活動の実績

人間の尊厳
活動の実績 | 2019.05.23

人間の尊厳研究会/第3回/フォーレスト本郷/2012.10.8

森下直貴(浜松医科大学)


はじめに

最近、クロアチアでの学会や文科省教科書検定審議会に参加・関与し、そこでの経験を通じていささか考えるところがあった。今回はその考察の一端を報告する。柱は次の2点である。(1)先端医療技術(広くみれば先端テクノロジー全般)の進展に対して、従来の生命倫理=バイオエシックスが対応できないことから、生命倫理のアイデンティティの拡散という事態が進行している。対応できない根本の理由は、大きく捉えるなら「古典的近代」と「現代的近代」との矛盾に、思想に絞っていえば基本的人権思想(人間の理念)と第二次科学革命の主導原理である「サイバネティクス」との対立に求められる。(2)先端科学技術=サイバネティクスに適確に対応する思想の確立が生命倫理学に求められているが、これに応えるには倫理思想の伝統やこれを基盤とする近代的原理を止揚した上で新たな原理を立てる必要がある。しかし日本人(日本文化)の場合、そもそも倫理思想の伝統が明瞭にされておらず、依拠すべき軸が欠けているため、思想伝統に自信をもつ他国の人々と比べて困難な事情にある。私見では、ここで求められている新たな思想原理は「ゆるやかな分割」になるが、この点の詳述は別の機会を待ちたい。

  1. バイオエシックス(生命倫理)のアイデンティティの拡散

1960年代に誕生した生命倫理は、(a)旧来の医療倫理の慣行を批判する中で、(b)医療技術(研究、移植、延命、透析、遺伝子)を含む先端科学技術の新たな進展に対応することを目指していた。しかしこのa/b二正面作戦の内にこそ、そもそも原理な混乱、学問的中心の不在=拡散の根があった。先取りすれば、そこには三つの思想原理の葛藤がある。すなわち、伝統的な宗教倫理思想、近代的な世俗倫理思想、そして未だ明確には立ち現われていないが先端科学技術に対応する倫理思想である。☞以下は『生命倫理学の基本構図』シリーズ生命倫理学第1巻第1章(丸善、2012)の微修正である。

1.1 まずは先端医療技術、広くみるなら先端科学技術の特徴を押さえてみる。近年、生命科学とバイオテクノロジーや、情報科学とデジタルメディア、人工知能や神経科学と認知科学、サイボーグ技術やロボティクス、ナノテクノロジーなど、各種のテクノロジーが収斂し、大きな複合的連関技術システムが生じている。これに支えられて2010年代には、ホールゲノム解読と病気の網羅的解明、体性・胚性の幹細胞やiPS細胞、人工のゲノムや細胞を用いた再生工学、薬剤やデジタル操作による心のコントロールなどを含めて、各方面に及ぶ「医療化」が顕著になっている。図1。

 図1                健康への願望

                      保健・年金制度     エンハンスメント

                          厚生政策                人工化

         制度         医療化         身体      

公衆衛生対策        介護・リハビリ

    医学研究        老い・死

 傷病からの回復

 医療化を押し進めるテクノロジーの正体を探ると、ニュートンらが担った第一次科学革命に対する第二次科学革命にまで遡る。必然性から確率的偶然性へ。ウィーナー『人間機械論』(第二版、まえがき)によれば、その革命へと一歩ふみ出した重要な数学者・統計物理学者として、ボルツマン(1844-1906)、ギブズ(1839-1909)、ルベーク(積分理論)の名が挙げられている。統計力学(ミクロからマクロを推定)から、相対性理論とそのE=mc2(エネルギー=質量、むしろ光子運動?)、量子力学(不確定性)に渡る第二次科学革命の波及によって、生命科学(DNA)が誕生し、種々の技術革新が起こり、やがて1960年代になってオートメーション化を軸とする第二次産業革命が生じる。医療化もじつにその延長線上にある。

 それでは第二次科学革命の本質とは何か。例えば「生命」に関して(その始まりや終わり、心との関係を含めて)、エントロピーの減少、生化学的自己同一性、シナプス結合、ゲノムといったタームで語られるさい、その前提にあるのは「サイバネティクス」にほかならない。それをウィーナー(1894-1964) が制御と通信の理論に集約したのは1940年代末である。『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』1948年、岩波書店(1957)。この原理が生殖医療技術をはじめとして、移植技術、身体治療、精神(心)療法等を駆動している。

 サイバネティクスの要点はこうまとめられる。(1)一定のパターン(組織、形)が不可逆的に崩れていくなかで、そのパターンの同一性を維持しようとするフィードバック(循環)が不断に作動する。(2)その同じプロセスは物理から、機械、生命、人間、組織までを一律に貫いている。(3)すべての存在(パターン、構造、形、もの)は交換可能であるが、それはそれらが「形の形の形…」として同型的(広義のデジタル的)に構成されているからである。

 具体的にいえば、個々の細胞や個々の生物体にとって、外部・環境は同型的=デジタル的に縮減して再構成される。そのとき物質(元素)は生命循環のなかで互換的にその形態を変え、エネルギー、構造、機能、情報になる。例えばグルコース(ブドウ糖、単糖、エネルギー=光=熱の源、C/H/O組み合わせ)は、コンテクストに応じて、セルロース(構造)またはグルコーゲン(エネルギー)とか、レセプター(機能)とか、血液型糖鎖(情報)とかになる。これらはすべてデジタル合成であり、ゲシュタルトである。図2参照。

           図2 グルコースの化学構造

1.2 以上の「医療化」を進行させる先端医療技術に対して、1960年代に誕生した生命倫理は(後述する)「古典的近代」の人権思想で対応しようとした。それは「インフォームド・コンセント」に具現されている。しかし、人権思想ではサイバネティクスを原理とするテクノロジーに原理的に対応できない。なぜか。それは人権思想とその背後にある人間の理念が、ニュートン的コスモロジー(剛体=実体の相互作用の必然的総体)を背負っているからである。

 17世紀の第一次科学革命を特徴づける必然性と普遍性。この背景には統一国家の視点があり、それは認識論的にはデカルトの「コギト」に、社会哲学的にはホッブズの「欲望する人間」の突出性・先鋭性に象徴的に表明されている。以上を受けて17〜19世紀に政治革命が引き起され、あるいは、18〜19世紀に市場形成・整備と産業革命が生じる。そしてその過程で基本的人権(自由権、社会権=生存権)の考え方が定着し、ロックやJ.S.ミル(個性/幸福・自由/行動・生存/生命)によって思想として確立される。人権の前提には「個人=剛体」がおり、個人の背後には神と動物の中間たる「人間」の理念がある。その点は全面発達する個人=人間を理想とするマルクスでも同様である。ニュートン的コスモロジーはその発見から約120年後、カントによって哲学的に正当化された。カントの人格の内なる人間性=人格性の背後には、世俗化された理性=普遍性・必然性と自己意識が控えている。

 1990年代の後半から鮮明になってきた生命倫理の学的中心の不在、あるいはそのアイデンティティの散逸という事態の背景には、以上のような原理的対立がある。もちろん、医療倫理の分野ではたいてい、伝統的原理や近代的原理に依拠することで対処できるケースは多い。古来、苦しむ人、介抱する周囲、癒しの専門家、技術という要素は不変だからである。差異や変容はそれらの連関づけに関して生じた。しかし、先端医療技術の登場はその中の要素を変えるだけでなく、連関づけの前提にある人間観そのものを変える。その結果、医療倫理=狭い生命倫理も変質せざるをえなくなる。

 なお、生命倫理と医療倫理(とくに臨床倫理)との関係をめぐる論点として、新たな原理に基づいて臨床コミュニケーションを捉え直すことができるのか、それとも、臨床現場では相変わらず伝統と近代との混合原理が支配することになるのか、がある。

1.3 以上をふまえるならば、バイオエシックスを限定しつつ生命倫理そのものの可能性を広げる必要が浮上する。そこで人類史の中で「生命の倫理」という広い枠組みを設定し、その内に伝統的医療倫理やバイオエシックスを位置づけ直してみたのが表1である。ここで「生命」は、サイバネティクスから近代的人間の理念や伝統的な諸観念までを含み、可能なかぎり広く捉え直されている。ただし、この程度の捉え方では不十分である。クロアチアでの発表ではそこから一歩ふみこみ、「意味づけ作動」という「規準的な分割」の視点から「生命」を再定義した。しかし、論のこの段階ではサイバネティクスとの差異について論究していないため、不十分なまま論を進めることにする。

表1                       

  時代  生命倫理Ⅰ    生命倫理Ⅱ  生命倫理Ⅲ
始動・萌芽期 シャーマン/巫女 呪術(擬人観)   第一次科学革命
実験医学 (デテルミニスム)
 第二次科学革命 サイバネティクス
形成・原型期ヒポクラテスガレノス、ホスピス   種々の倫理コード   ヘルシンキ宣言現在三つの傾向:PGD
完成・古典期パーシヴァル、益軒    バイオエシックス       ?
 主導原理 無加害、慈善・仁     人権、正義       ?

               
 この表で注意すべき点は、第1に、伝統的な生命倫理(生命倫理Ⅰ)の原理は消えているのではなく、人権・正義とともに現時点でも存在し、少なからず影響を及ぼしていることである。サイバネティクスに対応できない点はもとより伝統思想でも同様である(そこからは基本的に「禁止」しか出てこない)。とはいえ、伝統思想は世俗的人権思想と緊張関係をもって、あるいは調和的に共存しており、けっして消えていない。

その点を今回参加したクロアチアの学会で改めて考えさせられた。当地ではカトリックの倫理思想が根強く残っている。のみならず、世俗倫理や医学と調和すると考えられている。例えば、苦しみをめぐって三つの異なる立場(哲学者:意味づけ、神学者:不可避的受容、医師:軽減)が調和的に役割分担をしている。

伝統思想と近代思想とのつながりをさらに広く見渡せば、それを北米の世俗化されたバイオエシックスでも確認できる。ビーチャムとチルドレスの四原理。宗教的価値観は表面上見えないが、実は基盤にあることが、ジョンセンやキャラハンだけでなく、ヴィーチにも、個人の自己決定を強調するエンゲルハートにも窺える。異端とされるシンガーでも見方によっては裏返しか(ベンサム思想の急進性?)。とにかく生命倫理ではこれまで表立ってカトリシズムの影響が強い(ジョージタウン、ユネスコ)。その人間の理念は神と動物との間の中間者という捉え方である。

 二点目。生命倫理Ⅱは、歴史的に視野を広げるなら、第一次科学革命と連関する「古典的近代」に対応する。「近代」というスーパー概念はきわめて複雑であり、技術あるいはテクノロジーの側面だけで捉えられるものではないし、また、市場経済(資本主義)や、政治体制(国家とイデオロギー)の視点が不可欠であるとはいえ、それらだけで十分というわけでもない。例えばマルクス、パーソンズ、ギデンズの試みがあり、あるいは産業文明論(村上)もある。しかしいずれにせよ、「現代化」すなわち「現代的近代」はその「古典的近代」の内部から発生し成長する。

19世紀の70・80年代頃から芽生えてきた第二次科学革命は「現代的近代」の先駆的一環であった。それは表面上「古典的近代」の浸透および完成への進展と一体的に進行する。そして1920年代になってようやく哲学思想の場面で顕在化し(未来派、実存主義と技術主義の両極、例えばハイデッガーとホールデンやバナール)、戦時中に培われた技術が1960年代に産業面で定着し(オートメーション化)、1980年代以降になると日常化して大衆文化に反映する。それがポストモダン現象である。1990年代以降のグローバル化、1990年代後半から始まる広義のデジタル化はそのさらなる拡大浸透である。現在は第二局面ということになる。医療面に限ってその影響を図3に示す。

ちなみに、私は以前、「伝統的近代化」「現代的近代化」「今日的近代」という時期区分を持ち出し、昭和思想史の分析に適応したことがある(☞『「昭和思想」新論:二十世紀思想史の試み』文理閣、2009)。昭和という時代はすっぽり「現代的近代」に重なるが、そこには「伝統的近代」が入り込み、また「今日的近代」も萌芽として含まれている。しかし、現時点で反省すれば、昭和という時代では「伝統的近代」と「現代的近代」とが並存しつつ絡み合っていたのであり、そこに複雑さの要因があった。「今日的近代」とは「伝統的近代」を振り払った「現代的近代」の純粋な出現といえる。なお、ウィーナーによれば、第二次産業革命の形成は、蒸気利用の機械的結合から電気的結合(エジソン)への移行よりも、フィードバックを組み込んだオートメーション化への移行が決定的であるとされる。

 図3                              健康・幸福への願望

医療制度・厚生政策                   エンハンスメント・人工化

       P国家からの離脱傾向    P「新優生主義」の傾向

   G制度破綻の危機、国際市場    G海外ツーリズム、国際民法

 Dアーキテクチャによる国民管理     D機械化・サイボーグ化

    制度                医療化                身体

          P個人生体情報管理     P「家族」を越える支え合い

 G感染症の広がり、国際共同治験    G外国人看護師・介護士

   Dゲノムプール、人工細胞作製     D各種の介助ロボット

 公衆衛生・医学研究                               介護・老い

                 傷病からの回復

1.4 以上をまとめると、伝統思想やこれに基づいた近代思想をふまえつつ、サイバネティクスに正面から対峙しうる原理を模索することが、生命倫理の学的アイデンティティを明確にするために要請されている。とすればこの喫緊の課題にいかに取り組んだらよいか。おそらく選択肢は二つある。三つの思想の並存でいくか、それとも、最初の二つの思想を止揚した第三の思想原理を押し出していくか。


            2. 日本人としての自覚をもって世界で主体的に生きる?

カトリシズムに対するクロアチアの人々の信念の内に、私は哲学的な反省水準の低さしか認めないのだが、それにしても、いや、そうだからこそ、彼らは議論するとき自信に充ち溢れている。それとは対照的に、大人しく傾聴しつつ発言を差し控えている自分がいる。日本人の多くも(少数の例外を除けば)似たり寄ったりか。この背景の一部には、日本人の美徳といって片付けられないような、伝統思想あるいは思想伝統の自覚の弱さに根ざす自信のなさがあると思われる。

2.1 クロチチアから帰国した後、高校倫理の教科書を読み、学習指導要領を眺め、文科省の教科書検定審議会に出席する中で、その自覚の弱さという思いがますます強くなった。ここには戦後思想の評価が絡んでいるし、「人間の尊厳」という観念の曖昧さもそこに由来する。問題の根本に到るために、まずは、教育関係の三つの文書を取り上げ、「人間」の概念に焦点を当てながら検討してみよう。

(1)教育基本法 関連する言葉には下線を引く。「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」また、第一章以下から関連する言葉を抽出する。人格の完成、国家及び社会、国民、個人の価値の尊重、生命を尊び、我が国と郷土、他国、国際社会、国及び地方公共団体、公民、個性の確立。

(2)高等学校学習指導要領(平成21年3月告示) 「総則」から言葉を拾うと、国家・社会の一員、人間尊重の精神、生命に対する畏敬の念、日本人、自他の生命の尊重、人権を尊重し差別のないよりよい社会。

「公民」の目標は、「広い視野に立って、現代の社会について主体的に考察させ、理解を深めさせるとともに、人間としての在り方生き方についての自覚を育て、平和で民主的な国家・社会の有意な形成者として必要な公民としての資質を養う。」その第2款以下には、人間の尊重、人間としての在り方生き方、良識ある公民、「幸福、正義、公正」、「倫理、社会、文化、政治、法、経済、国際社会」、個人の尊重、生命の尊重、自由・権利と責任・義務、人間の尊厳と平等、がある。

「現代社会」の目標は、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念に基づいて、広い視野に立って、現代社会と人間についての理解を深めさせ、現代社会の基本的な問題について主体的に考察し公正に判断するとともに自ら人間として在り方生き方について考察する力の基礎を養い、良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。」

「倫理」の目標は、「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念に基づいて、青年期における自己形成と人間としての在り方生き方について理解と思索を深めさせるとともに、人格の形成に努める実践的意欲を高め、他者と共に生きる主体としての自己の確立を促し、良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。」また、2内容(3)アには「人間の尊厳と生命への畏敬」が出ている。

(3)「高等学校学習指導要領解説」の「公民編」(平成22年6月) 「改訂の趣旨」中の「改善の基本方針」の三番目はこうなる。「我が国及び世界の成り立ちや地域構成、今日の社会経済システム、様々な伝統や文化、宗教についての理解を通して、我が国の国土や歴史に対する愛情をはぐくみ、日本人としての自覚をもって国際社会で主体的に生きるとともに、持続可能な社会の実現を目指すなど、公共的な事柄に自ら参画しいく資質や能力を育成することを重視する方向で改善を図る。」

 「公民科の目標」には、「知識基盤社会」の時代、「公民とは、政治的な観点からとらえる場合の国民を指す」とある。また、「現代社会」には「民主主義の基本理念である「人間の尊重」、基本的人権が近代民主政治の発展の中で築かれてきたこと、その保障の充実と発展が民主政治の究極の目標であること」とある。そして「倫理」ではこう書かれている。

 「一人一人の人格を尊重すること=人間尊重(簡略化したのは森下)が民主的な社会の基本的精神であり、「人間の存在と価値」で意味されるのは、「人間はどのような位置付けで存在するのか、他者とどうかかわり、社会や自然や人間を超えたものとどうかかわっているのか、どのような人間になり、どう生きればよいのか、生きることの意味をどこに求めればよいのかなど、人間をありのままの存在の面からみると同時に価値的な面」である。そのような考察を深めることで、「国際社会に生きる主体性のある日本人」、「人間としての自覚」につながる。そして「人間の尊厳と生命への畏敬」の箇所では、「生命はかけがえのないもの、他のものとは代替できないものであることを深く認識させ、生命を尊ぶ心をもち、人間の尊厳を大切にして生き、また、人間の力を超えるものに対する畏敬の念をもつことができるようにする」、「人間の尊厳の根拠を問うことや生命の深遠さに目を向ける」とある。さらに「人間尊重の立場に立った今日課題として人種・民族問題や男女差別など」がある。

2.2 コメント。

(1)に関して、「人間」「人格」「個人」、「尊重」「尊厳」、「個性」「人間性」、「生命」といった言葉が総花的に並べられている。しかし、それら貫いて軸になるような思想は見えない。また、「国民」「公民」、「国家」「国家・社会」「社会及び国家」「我が国」「国並びに地方公共団体」「日本」が並んでいるが、それらの連関、とくに「国」と「国家」との関係が明瞭でない。総じて概念上の未整理状態がそのまま露出している。

(2)に関して。「人間尊重」は頻出するが、「人間の尊厳」が出てくるのは、公民の第2款と、それを受けた倫理の2(のみ)である。両者は言い換えであり、等置と考えられる。また、「幸福、正義、公正」がこの順序で演繹的に考察すべき価値理念群とされる。あるいは、「倫理、社会、文化、政治、法、経済、国際社会」が並列されており、システム論的関連づけがない。

(3)に関して、一人一人の人格と人間と個人は等置され、尊重=尊厳をもつとされる。人間の尊重=尊厳は、一方で、生命の畏敬=生命の大切さに根ざし、一人一人の生命がかけがえのないことと結びつけられ、他方で、民主的社会・民主主義の理念として、人権・平等・差別の文脈に置かれている。こう捉えられるなら、平等の根拠が一人一人の人=人間の命の大切さ、かけがえのなさにあるという構図が浮かび上がる。

以下はメモ・・・

2.3 以上の評価を「人間の尊厳」に関連させるとき、差し迫って必要になるのは、「人あるいは人々」の集合をめぐる概念整理である。無思想という外観の裏には、怠惰だけではなく、ひょっとして意図的な作為が隠されているかもしれないが、概念の明晰化は学問だけでなく、文化の水準を図るバロメーターであるといえる。たしかにそれぞれの言葉は複雑な概念史をもつから単純には捉えられないにしても、何らかの形の整理が強引でも必要であろう。

 人 これはすべての起点である。物(もの)の一部(者)。その本質存在が「人間」、事実存在が「人類」「ヒト」である。また、「人格」は特定の集団の成員資格に関わる概念であり、個々の人の性格や個性を指すのはその転用である。個々の「人」の集合が「人々people」である。家族(家人)から、各種団体、組織にまで、あるいは、近隣の住人から、取引先の関係者、遠方の見知らぬ異人まで広がる。あるいは、〜人、〜族。
 なお、人のものの見方で決定的に重要なのが擬人観であり、さらに突き詰めると擬自分観になる。ベルクソンもいうように、動いているもの→生きているもの→人間と同じように感じ考えているもの。あるいは、威力をもって動くもの→巨大な生きもの(宇宙、自然)→神秘的なもの=神々。そこでは情動が働いている。擬人観は原始社会の人々に呪術という対処をもたらした。それはその後、宗教に発展する。古代だけではない。現代でも、身贔屓、依怙贔屓、自国や自集団の応援にみられる。自己と他者をめぐる「理解」にも本質的な影響を与える。

民 国民、市民、公民、住民、移民、民衆(大衆)、臣民、そして民族など。もともと言葉は奴隷や隷従する人々を指し、支配者との関係にある。「国民nation」は近代国家の段階に対応した包括的な集合単位であり、他の国民との相互関係にある。それ以外の国家や社会段階では種族・部族、民族。ただし、「民族nation」に関して、政治的に統合されると「国家」の「国民」になるが、これに対応する非政治的集合体を指す場合もある。

同様に、「市民citizen」も複雑な概念史をもつ。近代国家を前提にすると、国民の下位概念(市民、町民、村民など、地方公共体の構成員)になるか、「一般市民」として専門家との対概念になるか、市民生活という非政治的な包括概念になるか、住民に対する主体的な市民という対比もある。「公民」は国民という集合体のうちでとくに公共性を担う存在であるが、公共的は必ずしも政治的を意味しない。

社会  “social”と“societal”の二つのレベルがあり、前者が個々人の社会的交渉関係のレベル、後者が全体社会連関システムのレベルをさす。前者は「人々」の集合に重なる。後者の社会システムは人あるいは人々のレベルとは異なる全体的連関。原始社会の呪術・宗教による統合からサブシステムが種々に分化自立。ルーマンの法社会学。経済、技術、政治・統治、軍事・外交、統合・規範(法・道徳)、文化(学芸、自由、遊び)、教育、媒体=メディア。

社会システムを構成するサブシステムは、固有の意味づけ作動によって存立する。そしてその固有の意味づけの視点から、人々の社会的関係(家族、各種の結社や団体、各種の組織、市民社会、国民)を意味づける。しかし、社会システムによる意味づけは、最終的には個々の人の観念システムによって支えられ、それを必ず通過する。個々人の意味づけ作動を前提にする。そこから意味づけにおける差異化と同一化、私秘性と公共性が不断に発生する。

 国家 国とは何か。国家の言い換えか、「我が国」というフレーズには郷土との連関があり、古代国家からの連続性が込められている。国衙=中央政府とその出先機関。国と地方公共団体。公人と私人。古代的国家から近代的国家にいたるまでの観念が折り重なって一緒くたになっている。

倫理 倫理あるいは道徳とは、社会を構成する人々の行動と心持ちのルール、規範のこと。規範的なもののうちでも、例えば快/不快、美/醜とは異なり、善/悪のタームと「べし」というタームでもって世界を分割する規準的意味づけ作動のシステムである。倫理的システムは、社会や国家の構成に応じて水準が異なる。自然/文化、慣習/制度、法律/道徳。倫理システムは外部のシステムとの連関のうちにある。それらの外の作動との連関によって、自己同一を保ちつつ不断に変容する。

倫理思想は倫理的システムの自己言及的な意味づけ作動である。それは自然観、死生観、そのほかの価値観と結びついて全体的な見方、すなわちコスモロジーとか形而上学とかいわれる思想に結びつく。いずれの社会や国家も広義の文化の核心として倫理思想をもつ。倫理思想が人々の在り方や生き方の拠り所/軸になる。倫理思想史の研究はその拠り所/軸の探究。倫理学はその軸を含めて規範的なもの全体を体系的に研究。

2.4 倫理の教科書(たぶん山川版)に転じる。これは学習指導要領に沿っているが、そこにはいくつかの問題点がある。ここでは主たる二つの問題点をめぐって。

第1点。教科書はまず青年期の「自己」の悩みから出発する。そしていきなり「人間への問い」に移る。問題はそこでの人間の捉え方である。それはシェーラーの哲学的人間学のレベルにある。1920年代。第二次科学革命の影響が思想界にも反映。シェーラーでは進化論、エジソンの電化レベル。進化論と伝統思想との総合。精神。カトリシズムからのはみ出し。衝動と精神の二元的対立の歴史。

ハイデッガーの革新性。第一次世界大戦、精神上の危機。伝統の拒絶、哲学の革命。歴史性=瞬間的時間、出来事。実存的主体性。転回、真理。形而上学のギリシア的発端からやり直し。明るみ/暗がり。ただし、同時に、未来派、科学技術主義。エントロピーのよる地球の死と不死。科学技術信仰。バナール、ホールデン。後に、アーレントの夫(ナノエシックス論)。二つの知的潮流:実存主義と技術主義。環境倫理とAI研究。ちなみに、三木清の場合も。虚無、不安・動性、ロゴスから技術へ、そして底流の親鸞信仰への回帰。

要するに、倫理教科書の「人間」はシェーラーの水準(知能とは異なる精神)で止まっている。身体性、情感性、環境とのつながりのなかでの意識、精神ではなく。シェーラーを通じてカトリシズムの影響が教育基本法その他の文書に反映している。その意味での「古典的近代」の発想が色濃く反映しているといえる。

第2点。伝統思想、思想の伝統の記述には軸が描かれていない。その変容と持続をいかに捉えるか。底流に外来思想が加わり咀嚼されるという和辻の解釈水準。風土論=日本文化の特徴。それ以来、倫理思想の解明は止まっている。『古事記』。清き赤き心、清明心、和、正直、誠、至誠。あるいは、無、空。あわれ、情け。義理と人情。祓いとみそぎ。とくに絆。それらはおよそ思想ではない。どの社会や共同体にもある。思想の名に値しない。神道の不幸は思想家をもたなかったことは、井上哲次郎の弁。

日本思想史を一貫するもの、その軸を把握するためには、呪術、『日本書紀』、空海、天台本学思想、鎌倉新仏教と伊勢神道、山崎闇斎の垂加神道、古学、国学、明治以降をつなげて捉えなければならない。例えば、西田哲学の記述。『善の研究』1911年。東洋的思考様式を西洋哲学の論理で表現。だが、これで何か分かったことになるのか。日本人として主体的に世界へ向けて発信できるのか。心=実在、主客合一/未分化の純粋経験、統一的一者、その分化発展、再統一、大いなる自己=神=運動する実在、それへの帰一=真の自己。しかし、それらは井上の比較でみないとその特徴が浮かび上がらない。

明治哲学史、明治思想史の捉え直し。第一世代の福沢たちからいきなり第三世代の西田たちへ。東洋哲学を西洋哲学と同じ土俵の上でその特徴を位置づけ、その意味で日本哲学を確立しようとした第二世代は、日本主義=国粋主義としてわずかに言及のみ。その中心にいた井上哲次郎は名前すら抹殺。それに対してキリスト教徒(内村ら)の記述の比重ははるかに大きい。井上哲次郎は、徳川時代までの伝統的漢学的コスモロジーが崩壊する中で、西洋哲学と同じ土俵の上でその近代的な再建を企てる。良心論の転変。倫理新説1883、東洋哲学史研究(中国、インドと仏教、日本儒学、神道)。1891(教育)勅語衍義(解説)、1900ころ普遍的倫理宗教論、1912国民道徳論。西田は井上の敷いた路線の上にいる。伝統的漢学的コスモロジーがかろうじて生きていた最後の世代。生の哲学とヘーゲル。そこに禅の即非の境地には止まらない近代性がある。続く和辻たちの世代にとってそうした伝統は消えており、むしろ再発見の対象になる。

                3. 新たな思想の原理を求めて

サイバネティクスの問題点。1つは意味づけ、つまり規準的作動との接続。世界分割の視点。もう1つは階層化の論理、階層形成の論理。運動の論理。

ヘーゲル:弁証論の歴史、カントの二律背反、シェリングの無差別的絶対者。実在の連関=運動としての総体性。総体性へと向かう目的論的運動の論理(歪曲)。日本における運動の論理=近代性=弁証法の受容と解釈。進化(井上)、分化発展(西田)、田辺元の弁証法(絶対無による絶対弁証法、絶対媒介=種の論理、懺悔道の論理、生死のテンソル場的弁証法)。西田:純粋経験の分化発展、無の場所、弁証法的一般者(個別的限定即一般的限定)、行為的直観(身体的製作=作動循環)あるいは作られたものから作るものへ(絶対矛盾的自己同一)。

総体性から総体性への運動(転換・変容・高次化・高階化)の論理

(1)原理=ゆるやかな分割作動。

(2)医療倫理も作動循環としてのコミュニケーション。

(3)自己、家族、組織、国民のゆるやかな捉え直し。

(4)主観的と客観的:カテゴリーミステイク、レベルの違い。階層化の問題。

(5)サイボーグ、ハイブリッド、ロボット、サイバースペース。

 
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