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ルーマンの社会システム理論と森下のシステム倫理学   
活動の実績 | 2020.08.07

2019.9.2/舘山寺温泉「奥浜名湖」/東京・名古屋合同研究会/報告ペーパー

システム倫理学と社会システム理論

——<世代性>を組み込んだ互助集団は可能か?——


森下 直貴

はじめに

「システム倫理学」。対立状況に際し、対立の解消ではなく移動・変容をめざすための方法の展開、21世紀デジタル時代の倫理学。来春の出版予定。教科書ではなく知的水準の高い)一般人向け。四つの特色がある。①コミュニケーションシステムの構造化という視点、②両側並行モデル、③四次元連関に基づく論点および観点の連関、④規範的方向づけを導く実践目標の設定。

 心の自問自答・・・・・・・・信念・格律・・・・・・倫理(道徳)

 相互的な対人関係・・・・・・信頼・常識・・・・・・倫理(道徳)

 分化した機能システム・・・・機能目的・・・・・・・倫理

 人々の集団・・・・・・・・・慣行・組織風土・・・・倫理

 機能システムの関係全体・・・イデオロギー・世論・・倫理

 時代や歴史・・・・・・・・・文明・文化伝統・・・・倫理

 観念・理念・・・・・・・・・価値・究極目的・・・・倫理


システム倫理学の背景にはルーマン(1927~1998)の社会システム理論がある。それは下敷きというより決定的な刺激であった。システム倫理学はルーマンの理論のどこを受け継ぎつつ、どこをどのように変えたのか。この報告では社会システム理論と比較する中でシステム倫理学の位置を確認する。その際、クリスチャン・ボルフの『ニクラス・ルーマン入門』(2011年→庄司信訳、新泉社、2014年)を水先案内人とする(今回は典拠表示をしない)。

システム倫理学の具体化の一つが<老成学(Re-ageing Gerontology)>である。老い方を生き方として問い直すこの研究の鍵となる概念は、互助、集団、世代。世代はタテとヨコのコミュニケーションが交錯する集団。ルーマンの理論を検討する中で、世代性を組み込んだ老人互助集団の可能性を考える。


1. ルーマンと私

ルーマンは「システム/環境」の区別という一点から、社会のすべての現象を説明するグランドセオリーを創出し、展開した。20世紀最大の社会学の理論家と言われる(富永健一)。主著は『社会システム理論』(1984年)。通説ではこれを境にして理論的立場が以前と以後に区分される。しかし、ボルフは1980年代後半に新たな段階に踏み入るとする。そこでボルフにしたがって以下の三期ないし三段階にまとめる。

⑴ 機能主義理論の時期。パーソンズのシステム論を受け継ぎ、しかし構造優位ではなく機能優位へと修正。問題=解決をめぐる機能的等価。複雑性の縮減と偶発性。規範的背景は全体主義批判。理性=啓蒙に変わる円熟した啓蒙の立場。

⑵ オートポイエティクなコミュニケーションシステム理論の時期。生命システムのオートポイエーシス論を社会に導入。『社会システム理論』1984年。社会とは人間の行為かコミュニケーションか。ハーバーマスの人間主義を鋭く批判。

⑶ 認識論・差異論の時期。システム/環境の区別を認識論的に深め、ジョージ・スペンサー=ブラウンの区別の形式を導入。デリダに対抗。観察者、再–参入。二次観察としての社会学。脱規範の立場。パラドックスの脱パラドックス化。

私とルーマンとの出会い。一度目は1980年代半ば。『システム理論のパラダイム転換』(1982年の日本講演集、翻訳1983年)。複雑性の縮減としての機能システム。しかし、翻訳が難しく十分な理解に至らず中断。その後、2006~09年、要素(部分)同士の働き合いから全体=社会が生成する論理を探求。ホッブズ、スミス、ヘーゲル、ジンメル、デュルケーム、パーソンズ、和辻、西田を研究する延長線上で、2012年冬に『社会システム理論』(1984年→翻訳1993年)を読む。これが二度目。理論上の決定的な刺激を受ける。

ごく少数の基礎概念。「コミュニケーション」、「区分の形式」、「システム/環境」、「「機能システム」。基礎概念の解釈を含めてそこから先の展開は独力。<コミュニケーションシステムの構造化=倫理>という視点。そこから倫理学の革命を企てる。それではシステム倫理学と社会システム理論とはどこがどのように異なるのか。


2. 基礎概念をめぐる差異


2.1 システム/環境の区別

⑴ ルーマンは「システムが存在する」から出発する。大前提は「システム/環境」の区別である。第3期になるとこの大前提は認識論的に深められ、区別の形式として捉え直される。マークされた側とマークなしの側の両側をもつ境界線(/)。この区別を設定する(境界線を引く)のは観察者である。したがって、いかなる区別の背後にも観察者がいる。

「観察」という言葉には注意が必要である。日常的・科学的な観察は自覚的(自己言及的)であるが、ここでの「観察」は知ること一般を指している。<知ること>はものが環境に反応する経路の前半にあたり、外部の刺激を際立たせ区切る働きをする。この区切りによって「システム/環境」の区別が成立する。その際、区切る働きdistinctionは同時に境界線のシステム側を指し示すindication。「美/醜」の「/」は美でも醜でもないが、観察者(観点・視線)は美の側を指し示す。

しかし、内部の知る働きの指摘だけでは「システム/環境」の区別の生成を説明できない。私の関心は元来「システムはいかにして成立するか」にある。問題の核心は知る働きがいかにして生成するかである。システムの形成において内的な区切りとして働くしくみの生成が問われなければならない。この働くしくみを構造化と呼ぶなら、要素同士のつながり合いの中から構造化が形成され、この構造化によってつながりが安定して方向づけられるとき、システム/環境が立ち上がるということになる。


⑵ ルーマンはシステムと区別される環境についてはほとんど言及していない。環境には他のシステムも含まれる。システムの外側の環境をいかにして知るのか。システムはその環境そのものに直接アクセスできない。観察用の区別を通じてのみ。「システム/環境」はカントの「現象/物自体」のシステム版である。

しかし、私の考えでは環境が何であるかを推理(知ることの第三次元)はできる。第一次元の知ること(知覚)が際立たせであり、そこから明瞭な輪郭をもつ単純な形が生じるとすれば、際立たされるものは(無差別・混沌というより)複雑な形をしていると推理できる。そこから存在論に転じると、環境はものごとの複雑な関係であり、知ること=区別することを通じて単純な関係としてのシステムが生じる。システムはもの同士の働き合いの複雑な錯綜の中から、知るという単純化の区別を通じて偶発的に立ち上がる。システムは環境の変換であると考える見地を変換主義と呼びたい。


⑶ ルーマンの「システム」は「Selbstreferenzシステム」である。“Selbstreferenz”とは、要素同士のつながりが次々と再生産されてつながっていくこと。つながりが要素となり、つながりが自己再生産される(オートポイエーシス)。ミュンヒハウゼン男爵の法螺話。つながり合いが回路になるためには、環境条件の変化を前提にして、つながりをたえず方向づける「つながり方」のパターンが必要である。その働きが構造化である。

“Selbstreferenz”の訳には「自己準拠」(佐藤勉)、「自己言及」(庄司)、「自己参照」がある。ただし、自己言及の場合、「言及」である限り身体表現とは無縁の言語記号のつながりを前提にする。これは特殊な次元のつながりである。

つながり一般には、自己言及のつながり以外に、概念をやりとりする推理のつながり、類型をやりとりする想像のつながり、知覚の型をやりとりする情動のつながり、生体分子の形をやりとりする生命のつながり、さらに電子エネルギーをやりとりする物質のつながりがある。これらは(物質を除いて)自己再帰的なつながりである。自己再帰的なつながりとは、構造化によって方向づけられたつながり合いであり、すなわちシステムである。


2.2 コミュニケーション

⑴ ルーマンは「コミュニケーション」を「社会システム」に限定する。「社会的」とは(人間の関係を機能的にみた場合の)コミュニケーションのつながりのことである。コミュニケーションにコミュニケーションがつながる自己参照(自己再帰)システムが社会システムである。他方、心的システムは意識のつながり、生命システムは生命のつながりとされる。ルーマンはこれらにはとくに関心がない。ただし、社会システムと心的システムは「意味」を共有するため、その限りで心的システムに言及される。

私の考えでは、「もの」同士のすべての関係がコミュニケーションである。ラテン語(munus贈り物<communis贈与交換<communication)を考慮するなら、電子であろうと、生体分子であろうと、情動であろうと、何かがやりとりされる限り、それはコミュニケーションである。もの同士のあらゆる関係は機能的に見るならすべてコミュニケーションである。生命も心もコミュニケーションシステムである。やりとりしないような「もの」はない。コミュニケーションを行う「もの」もコミュニケーションである。コミュニケーションの一般理論。ここがルーマンとの決定的な違いの一つである。

社会システムの土台は対面的コミュニケーションであり、ここでやりとりされるのが意味の解釈である。意味の解釈を行うのは双方の心のコミュニケーションシステムである。ただし、心の内部でやりとりされるのは意味だけではない。知覚の型や想像の類型や概念といった表象もやりとりされる。夢を見るのも心のシステムである。意味の解釈は言語記号を用いた自問自答のコミュニケーションにおいて行われる。ただし、自己言及される限りすべての表象は意味となる。


⑵ ルーマンは自我の側の理解が他我の側の理解の前提になるとき、コミュニケーションが成り立つとする。ダブルコンティンジェンシー。理解の前提には情報と伝達の差異がある。表出が情報。意図は伝達。その差異が理解を導く。情報/伝達/理解のそれぞれの選択のつながり。四番目の選択は応答。

ルーマンはおそらく簡単なことを難しく言っている。対面の相互的コミュニケーションとは、双方の側の意味の解釈のプロセスが表現を介してつながること。言動・表情=表現によって指し示される意図・真意=意味を解釈する。双方の側の(孤立し勝手な)解釈、したがって双方の誤解がコミュニケーションを駆動する。これには①情報→②解釈→③比較→④総合(方針)そして⑤応答がある。応答は表現・媒体である。応答を挟んで二つの意味解釈の見えないプロセスが進行する。⑤応答は直ちに相手側の④情報になるから、四段階のプロセス。

双方の側で「こうすればこう返ってくる」「相手はこんな人だ」という解釈パターンが成立し、意味のつながりに織り込まれ、方向づけとして働くとき、対面コミュニケーションは進行する。しかし、この解釈パターンだけでは相互的コミュニケーションの「システム」にはならない。そのためには意味の共有=コモンセンスが必要である。コモンセンスとは何か。いかにして形成されるのか。これについては後述。


2.3 意味の次元

⑴ ルーマンによれば、情報・伝達・理解における「選択」を通じて潜在的なものの中から一つが現実化する。選択されたもの(指し示されたもの)が「意味」である。潜在的なものと顕在的なものとの差異。選択によって差異としての意味がつながっていく。しかし、これは形式的な定義にすぎない。

コミュニケーションにおける意味とは、実質的には、表現によって指し示されたもの、すなわち、相手の意図や動機つまり真意のことである。見える行為として表現されるコミュニケーションの背後では、双方の側の意味のつながりが進行している。真意の解釈から応答にいたる内的コミュニケーションの四段階。


⑵ ルーマンによれば、意味には三つの次元がある。すなわち、事象次元(これ/あれ)、時間次元(以前/以後)、社会的次元(自我/他我)である。この三次元は議論の分析ツールとして使えるという。しかし、なぜこの三次元か。例えば空間次元が欠如するのはなぜか(ボルフ)。これらにルーマンはまともに答えていない。

①直接=外接の対外性

②直接=内接の対内性

③間接=外接の対他性

④間接=内接の対自性

私の考えでは意味は四次元をもつ。しかも四次元連関である。ここがルーマンとの決定的な違い。その一例が対面的コミュニケーションの四段階である。これを論理的に捉え直すと、<直接―間接>と<外接―内接>の二軸の組み合わせから四次元になる。なお、「次元」という用語の選択については省略。


⑶ なぜこの四次元か。答えは人間存在が四次元のコミュニケーションシステムの統合体であることに求められる。身体=生物のコミュニケーションシステムの統合体を基盤とする心のコミュニケーションシステム。環境の外的刺激をシステム内部で経路化するさい、<知る=応答する>を方向づけるのが構造化。これが構造化の構造化として四次元になる。①情動コミュニケーションの本能、②想像コミュニケーションの知能、③言語記号コミュニケーションの推理、④自己言及的コミュニケーションの反省。

ちなみに、四次元の構造化が基盤にあるため、心のコミュニケーションの四次元のみならず、例えばカントのカテゴリー論(量・質・関係・様相)や、ウェーバーの社会的行為論(目的合理的・心情的・伝統的・価値合理的)、パーソンズのAGIL図式のように、人間の意味世界が四区分される。


2.4 人間:基盤=表現

⑴ ルーマンは「反人間主義」を標榜し、人間主体(主観)を基礎とする従来の間主観主義的な理論の不徹底を批判する。社会システムはコミュニケーションであり、そこには人間はいない。どこにいるのか、社会システムの外部=環境にいる。ルーマンにとって心と生命システムの集合体である人間には理論的な関心がない。ただし、「人格」はコミュニケーションの話題(宛先)として、「個性」は分化した機能システムの残余として機能的に位置づけられる。

私は、コミュニケーションが成り立つ基盤として、人間のとくに心のコミュニケーションが決定的に重要だと考える。これが四次元の統合体であることから意味世界の四次元連関が由来する。ルーマンは社会の理論を志向するが、私のシステム倫理学は人間の意味世界の理論を志向する。


⑵ 社会は人間の行為の関係か、それともコミュニケーションか。これがルーマンにとって理論上決すべき最初の選択であった。ルーマンは決然としてコミュニケーションを選んだ。ところが、社会システム理論の至る所で、ボルフによれば決定的に重要な箇所で、行為が顔を出す(見える行為システム)。しかし、ルーマンは行為をコミュニケーションのトリックとする。

私の考えでは、一連の動作は意味解釈のプロセスの基盤であると同時に、プロセスの表現・媒体でもある。一連の動作プラス意味(目的)としての行為の方が事柄としては総合的であり、コミュニケーション=意味のつながりはその機能面である。

ルーマンの理論の本質的な欠陥は、心、一連の動作、身体、物質、人間、人々の集団がまともに位置づけられていないことである。これを機能主義の代償である。コミュニケーションは機能的にみれば意味のつながりであるが、意味のつながりは一連の動作に担われて初めて機能する。一連の動作の基盤には身体そして物質がある。


3. 機能システムと集団コミュニケーション


ルーマンは「社会Sozialシステム」を三つに区別する。第一は相互作用。これは対面の相互的コミュニケーションである。ルーマンからみれば、「シンボリック相互作用論」は心的システムにすぎず、社会システムに届いていない。第二は組織。成員要件をもつ集団のこと。これについても簡単で不十分な説明しかなく、集団内コミュニケーション一般の分析が欠落。三つ目が全体社会(Gesellshaft)。これはあらゆるコミュニケーションの総体。人類史における全体社会の第一次的な分化様式は、環節的分化/成層的分化/機能的分化。

ところで、相互作用はいかなる意味で社会システムなのか。また、組織イコール集団ではない。さらに、機能システムの相互関係は必ずしもシステムではないから、全体社会も社会システムとは言えない。要するに、社会システム論では、相互的コミュニケーションから、集団コミュニケーション、機能システムの相互関係を貫通している軸が見えない。ここで鍵を握るのは機能システムの分化の論理である。


3.1 機能システムの<分化>

⑴ 機能システムはバイナリコードを区分形式とする。この区別によって現実に対するパースペクティブが分化し、独立した意味世界が出現する。ルーマンの機能システム理論は、認識論的には他の社会理論よりもはるかにラディカルである。

例えば、マルクスは資本主義経済を自己組織化する領域として捉えた。ルーマンの理論はマルクスの考えの一般化と言えなくもない。ただし、ルーマンによればマルクスは経済分野を過大評価し、一般化の途中で立ち止まる。ブルデューの「界」の分化論は界の内部に闘争や上下関係がある限り、集団領域論である。デュルケームの分業論もまた専門化した労働形態の分化にすぎず、そのため集団統合として有機的連帯がめざされる。ルーマンに近いのはウェーバーの価値領域論である(神々の争い)。ただし、バイナリーコードがなく、機能主義的に徹底していない。

機能システムはそもそもいくつに分化するのか。ルーマンは法、政治、経済、教育、芸術、マスメディア等々を列挙しているが、分化の数については経験的な問題とする。しかし、経験的列挙に対して合理的再構成が必要ではないか。その答えは「機能システムはどこからどうやって成り立つか」の考察を通じて与えられる。


⑵ 社会システムの起点は対面的コミュニケーション(相互行為)である。コミュニケーションが成立するとは、相手の選択を自分の選択の前提とする中で、双方の意味解釈のプロセスがつながることである。前節で説明したように、双方の側の解釈パターンの成立だけでは、心のコミュニケーションシステムは成立しても、相互的なコミュニケーション「システム」にならない。そのためには何らかの意味の共有=共通の意味=コモンセンスが必要である。三人以上からなるコミュニケーション、あるいは、対面を超えたコミュニケーションを支えるのがコモンセンスである。

問われているのは秩序形成の論理である。理論史の概観は省略する。ホッブズ:欲求志向。競争、対立。平和ルールの表象と恐怖。一挙の相互放棄による絶対権力。スミス:欲求と知性=想像力。立場交換の同感。同質集団を想定。ウェーバーの行為の四類型を受けたパーソンズ:欲求志向と価値志向。社会化と内面化を通じて秩序形成。価値システムの規範性を前提にした秩序形成。

ルーマンによれば秩序形成には三つの障害がある。理解(解釈)、遠隔化、理解の相互前提化。理解(解釈)のためには表現(言語)、遠隔化のためには文字を含めた種々の通信伝達手段、理解の相互前提化には「象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア」、つまり一般的象徴メディアが必要とされる。機能分化にとってはとりわけ「一般的象徴メディア」が重要である。


⑶ 自我の選択と他我の選択の相互前提化のために、ルーマンが導入したのは「体験/行為」の枠組みである。これは双方の選択をどのように調整するかに応じて機能が分化という考えである。

他我の行為→自我の行為・・・=〉権力・・・・・→支払いの象徴=貨幣

他我の行為→自我の体験・・・=〉美、貨幣・・・→権力(剣)、正義(天秤)

他我の体験→自我の行為・・・=〉愛・・・・・・→共同性の象徴=愛

他我の体験→自我の体験・・・=〉真理・・・・・→真理、美

この説明の仕方についてルーマン自身も「多少人為的」と釈明している。なぜ体験→行為が愛なのか? なぜ権力? なぜ美と貨幣が一緒か? そもそも体験と行為の区別の根拠が不明である。ちなみに、一般的象徴メディアに関してパーソンズは、システムの違いを考慮していないとしてルーマンを批判している。なお、以前の私はルーマンに沿って・・・→のように考えたことがある。


⑷ 改めて根本から考えると以下になる。⒜ 前提は人間存在という身体を基盤とする四次元のコミュニケーションシステム統合体である。この前提から ⒝ 心のコミュニケーションシステムの四次元は、①対外的→遂行次元、②対内的→心情次元、③対他的→交渉次元、④対自的→内省次元になる。志向目的の違いに応じて心の四次元の連関に偏り・傾きが生じ、⒞ 表現=行為は四つの類型タイプに分化する。すなわち、①実用型/②共感型/③統合型/④超越型である。

⒟ 相互的コミュニケーションは、同型の目的=行為がつながるときスムーズに進行する。例えば、支払い→支払い、困窮→援助、提案→承認、疑問→解決。志向目的の重なりがコモンセンスになる。相互的コミュニケーションシステムもまた四群になる。①実際型、②共同型、③公共型、④文化型。

コモンセンスが機能的に特化されると、⒠ 相互コミュニケーションシステムの中から機能システムが立ち上がる。四つの共有目的から機能目的が分化する。コモンセンスが一般的象徴メディアの元である。ただし、ルーマンは混同しているが、共有目的=理念とその象徴とは別である。正義の象徴は天秤、支払いの象徴が貨幣。明確な象徴を欠く場合もある。

例えば医療システムの場合、苦しんでいる傷病者に手を差し伸べる行為は、②共同型の相互的コミュニケーションシステムである。これを土台にして治療回復=機能目的になるとき、医療システムが立ち上がる。機能目的は区分の形式によって病気/健康あるいは正常/異常のバイナリーコードになり、病人は治療可能な存在=患者になる。象徴は蛇の巻きついた(アスクレピオスの)杖。


⑸「一般的象徴メディア」論は社会システムがどのように機能分化するかという社会システム理論の核心である。一般的象徴メディア(正しくは機能目的)がバイナリーコードを提供し、この分化を基礎にして機能分化が可能になる。しかし、ルーマンの説明では根拠が薄弱である。私はルーマンとは違って人間存在の四次元を前提にし、相互的コミュニケーションを土台にして機能目的を導き出している。

機能システムは四領域(経済領域/共同領域/公共領域/文化領域)に分化し、さらに16分野(四×四)に細分化される。まず、①経済領域は、⑴労働・産業、⑵技術・テクノロジー、⑶市場、⑷消費生活の4分野に分化する。次に②共同領域に含まれるのは、⑴福祉、⑵医療、⑶育児・介護、⑷教育である。さらに③公共領域は、⑴統治・行政、⑵メディア・世論、⑶政治、⑷法に分かれる。最後に④文化領域を構成するのは、⑴遊戯・趣味、⑵芸術・スポーツ、⑶科学研究、⑷哲学・宗教である。

私は試行錯誤を繰り返し末にようやく以上の四領域16分野にたどり着くことができた。ルーマンよりは理論的に一貫していると考えている。ちなみに、体験と行為の組み合わせも心の四次元に対応させることができる。


3.2 機能システムの<統合>

社会システム理論の重大な弱点は、分化した機能システム同士の統合問題である。機能システムは独自の意味世界である。ルーマンは存在論を嫌うが、各機能システムがそれぞれの現実を生み出すとすれば、多「元」的存在論ということができる(多「次元」連関存在論ではない)。それでは、分化した機能システムからなる全体社会は何によって統合されるのか。

ルーマンは「全体/部分」フレームから「システム/環境」フレームへと転換する。この場合、統合とは機能システム同士の相互関係の相互調整を意味する。焦点は、サブシステムの自己制御が他のサブシステムによってどのように条件づけられ制限されるか。あるいは、サブシステム同士は歴史的にどのように変化するか。したがって分裂もまた調整=統合の一つのあり方である。

機能分化の全体社会は、グローバルスタンダードが通用する世界社会である。地理的領土に限定されない上に、非階層かつフラットな社会。その結果、中心機関も頂点も持たない。「全体は部分の総和以下」。中心となる時間もない。この中心なき社会像はマルクス主義的アプローチとは明確に対立する。一つかわずかのシステム(しばしば政治と宗教)を中心とした社会はルーマンの定義では「全体主義」である。民主主義は機能分化した社会を土台にしてのみ可能。

しかし、中心不在の調整メカニズムではバラバラな解決策しか出てこない。ルーマンによれば、機能システム同士の関係には「構造的カップリング」と「パーフォーマンス」がある。構造的カップリングとはシステムと環境(内のシステム)との関係。例えば、心と社会、政治と経済、法と政治、経済とテクノロジー。他方のパーフォーマンスは機能システム同士の特定の寄与。エコロジーと包摂/排除という二つの問題を取り上げ、ルーマンの理論の帰結を追ってみる


エコロジー問題

全体社会というシステムとその環境の区別。システムは環境とコミュニケーションできず、環境についてコミュニケーションするのみ。「共鳴」とは環境の中の出来事がシステム内に何らかの影響を引き起こすこと。しかし、各機能システムがそれぞれバラバラに共鳴する。社会は単一の声で語らない。機能システム間の共鳴は制御不能である。

機能システムがとる対策は、社会と環境の関係に対してよりも、社会の内部つまり機能システム間の共鳴に対してはるかに大きな影響を及ぼす。例えば、自然エネルギー対策は補償金や教育プログラムにつながる。これが構造的カップリングやパフォーマンスの効果である。しかし、エコロジカルな問題に対する安易な解決策はない。機能システムの間には巨大な構造的障害が横たわっている。どうするか。

ここでルーマンが要請するのは社会的「合理性」である。合理性とは、社会/環境の区別を社会の内部に再導入し、重要な区別として用いること、社会/環境の両側を振動しながら検討することであるが、具体的にどうするかまでは論じていない。 ルーマンを創造的に継承するボルフは、ラトゥールを援用しつつ「組織」に注目する。ルーマンの理論において個々の機能システムの論理を超え、社会全体に関わる問題に取り組むことを可能にするのが組織である。しかし、ルーマン(ボルフ)ではそれ以上展開されていない。


⑵ 包摂/排除問題

機能システムの相互関係は、近代社会の根本的な分化様式の帰結である。ルーマンによれば「ポストモダン」は歴史理論としては成り立たない。機能分化の先はない。機能分化において環節分化や階層分化が再登場する。しかし、システムの変容を考慮すると、まったく新しい分化様式が将来登場する可能性もある。それが包摂/排除の区別である。 

「包摂」とは機能システムのコミュニケーションによって指し示されることであり、その反対が「排除」である。排除が複数の機能システムにおいて繰り返し起こり、連鎖的に結びつくと「構造的排除」になる。これが今日の世界に広範に浸透しているのが現実。例えば、都市周辺のスラム街、ホームレス、難民、老々介護、8050問題(引きこもり)、等々。

ルーマンによれば、構造的排除は全体主義への後退よりももっと深刻である。それは零度の社会秩序=ホッブズの自然状態。社会秩序以前だからである。剥き出しの生(アガンベン)、一切の価値を欠落させた生、廃棄された生(バウマン)。現代の機能分化社会は人々を大規模・組織的に排除する社会であり、古代のヘレネス/バルバロイと対比しても出口あるいは脱出方法がないとされる。

包摂された人々と排除された人々の分裂は、社会的区別の新たな形式の出現を黙示する。その際、ルーマンによれば、「疎外」、「抑圧」、「搾取」、「差別」、「周縁」といった旧来の社会学的説明はすべて的外れである。そこではなお包摂による解決が考えられているが、これでは困難をさらに増やすだけである。

それではルーマンに解決策はあるのか。機能分化の論理の内部では探せない。可能性があるとすれば次の三つである。一つ目は社会的支援の新たな機能システムを立ち上げることである。しかし、どうやって? 二つ目は機能システム同士の構造的限界を機能システムに自覚させること(つまり合理性の導入)である。しかし、実際にどのように達成するかの具体的な指針はない。そして三つ目が組織である。組織は機能システムよりもダイナミックに動くことができ柔軟に変化する。しかし、これまた示唆のみに終わっている。


3.3 政治システムと福祉国家

⑴ 通常、解決策を提示するのは政治システムの作動である。政治システムの機能目的は権力、すなわち、集団的拘束力を有する決定と、物理的な力による正統的な強制。ルーマンによれば、政治システムは三つのサブシステムに区分される。政治/行政/公衆。従来の伝統的な国家機関モデルでは議会/政府/行政であった。ルーマンはこれに反対し、政治システムと国家を区別する。国家とは政治システムの自己記述、近代社会において政治システムが自らに与えた名称である。

私の考えでは、すべての機能システムは①経済領域/②共同領域/③公共領域/④文化領域のどれかに属する。⑶政治システムは⑷法システム、⑴行政システム、⑵世論システムとともに③公共領域に属する。

それに対して国家は、後述するように、最大のコミュニティであり、すべての機能システムを包括する人々の集団である。国家の捉え方は従来、社会の一領域に限定されてきた。インフラ整備の夜警組織、共助・社会保障の共同体、国民統合・権力装置、世代と伝統の継承者。今後は四機能のセット(四次元連関)で捉えられなければならない。


⑵ ルーマンによれば、今日の主流は「福祉国家」と呼ばれる政治システムである。これはあらゆる日常の要求を取り上げて応えることによって政治的包摂をめざす。本格的な保のために法律と貨幣を総動員する。これは政治システムの限界を超える膨張であり、ルーマンにとって福祉国家は全体主義への後退に見える。

福祉国家批判の点でルーマンはハーバーマスに接近するが、両者の規範的根拠は異なる。ハーバーマスが批判するのは「システムによる生活世界の植民地化」である。「生活世界」を根拠にして、より良き社会のために社会変革を目指す批判的・規範的なプログラムを掲げる。他方、ボルフによれば、ルーマンが批判するのは「政治システムの植民地化」、つまり機能分化における脱分化のリスクである。ルーマンは小さな国家を志向するネオリベラリストである。

ただし、社会学はあくまで二次観察を行なうのであり、社会の改善を主張することはない。ルーマンの社会学理論そのものには規範的先入見は含まれていない。しかし、政治システムの脱分化に対してはルーマンの規範性が露呈する。また、包摂/排除問題に関しては一次観察者として反応し、全体主義よりももっと深刻な危機としてみている。


⑶ ルーマンの問題点は政治システムを広くとりすぎていることである。これは機能システム分化論と矛盾する。裏を返せば、国家が組織=集団論として正面から論じられていない。以上から、政治システム=国家の肥大化/縮小化という観点は生じるが、国家以外の組織=集団論による国家の制限または補完という発想は出てこない。


4. 世代性を組み込んだ互助コミュニティ


⑴ あらゆる観察したがって区別には盲点がある。「システム/環境」の区別はルーマンでは不可侵の大前提であるが、この区別の解釈にも盲点がある。それが、行為、身体、空間、作動の存在論、外部、強度、物質性である。これらはすべて機能の外部という点で関連している。

社会システム理論では人々の集団もまた盲点である。コミュニケーションとは意味のつながりであるが、これは人間の相互行為を機能の観点から捉えたものである。コミュニケーションを担うのが人間の動作であるように、機能システムを担うのは人々の集団である。集団の人々による集合的コミュニケーションなしに機能システムは機能しない。しかし、ルーマンには集団の精密な分析が欠けている。ルーマンを超えて進まなくてはならない。

私の考えでは、まず、集団の集合的コミュニケーションは、自己言及的に四次元連関に基づいて編成されるとき組織になる。組織の場合、その四次元とは、①実務次元/②道徳次元/③規範次元/④理念次元である。実務次元において何か問題が発生すると、四次元が連動して対処する。これが倫理の実際の働きである。

機能分化した全体社会における集団は、機能システムの担い方の観点から二分される。特定の機能システムを主として担うのが<ソサエティ>(socius獲物を追う仲間<society)。この例は企業や学会である。他方、機能システムを包括的に担うのが<コミュニティ>(munus贈り物<communis贈与交換<community)。この例が家族や国家になる。

いま、包摂/排除問題に真剣に向き合うために、国家ではない集団が求められているとすれば、それは共助型の相互コミュニケーションシステムを土台とする共同領域のコミュニティであろう。この領域には16区分にしたがえば、⑴福祉/⑵医療/⑶育児・介護/⑷教育が含まれる。


⑵ 私見では共助は三区分される。国家による公助、家族による自助、身近な人々の集団による互助である。21世紀の全体社会では公助には一定の限界がある(ベーシックインカムも)。他方、家族の自助力は著しく低下している。今後の少子高齢化社会において要請されるのは、公助の再検討ならびに家族概念の拡張とともに、とりわけ新たな互助コミュニティの形成ではなかろうか。

共同領域の原点は介護・育児分野である。この機能目的は<世代をつなぐ世話>である。これまでほとんど注目されることはなかったが、世代においてはタテとヨコのコミュニケーションが交錯し、さらに性別をすら超えられる。現在、時間と元気のある老人が溢れている一方で、貧富の二極分化が進んでいる。老人たちが自分たちの<世代性>を自覚しつつ、世話を中心にして共同領域に再–参入できないか。老人食堂、見送りの会、認知症カフェ、奥会津のお茶会、等々、個々の取り組みがある中で、それらを世代性によってつなぐことはできないか。

近年の老人観は受動的余生型から能動的充実型へ移行している。後者のアクティブ・エイジングの先駆がボーヴォワールの『老い』である。しかし、アクティブなのはせいぜい80歳代までであり、それ以降は自己放棄型(地域)か完全受動型(施設)しかない。80才代以降の普通の老人にとって老い方=生き方のモデルがない。生きる目標がないところに生きる意欲は生じない。議論は安楽死をめぐる死に方ばかりになる。

死に方の前に老い方がある。老い方とは人生後半の生き方である。老い方を生き方としてたえず問い直す<老成学>の焦点は、同世代と若者世代のために老人世代による互助コミュニティの企てである。このような企ては老人自身だけではなく、老人を見て将来を考える若者にも生きがい(生きる目標と意欲)を与えるに違いない。

 
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