に注目する必要がある。個人の欲望や現場の倫理を通して生活文化・慣習に働きかける。これを継承発展させる。このことを通じて<政治的な公共性>を方向づける。政府の審議会や委員会で調整役を買うよりも,哲学者によりいっそう相応しい仕事。
 以上のように考えることで,先の二つのアプローチにわたしのアプローチを接続させることができる。(相補的な位置づけを強調。)
 
4.<ウェルネス=安らぎ>:価値の原点
 以上をふまえて倫理が誕生する瞬間に立ち帰ってみよう。倫理が生成する現場に降り立つ。
 「善く生きること」を支える条件のひとつは,生活・生存つまり「生きていること」。これに技術や実践や科学が関与している。福祉・ウェルフェア。もうひとつは,「今ここを生きていること」「このいのちがあること」の<かけがえのなさ・大切さ>の「実感」。自分で「気づくこと」が決定的に重要である。たんなる知識でも,頭ごなしの刷り込みでもいけない。この「気づき」のためのきっかけは様々。道徳教育,生命倫理教育,情操教育とは,気づきのためのきっかけを提供すること。気づきのための仕掛けを多様に備えている社会が,倫理的だけでなく,美的にも宗教的にも豊かな文化をもっている。
 様々なきっかけがある中で,わたしが注目するのが<安らぎ>という感覚。「要旨」に書いたように,例えば,誰しも避け難く病む状態に陥りつつ,そこからの回復を願う。回復への循環生成が成り立っているかぎり,そこに<ウェルネス>が実現し,回復された状態に<安らぎ>がともなう(語源とこの解釈は省略)。<安らぎ>の背後には,生命の根本的な営み,傷つきながらも元の状態へと回復する運動,いのちの息づかいがある。<安らぎ=ウェルネス>の視点はたしかに病気がモデルだが,身体的な苦しみの状態にある人すべてに当てはまる。被災者にも,難民にも,拉致被害者にも。平穏で平和な暮らしの回復。回復したときの気分として<安らぎ>。医療を越えてテロや戦争に対しても。
 哲学がかかわるのは魂の苦しみなのに,なぜ身体的な苦しみを鎮めることを重視するのか。患者の苦しみでは,<身体的な苦しみ>は<生活・仕事上の苦しみ>と<魂の苦しみ>と浸透し合い,相互に強め合う関係にある。しかし,<身体的な苦しみ>が一時的にでも消え,穏やかで安らかな気分がとり戻せたとき,人は生活上の心配事について周囲の人々と相談してサポートを受けることができるし,また,とくに死の不安や恐れに向き合う気持ちの余裕もできる。この点が重要なのである。
 
5.<いのちたちの連帯性>:他者と責任
 <ウェルネス=安らぎ>の視点だけでは,しかし倫理の原点として不十分である。「ケア」という言葉を手がかりに,<いのちたちの連帯性>という根拠による支えが必要である。原点と根拠との関係について問題提起したい。
 <回復への循環生成>はいのちの根源的な営みである。いのちの自己ケアとも自己所有とも言える。これが最近議論されている「ケア」や「自己所有」の原像ないし根源。しかし,<安らぎ>と<ウェルネス>はあくまで<わたし>の視点である。自分を越えていない。したがって,自分にとっては予測もできず,思うようにもコントロールできない異質な他者もまた,<ウェルネス=安らぎ>を原点にしているかどうかは不明である。この難問にはさしあたりこう答える。例えば,転んで泣きじゃくる幼い弟の膝に,幼い姉が手を当てるといった光景を想像しよう。この例では,いのちの自己ケアの延長線上に,明確な他者ではないが,別の身体の苦へとケアの手が延びている。これは「欲望」以前の「欲動」(予知的な判断・思惑以前に働く欲求)である。いのちの自己ケアのこうした延び広がりを基礎にして,他者を<ウェルネス=安らぎ>の極と見なすことができるのではないか。ただし,他者と相関する「欲動」としては「自己ケア」以外に,例えばエロスや幼子の世話・保護などもあるが,ここでは省略する。
 他者もまた<ウェルネス=安らぎ>(ということは<自己へのケア>)を原点とすることが認められたとしよう。しかしその視点はいまだ「倫理」の原点にはならない。なぜなら,出会う「この他者」の苦しみだけではなく,「どの他者」の苦しみにもケアの手を差し伸べるという必然性が欠けているからである。言い換えれば「責任」意識が欠けている。責任の根拠は何か。わたしの答えは<いのちたちの連帯性>である。
 この答えは,表現のしかたと複数形という点の違いはあるが,内容の点ではどの宗教でも,あるいは哲学でも,最近では環境倫理でも語られている。今日のシンポでも同様に。ただし,いくつか考慮すべき論点がある。そのひとつはここでもやはり「きっかけ」である。<いのちたちの連帯性>も実感されるべきものである。このためには様々なきっかけを必要とする。きっかけの中心にあるのは,<安らぎ=ウェルネス>が成り立たないところに生じる「個体の死」をめぐる経験である。この実感が薄れているように見える今日,どのようにきっかけのための仕掛けを用意するのか。これが先の生命教育や道徳教育と接合されなければならない。
 (そのさい,文化によってわたしのいのちがここにあることの理解のしかたの違いにも考慮を払うべきだろう。例えば,被造物としての負債・負い目,相互犠牲,恩や恵み,生命の響き合いなど。)
 いまひとつの,より重要な論点は,<いのちたちの連帯性>の支えを得てはじめて<ウェルネス=安らぎ>が倫理の原点になるとしても,原点はあくまで<ウェルネス=安らぎ>であるということ。公共性という言葉をここでも用いるなら,<いのちたちの連帯性>は<生活文化としての公共性>のさらに基層にある<宇宙的な公共性>。<ウェルネス=安らぎ>の極たちの「宇宙」。しかし,この公共性は倫理に対して,<ウェルネス=安らぎ>を通じて間接的にのみ関与すると考えた方がよい。例えば,介護や看護の場面で「ケアをする人のケア」という問題がある。ケアの提供者がケアを受けざるを得ない状態に陥る。これに関してわたしの友人の宗教色の強い哲学者たちは,絶対的・自己滅却的なケアを説くレヴィナスに依拠し,ほんとうのケアは消耗し摩滅することはなく,ケアすればするほどお互いがますます豊かになると語る。わたしから見れば,それは人間の身体性したがって<ウェルネス=安らぎ>という原点を軽視した見解である。いのちの自己ケアを大事にしない他者へのケアは長続きしない。いのちたちの自己ケアが両立する方向をこそ工夫すべきであろう。要するに,<いのちたちの連帯性>は<ウェルネス=安らぎ>を通して働く。
 
おわりに
 わたしは倫理に関してあくまで個別性,個別の経験にこだわりたい。個々のいのちたちをいのち一般や壮大な理論体系,威勢のいい大義や耳障りのいいイデオロギー,美辞麗句のスローガンで語ってはならないと考える。例えばいかなるテロに対しても,<ウェルネス=安らぎ>というどう見てもささやかで消極的でしかない原点から,傷つけてはいけないという声をあげたい。哲学者の仕事とは,個別の状況の中で選択・決断に迷う個々人を価値の庭園に導き入れ,そこをめぐることで自分を見つめ直すきっかけを見つけてもらうことである。このためには価値の庭園を不断に手入れする庭師にならなくてはならない。価値の庭園には多様な回路があることが望ましい。わたしが提示したのは<安らぎ=ウェルネス>と<いのちたちの連帯性>とをつなぐひとつの回路である。
 
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