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バイオエシックス ハンドブック:新しい倫理・生命倫理の定義
活動の実績 | 2019.05.17

『バイオエシックス・ハンドブック』
(木村利人監修,法研,2003年12月刊行)

第1章 原則と基礎理論


【倫理の定義】

[はじめに]


 「倫理(エシックス)」は,誰もが漠然と知ってはいるものの,いざ明瞭に言い表そうとすると,なかなかうまくできない観念の一つである。しかし,「生命倫理」や「医療倫理」を論じるかぎり,何らかの定義づけを避けることはできない。そこで暫定的に,《他者との関係を可能にする,欲望と行動に向けられた拘束条件》と捉えておき,この意味するところを解明してみよう。また最後に,倫理を論じることじたいが今日いかに困難であるかという事情にも言及したい。

[倫理の根源]

 ここで「他者」とは,「自分」と異なる何者か,つまり「自分」の思い通りにはコントロールできない何者か(それどころか,逆にこちらをコントロールしかねない別の自分ないし自己)を指す。この他者が複数(多数)いて,接触せざるをえないという事情が,何らかの「関係」の発生を強いる。何故かは不明であるにせよ(この点をここでは追求しない),自分や他者が存在し,さまざまな関係に巻き込まれる。ここに倫理の根源があり,このような不透明な事態の承認なしに倫理は存在しえない。かりに自分だけが存在する世界(例えばナルシストや独裁者の世界)があったとすれば,倫理はそもそも必要ない。
 どのような「関係」が発生しようと,そこには二つの次元が含まれている。一つは<役割>の次元である。そして,役割の背後には,多様な役割を規定・配分する<社会制度>と,役割に不可欠な<知のシステム>(ここには技術も含まれる)が控えている。ここで「自分」は,特定の集団のなかで特定の役割を負う「個人」として立ち現れ,別の個人や,組織,社会との関係に組み込まれる。この意味で「個人」とはさまざまな役割の束である。もう一つは<情感>の次元である。ここで「自分」はかけがえのない「私」として登場し,好き嫌いの情をもって他者と,事情次第ではかけがえのない「あなた」と情感的に交わる。例えば,病人と世話をする人との関係で言えば,これは一面では,家族同士(親と子,夫と妻など)や患者と医療者といった社会制度内での役割の関係であるが,他面では,特定の親密な患者や最愛のあなたと私との情感的で実存的な関係でもある。
 もちろん,これら二つの次元は実際には切り離せない。一切の役割関係を離れた実存の交わりも,逆に,私情のまったく入らない純粋な役割に徹することも,束の間の一瞬を除けば普通はありえない。<役割>と<情感>とは相補的なのである。例えば,夫婦の関係の場合,日常生活のほとんどが役割分担で覆われているとしても,男女の情感的な結びつき,つまり広い意味でのエロスが完全に摩滅してしまえば,もはや夫婦である理由は打算と惰性以外にはない。あるいは,市民や業者と役人との関係の場合,互いにルールに則って事務的に役割をこなすことが求められるが,それでも個々人が対面する以上,好き嫌いを含めた情実はなくならない。
 この両次元を含んだ関係は,必ずしも友好的なものばかりではない。争いや憎み合いといった葛藤・対立(最終的には接触そのものの消滅)でもある。後者の理由は,誰もが「自分」にこだわり,根本的には自分の「生への欲望」に駆られて行為するからであるが,同じことは前者にも当てはまる。とすれば,自他の「欲望と行動」に対して何らかの制約を設定しないかぎり,「友好的な関係」はおろか,「関係の維持」はもとより,「自分の生命の維持」すらできないことになろう。ここに要請される「欲望と行動に向けられた拘束条件」一般が「倫理」である。

[法と道徳]

 この種の拘束条件一般は,<役割>と<情感>の関係に対応させて,広い意味での「法(ロー)」と「道徳(モラル)」に分けることができる。ただし,常識的にはむしろ「法」と「倫理=道徳」という分け方が通用しているし,語義的にもエシックスとモラルとの違いはほとんどないが,ここではあくまで明解さを重視しておきたい。広義の「法」とは,①一定の役割を負う個人(や個的団体)の,②他の個人や集団との関係を左右する行動に向けられる,③制度によって設けられた拘束条件(外的規範)である。これには強制力がともなう。法を大別するなら,伝統社会・集団の慣習と,国家の制定による法律とになる。とくに家族や職業団体では慣習の力が根強く,しばしば法律との間で摩擦が生じる。他方の「道徳」とは,①他者に情感的にかかわる「私」の,②外面的な言動だけでなく,とりわけ欲望・意志に向けられる,③自己関係的に設けられた拘束条件(内的規範)である。ここでは主体的な姿勢・態度が強調され,他者の反応(周囲の人々の評判)が大きな意味をもつ。
 一方の「法」が制度の安定性(秩序)を保つために画一的・限定的・固定的であるの対して,個々の状況・出来事に依存する「道徳」は一回的・発見的・流動的である。ただし,日常の場面では,役割を負う個人の主体的な態度(志気・モラール)がしばしば問われ,むしろ法と道徳が重なり合う。この点を考慮するなら,「道徳」をさらに<法と結合した道徳>と<法と相補的な道徳>に分けることができる。前者の<法と結合した道徳>では,例えば,家族の倫理は家族道徳に,国民の倫理は「国民道徳」になる。そのさい,個人が自ら進んで役割を理想と捉えて一体化するタイプと,逆に,組織・集団の側がその種の一体化・忠誠を個人に強要するタイプとがある。先のタイプがいわば<法を道徳的に受け取ること>とすれば,後のタイプは<道徳を法に取り込むこと>になるが,実際にはこれらを弁別することは難しい。しかし,弁別する視点を不断に持ち続けないと,集団の硬直化や暴走を止めることはできない。そのための拠り所となるのが,<役割>に対する<情感>の視点であり,後者の<法と相補的な道徳>の視点である。
 「法」と「道徳」とを包括する「倫理」の内容は次の3レベルに分けられる。第1のレベルは欲望や行動に向けられた<規則>である。これには多様な水準があるが,例えば「嘘をつかない」「人を殺さない」といった原則は,どの社会でも基本的には同じである。第2のレベルは<規則>の資格条件を定める<規準>である。これによって,なぜ「嘘」や「人殺し」がいけないかの理由が与えられる。この規準の捉え方の違いが倫理の理論の表立った特徴を示す。第3のレベルは<規準>を背後から支える<根拠>である。文化の根幹にある人間観や生命観がその中身である。

[ニヒリズムと倫理]

 一般に,倫理が揺らいでいる時代には,<規則>の前提にある<規準>から<根拠>にまで遡ることによって,あらためて<規準>と<規則>が設定し直される。ところが,現代という時代はたんに倫理が揺らいでいるばかりではなく,はるかに深刻な状況にあるように見える。社会環境の情報化・部品化にともない,他者との関係ばかりか,自分さえもが断片化・瞬間化し,しかもこの傾向は止めどもなく進行している。その結果,いささか極端な物言いをすれば,人々は物事の善し悪しを決めるさい,実質的には個々人の即時的な感覚にしか頼るものがなくなっている。とすれば,倫理を考える拠り所である<根拠>すら揺らいでいることになろう。
 このような事態(ニヒリズムの状況)に直面して,倫理をいかに受けとめたらよいのか。おそらく,考えられる方向は次の4つであろう。1.ニヒリズムを肯定的に受け容れて倫理を論じない。2.ニヒリズムを否定し,倫理の便宜性を承知しつつあえて語り続ける。3.一挙に究極的な支えを求め,そこを拠り所にして倫理を語り降ろす。4.<根拠>の根底へと遡行し,およそ価値が誕生する瞬間もしくは発生する場にたどり着き,そこからあらためて制限付きで倫理を論じる。私見では,最後のやり方でしか倫理について語ることはできない。

[文献]
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(岩波書店,1934),ルーマン『法社会学』(村上・六本訳,岩波書店,1977),中村雄二郎『述語的世界と制度』(岩波書店,1998),ハイデッガー『ニーチェⅡ』(園田訳,白水社,1976)

【倫理の理論】

[はじめに]


 バイオエシックスの基本原則(この標準は自律・無害・善行・正義)には,英米社会の一般倫理や,医療倫理の長い伝統,政治社会の合意への模索など,多様な側面が反映している。倫理学との関連に話を限定するなら,次の4つの古典的な理論との親和性がとくに指摘される。すなわち,カントによって代表される「義務論」と「自律」,ベンサムによって創始された「功利主義」と「無害」,アリストテレスによって古典的に大成された「徳倫理学」と「善行」,ロックによって近代的に確立された「権利論」と「正義」という連関である。もちろん,いずれの理論にも多様な考えが含まれており,上述の連関に収まるものではない。しかし,本書の文脈ではその点に立ち入る必要はないだろう。そこで【倫理の定義】をふまえながら,上述の代表者の考え方に絞り込み,さらに医療倫理の重要なテーマである「嘘」に焦点を合わせることで,それぞれの理論の特徴を浮かび上がらせることにしたい。その上で最後に,倫理学の課題にも言及する。

[四つの理論]


 1.義務の立場(義務論)は,拘束性(必然性)を強調して<規則>を義務の体系と捉える。カントの有名な「定言命法」には義務一般の<規準>が定式化されている。その趣旨は,誰にでも普遍的に成り立つという意味での「普遍性」の観点から規則を吟味し,しかもこの吟味を自ら不断に行うことである。これを遂行する理性的な自己立法の意志こそ最上の善であり,善なる意志を持つ人が<自律の人>である。比較するなら,<合法的な人>であれば,自分の欲望を目的としながら,外的行為に関する義務を表面的に遵守する。<形式主義者>であれば,規則を遵守する理由を「義務だから」と考え,義務を固定的に捉える。しかし<自律の人>は,規則に従うさいにも自分の欲望(幸福)を考慮することなく,規則が普遍的かどうかを自ら不断に検討しながら臨む。ただし,<自律の人>は動機づけの面でたしかに<倫理的>ではあるが,いまだ<道徳的>とは言えない。そうなるためには,自分の欲望(幸福)をたんに考慮しないだけでなく,もっと積極的に「自己の道徳的完成」と「他者の幸福」を自分の目的にする必要がある。このような「同時に義務である目的」をもつ<自律的な有徳の人>が,カントが理想(人類の使命)とする<道徳的人格>である。この可能性・萌芽をどの人間も有しているからこそ,人間は「目的」そのものとされる。

 2.功利の立場(功利主義)では,<規則>あるいは行為が「有用性」の観点から捉えられる。この観点には次の三つの要素が含まれる。すなわち,ウェルフェア主義,帰結主義,加算主義ないしは最大化である。まず,誰もが目標として追求する利益・幸福などが「善」とみなされる。これが広い意味での「ウェルフェア主義」である。ベンサム自身は善の中身を「快と苦痛の感覚」とみなしている(これについては異論が出されている)。次に,利益・幸福などの善を結果としてもたらす行為や手段が正しく,逆に,悪を結果としてもたらす行為や手段が不正とされる。有用(功利的)か否かでもって行為の正・不正を決めるのが「帰結主義」である。ただし,有用性の判断を下すためには,自分・関係者・社会の利害に及ぼす帰結の全体を正確に計算しなければならない。しかも,この計算の前提として「快と苦」が要素単位として確定される必要がある。最後は「加算主義ないしは最大化」である。誰しも快の増加と苦の減少との総計が一定の期間に快に傾くことを願う。しかも,一生の間に最大限の快(最大幸福)になることを切望する。同様の最大化が社会全体(最大多数)でも成り立つように制度を定めるのが,立法家の仕事である。ここで個々人は「一人」として数えられ,これを加算すればそのまま全体になると考えられている。ベンサムの<規準>は「快の増大・苦の減少」もしくは「快の量的最大化」であり,この<根拠>は快楽主義的人間観である。

 3.徳の立場(徳倫理学)は<規則>を立てない。というより,<規準>を「普遍性」や「快の最大化」といった「原理」としては設定しない。<規準>とはむしろ,個々の状況におけるふるまい方の「相応しさ」,つまり,様々な観点から考慮して得られた「程々さ」(過度と不足の中間)のことである。類似した状況でのふるまい方の「相応しさ」は,習慣を通じて身に付けることができる。これが倫理的な人柄としての「徳」である。この背景には,欲望・行動をコントロールする「ロゴス的活動」を,「人間らしさ」とみなす人間観がある。ただし,具体的な個別的状況で決断するには,「徳」に加えてさらに,実践的な賢慮(賢明さ=プロネーシス)を必要とする。アリストテレスの理論では,ポリスという都市国家に属する同等な自由人が想定されているが,このように共通の価値観をもち,仲間同士で賞賛・非難し合う比較的狭い社会でないと,「相応しさ」と「徳」は成り立たないかもしれない。後にアダム・スミスは,近代の市民社会を舞台に徳の立場(同感主義)を打ち出したが,近代のみならず,現代の流動的な大衆社会ではますますこの立場は成り立ち難い。ただし,今日でも専門職集団の内部では十分に成り立ちうる。

 4.権利の立場(権利論)では,<規則>は「権利」,すなわち,個々人の自由な活動のうち,相互に「不可侵」として正当に承認されたものから成り立つ。この意味で「権利」は同時に相互の義務でもある。ロックの場合,権利の前提には欲望する人間の幸福追求活動が想定され,自分の生命・身体とともに自分の労働によって得られた財産が,自己所有(自分のもの)の権利とされる。そのさい,「権利」の力点は,危害の防止あるいは侵害の拒否,とりわけ国家や他者の介入に対する拒否の上にある。それゆえ,他者との間で「危害」あるいは「侵害」が発生しないかぎり,自己責任において活動の自由が認められる。したがって,この立場では「危害」の有無が<規準>であり,「絶対不可侵の独立した個」が<根拠>にあたる。もちろん,他者との争いの可能性を否定できないから,契約を通じて<調整>の役目を担う政治社会が作られる。なお,古典的自由主義(リベラリズム)は「権利の立場」に基づいて成立するが,同じくリベラリズムでも,この古典的形態と,ロールズの平等主義的形態や,リバタリアン(自由至上主義者)的形態とを区別する必要がある。

[嘘への対応]

 医療倫理の伝統では,患者本人に「真実告知」をしないことが長らく推奨されてきた。バイオエシックスの登場で事態は一変しつつあるが,(【生命倫理】の項で述べるように)一筋縄ではいかない事情もある。ここでは医療倫理との接点を考慮し,「嘘」一般をめぐる立場の違いを描いていおく。
 <義務の立場>では,いかなる場合であろうと「嘘」は絶対に許されない。その理由は「普遍性」(みんなが嘘をつくと他者との関係が成り立たない)だけではない。それ以上にむしろ,道徳的人格の理想に照らしたとき,自分に恥ずかしさを覚えるからである。<功利の立場>では,「嘘」がもたらす関係者全員の利害得失が綿密に考慮され,かりに利害が損失を上回るなら「嘘」も正当とされる。ただし,実際には関係者の範囲が広がるほど,世間の常識に近くなる(それゆえ,常識の横暴という事態も生じる)。<徳の立場>では,具体的な状況のなか,考慮すべき論点をすべて検討した上で,関係者全員が「相応しい」と思うかどうかで決まる。最初から原則があるわけではない。<権利の立場>では,不可侵の個の権利が最優先され,本人の意向次第で物事が決まる。そのために正確な情報が必要とされ,「嘘」は許されない。ただし,侵害から自分を守る場合には「嘘」も正当化される。
 以上の4つの立場では<規準>の取り方がまったく異なる。たしかにそれぞれの視点から倫理の多面に光を当てているとも言えるが,相互の隔たりは埋めえないがほど大きい。もとより,<規準>の違いの根源には<根拠>の違いがある。このレベルの考え方の違いが,一方では,医療現場での決断の悩みと葛藤をもたらし,他方では,生命倫理の公共的意思決定の場面で,「人間の尊厳」「人類の福祉」「個人の尊重」「生命の尊重」といった価値理念の対立として露呈する(この結果,倫理ではなく,力関係で物事が決まることになる)。<根拠>の対立はたしかに根本的であり,共約不可能であるかもしれない。しかし,(【倫理の定義】で言及した)ニヒリズムの状況のなかで倫理を論じるためには,<根拠>の根底をさらに問い返すべきである。

[倫理学の課題]

 倫理の<根拠>としての人間観ないし生命観は,たんなる事実認識ではない。その核心はむしろ,人々が目指すべき共通の理想の観点から<倫理的世界の構成員=パーソン>を描いたものである(パーソンについては【生命倫理】の項で詳しく説明する)。それは例えば,カントでは「理性的存在者=道徳的人格」,ベンサムでは「快苦の集合体=善」,アリストテレスでは「ロゴス的活動の実現=最高善」,ロックでは「不可侵の欲望する個=善」になる。倫理的世界とは<パーソン>相互の対称的かつ対等な関係にほかならない。
 翻って,人類史を倫理の視角から巨視的にみるなら,身分や階級,人種や民族,性や障害など,あらゆる面で「対等性」が要求され,これが勝ち取られてきた歴史である言えよう。そのさい,対等であることの理由を提供し,この原則を正当化してきたのが倫理の理論(倫理学)である。例えば,男と女はなぜ「対等」か。この答えを上述の理論をはじめ(古代のアリストテレスは除いて),さまざまな理論が用意してきた。最近では,単純な生物学的事実(DNA)に依拠して,「同じ人類だから」という答え(人類=パーソン)に収斂しつつある。しかし,<パーソン>をめぐるこれまでの理論には,共通して二つの方面の難点が抱え込まれている。その一つは具体的な個別性との切断であり,もう一つは捉え方そのものの偏狭さである。
 最初の難点は,<パーソン>の資格条件が「一般的なもの」として抽象的に把握されるならば,個々人の差異・個別性との結びつきが消えてしまうことである。<パーソン>であることと,例えば男/女であることとの間のつながりがなくなり,<パーソン>にとって男/女であることは不可欠の属性(述語)ではなくなる。しかし,実際の具体的な男/女は一個の「存在の充実」であり,「具体的な普遍」として立ち現れる。また,他者との関係は,<役割>であろうと<情感>であろうと,「非対称的」でしかありえない。それゆえ,「抽象的な一般」相互の対称的関係として倫理的世界を設定するかぎり,具体的な個別者の非対称的関係との接点がなくなり,実際の現場で倫理を論じる足がかりを失うだろう。二番目の難点は,<パーソン>を捉える「資格条件」である「一般的なもの」の偏狭さである。上述の4つの理論では,それぞれ,ある種のカテゴリーの他者が倫理的世界から除外されてしまう。また,(【生命倫理】の項で説明するように)バイオエシックスは,バイオテクノロジーの環境世界に登場した新たな他者を<パーソン>として受け容れない。
 倫理学の課題とはそれゆえ,一方では非対称的な具体性・個別性との接点を回復しつつ,他方では<パーソン>の範囲を拡大することである。しかし,後者の拡大が一層の抽象化となっては,前者の具体化とぶつかり合うことになる。これを回避するためには,資格条件を広げることがそのまま同時に,具体性・個別性との結びつきを保持することになる,そのような回路(理路)が探求されなければならない。

[文献]
カント『道徳の形而上学』,ベンサム『道徳と立法の原理序説』,アリストテレス『ニコマコス倫理学』,ロック『統治論』,マッキー『倫理学』(加藤尚武監訳,晢書房,1990),シンガー『生と死の倫理』(樫則章訳,昭和堂,1998)

【生命倫理】

[はじめに]


患者や被験者が主人公であるという認識は,医療倫理や研究倫理の根本でなければならない。ことに日本社会では,医学・医療の現場や組織実態を観察するかぎり,この認識をどんなに強調しても,強調しすぎるということはない。ただし,この認識は生命倫理のあくまで出発点であっても,終着点ではない。たしかに後戻りのできない地点(グラウンド・ゼロ)ではあるが,後述するように新たな課題を抱え込んでいる。その意味で生命倫理は次の段階へと進まざるをえない。
 この見地に立つなら,「生命倫理」を次の3つのレベルで捉え直すことができるだろう。第1は,ライフサイエンスとバイオテクノロジーによって引き起こされた<問題>としての生命倫理である。これは先進国に共通した問題群であり,ここには「環境倫理」も含まれる。第2は,この種の新たな問題に対する<アプローチ>としての生命倫理である。すべての可能なアプローチのうちで,先駆けとなり出発点となったアプローチこそ,北米で誕生した「バイオエシックス」にほかならない。第3は,バイオエシックス自身がこれから向かうべき方向,つまりバイオエシックスの<理念>である。これを<ライフエシックス>と仮称しておく。

[新たな技術環境と問題]

 1950年代から60年代にかけての北米を中心に,ライフサイエンスを応用したバイオテクノロジーが開発され,これと連動して医療技術分野で一連の技術革新が生じた。そして,ここに出現した新たな技術環境によってさまざまな問題が引き起こされた。例えば,環境汚染・生物の絶滅・資源枯渇の危機感であり,医療現場での臓器移植,人工透析と配分,延命治療の延長上の尊厳死・安楽死をめぐる困惑であり,遺伝子操作・生命操作に対する憂慮などである。同時にまた,医療費の高騰に関連する経済効率も意識され始めた。このような傾向はその後ますます進行し,今日では先進国に共通した<問題>になっている。
 この<問題>のもつ新しさ,つまり従来の枠を超えた意味合いを知るには,<役割>を背後から支える<知のシステム>と<社会制度>に注目し(【倫理の定義】),これを歴史的に眺めてみる必要である。時代を大まかに三段階に区分すると,最初は,伝統的な医術と雑多な医療者集団の時代である。次は,生物医学に基づいた医療・公衆衛生と,近代国家に組み込まれた医療制度・専門家の時代である。そして三番目は,バイオテクノロジーを用いたゲノム情報・再生医学と,バイオ情報産業やこれを後押しする国家戦略の時代である。
 このように捉えるならば,私たちが直面している<問題>とは,この最後の,生命操作が可能な時代に固有のものであり,ここに本質的な新しさがある。なお,技術・市場と三位一体を構成する(健康への)欲望に焦点を合わせると,三つの時代の推移は「養生」から「衛生・予防」をへて「健康増進」への展開に対応する。

[新しいアプローチの登場]


 伝統的な医療倫理(医の倫理)は,バイオテクノロジーによってもたらされた技術環境の変容,とりわけ医療現場の変貌に直面して,明確な答えを出せなかった。問題の水準は明らかに医師の個人的な倫理観を超えており,社会の場での公共的な調整を求めていた。しかし,医療倫理の実態は,科学的な権威が加わったことを除けば,前近代の伝統(例えば「ヒポクラテスの誓い」)から一歩も踏み出していなかった。ところが,社会全体に目を向ければ,北米では60年代,社会の各分野で「対等性」を要求する運動がわき起こっていた。いわゆる文化革命の時代である。医療訴訟の判決もこの動向と呼応し,これを後押していた(インフォームドコンセントの法理)。さらに,医学実験の非人道的な実態も次々に暴露された。このような流れのなかで,医療・医学の分野での対等性を要求した草の根の市民運動が,医師の権威主義と医療の権力構造を標的にしたのも,当然の成り行きだったと言える。
 こうして70年代,従来の医療倫理とは異なる新しいアプローチ,すなわち「バイオエシックス」が誕生する。これは,患者と被験者の「権利」をベースにして権力関係(パターナリズム)を打破し,個人の意向を最優先する方向で,新たな技術環境のなかでの人間的な生死の再設定を目指し,公共的な意思決定を通じて技術・経済・倫理の間の調整を図るものである。それゆえ,バイオエシックスというアプローチの「新しさ」は何よりも,生命操作時代の<問題>に真っ先に正面から応じたところにある。なお,患者・被験者を主人公にして医療と研究の分野で平等主義を貫くことは,巨視的に見るなら,対等性を要求する人類の倫理の流れの最尖端にいることを意味する。
 ただし,実践面での先駆性に比べるなら,理論の面での新しさはほとんどない。例えば,ビーチャムとチルドレスの教科書で謳われた「四原則」(自律・無害・善行・正義)と「さしあたりの義務」にしても,ましてや,自律主義の一面を強調したエンゲルハートの立場ではなおのこと,従来の倫理学の枠組みがそのまま採り入れられ,踏襲されている。

[バイオエシックスの課題]

 患者が主人公であること(医療に限定すれば)を主張する「バイオエシックス」は,すべてのアプローチにとって共通の出発点である。この主張が込められた「インフォームドコンセント」には,患者は権利の主体,この核心をいえば<物が言える他者>として登場する。「人権」を踏まえるということは,もちろん<物が言えない他者>の権利を擁護することでもあるが,この場合でさえ別の<物が言える他者>による代弁・代理を必要とする。そのかぎり,どこまでも<物が言えること>が付いて回る(この点を先鋭化した「パーソン論」については後述する)。
 患者が<物言い(または物語り)>の主人公であることは当然である。しかし,実際の困難な問題はこの先にある。この主人公をどのように遇するのか。患者の意向の実現の仕方と言ってもよい。この遇し方は微妙にして複雑であり,状況次第でさまざまに考えられる。医療という現場,家族,世間・文化,医療費,法律など,これらの総体のなかで患者を主人公としていかに遇するのか,患者の意向をどのように実現するのか。<役割>と<情感>の両次元において主人公であることをいかにして全うするのか。ここがバイオエシックスの課題の発端である。

 この課題に関してまず問われるのは,職業(プロフェッション)倫理との関係である。バイオエシックスでは専門家の位置づけが曖昧である。主人公としての患者に向き合う専門家はいかに振る舞えばよいのか。患者の意向に対峙するさい,専門家に求められる責務と何か。とくに助かる見込みのない状況で患者にいかに向き合えばよいのか。これらの点での曖昧さから,臨床現場と法律との間で(例えば安楽死や脳死移植や生殖医療をめぐって)摩擦がしばしば生じる。また,このような不満を背景にして,バイオエシックスの(法律家好みの)原則主義を批判する「決疑論」の立場,すなわち臨床倫理学的アプローチが登場する。
 このアプローチは,パラダイム(範例)となるケースへの対処の仕方を踏まえ,これと類似のケースに対して,例えば代表的なジョンセンらの本では,「医学的適応」「患者の意向」「生命・生活の質」「社会的背景」という四つのトピックスごとに考慮すべき論点を列挙し,(「原則」ではない)「指針」にたどり着くことを目指す。遠景で眺めるなら,この立場は伝統的な職業倫理を今日的に再構築しようとするものであり,この点に積極的な意義がある。もちろんこのアプローチに対して,医療者の一方的な視点や制度の観点の弱さなどが批判されるとはいえ,それがバイオエシックスの課題の一つを指し示していることも疑いない。
 同様に,家族の意向やその背景にある社会の慣習・文化の取り込みもまた,バイオエシックスの課題の一つである。例えば,臓器の提供・移植や安楽死では,個々人の単独の意向で物事が単純に決まることはなく,そこには家族や文化といった様々な要因が絡んでくる。患者の意向のみならず,専門家の責務・職務や,ここでの要因・背景を考慮しなければ,臨床現場で「目標」が定まらず,主人公である患者の意向が宙に浮いてしまうことになる。そればかりではない。さらに,公共的な意思決定の場においても,「個人の尊重」が「人類の福祉」や「人間の尊重」「生命の尊重」と対立することになり,合意形成の「目標」を定めることができない。その結果,バイオエシックスが実際に果たしているのは,客観的に見れば,「個人の尊重」を強調することで,あるいは「調整」と称して,バイオテクノロジーを次々に追認する役割である。

* バイオエシックスの課題はほかにもある。はるかに根本的であるのは,<他者>の捉え方に潜む一種の「狭さ」の克服である。バイオエシックスが<主人公としての患者>を強調することで,<物が言える他者>を際立たせれば際立たせるほど,倫理的世界から様々な他者がこぼれ落ち,除外され,排除される。<物が言える他者>の背後・外部には,少なくとも次の四つのカテゴリーの他者がいる。
 第1のカテゴリーは<矛盾したことを言う患者>である。どんな患者であれ,強さと脆さとの間で,希望と絶望との間で,気持ちが揺れ動いている。同じ日の朝と夕方で気持ちが変わる。患者になる前と後とで,助かる見込みなしと告げられる前と後とで,同一人物とは信じられないほど変わる。しかも,医療技術の進展によって助かる見込みが拡大すればするほど,助からないと知ったときの振幅はかえって大きくなる。要するに,丸ごとの患者とは自己矛盾の(統一なしの)かたまりである。
 第2のカテゴリーは<物が言えない患者(または他者)>である。この例は,植物状態や昏睡状態,脳死状態の患者であり,障害のある胎児や新生児,あるいは,知的障害や痴呆症の人である。彼らは矛盾すら見せてくれない。
 第3のカテゴリーは<一方的に操作される他者>である。先端医療技術は生命操作の対象となる他者を新たに発見した。例えば,受精卵,ES細胞,臓器・組織などの人体の一部,胎児,実験動物などである(移植の当事者・家族にとって臓器もまた<他者>として経験される)。
 第4のカテゴリーは<自然人類の枠を超えた他者>である。これは,バイオテクノロジーによってすでに作成されたか,今後新たに作成されうるような,かつてならSFに登場した新人類(?)である。例えば,クローン人間,生物=機械人間(サイボーグ人間),異種身体から合成されたハイブリッド人間,異種遺伝子を混ぜ合わせたキマイラ人間,それに精巧な学習機能と応答能力を備えた人形ロボット(ドラえもんは猫型ロボットであるが)である。


* バイオエシックスは,第1の<矛盾したことを言う患者>,つまり,実際の丸ごとの患者にうまく対応できていない。丸ごとの患者に向き合うには,<役割>と「権利」の底を突き抜けて,私に対するあなたとの情感的で実存的な関係に入らなければならない。この<情感>の次元がバイオエシックスには欠落している。同じことは第2の<物が言えない他者>にも当てはまる。たしかにこのカテゴリーに属する他者を守るのは「権利」である。しかし「権利」だけでは,物言わぬ本人や関係者にとって最も相応しい決定を導くことはできない。ここでも<情感>の次元が求められる。
 ここで登場してくるのが「ケアの倫理」というアプローチである。ケア,ケアリング,臨床人間学,癒し,物語(り)など,「ケアの倫理」に結びつく一連の言葉は,最近,各分野で注目されている。ここでは「ケアの倫理」の基盤に目を向け,バイオエシックスとの関係について考えてみたい。

[ケアの倫理] 


 一般に他者との関係には<役割>と<情感>の次元が織り込まれており,そのさい多くの関係ではどちらか一方の次元が表に強く現れ,他方の次元は裏に隠れている(【倫理の定義】)。これに対して,<患者と医療者の関係>では,個々人が対面し,身体が接触し,しかも自分の身体と生命が焦点となるかぎり,<情感>の次元が副次的になることはない。もちろん<役割>も不可欠であるから,両次元が二元的に並び立ち,強弱・表裏という形態にならない。この点で独特の結合形態を見せているが,これに近いのはわずかに教育現場での<生徒と教師の関係>ぐらいであろう。
 さて,<役割>の次元の背後には,役割を規定し配分する<社会制度>の面と,役割の遂行を保証する<知のシステム>の面があり(【生命倫理】),この両面で一定の目に見える成果が求められる。とくに現代の競合的・競争的環境では,時間・空間・人員・コスト・財・リスクなど,あらゆる場面で合理性・効率が要求される。このためには数量分析的な観点と手法(測定主義・客観主義)が避けられない。
 もちろん,同様の圧力は医療にも,最近ではますます強く及んでいる。しかし,両次元の独特の結合形態を見せる医療の現場では,合理主義・効率の動きに反発し,<情感さらに実存>を取り戻す反動も劣らず強烈に生じている。例えば,助かる見込みなしと告知された患者や,遷延性の植物状態の患者への対応をめぐって,彼らとの情感的な,さらに「あなた」との実存的な交流をどうやって確保するのか,という問いが鋭く提起されざるをえない。
 このような動きは,<社会制度>の面では,温かく直接的な関係への関心・希求となって現れている(ここから前近代の人間関係へのノスタルジアも派生する)。それと連動して<知のシステム>の面では,代替医療や全人的医療,あるいは癒しの知やニューサイエンス運動に惹かれ,また,合理主義から排除された「苦しみや死」や,これと結びつく魂の癒しと宗教に関心が寄せられている。そして,機械・部品主義(デカルト・自然科学・統計学)から人間全体への「知のパラダイムチェンジ」が叫ばれることになる。これに<社会制度>の面を加味すれば,要するに「人間」の取り戻し,「人間性」の回復,「人間らしさ」の復権への動きである。
 そこで叫ばれている「人間」はもっぱら<情感>の次元にある。「温かみ」も,「全人的」「癒し」も,どちらも<情感さらには実存>に焦点が合わされている。しかし,人間の全体,丸ごとの患者と医療者は<役割>と<情感>の両次元からなる。とすれば,一方の「温かみ」は<役割>にともなう合理性やバイオエシックスの唱える「患者の権利」とどうやって結びつくのか。同様に,他方の「全人的」「癒し」は生物医学・ゲノム医学・バイオテクノロジーとどのようにつながるのか。知の側面で言えば,総合的な新しい科学が目指されているのか,それとも,互いに補い合う相補的な関係を志向すべきなのか。倫理の側面に絞るなら,「ケアの倫理」は「バイオエシックス」を否定するのか,取り込むのか,補完するのか。これが「ケアの倫理」の側の課題である。

[パーソン論]


 「物語り」には二つのレベルがある。言葉に出して物を言う意味での「物語り」と,言葉は交わせなくても(共通の了解を背景にして)身体全体が物語っているとか,身体の接触を通じて気持ちが伝わるという意味での「物語り」である(ハイデッガー『存在と時間』)。バイオエシックス(の一部の先鋭的な論者)は第2と,第3の<一方的に操作される他者>に関して,前者の<言葉に出して物を言うこと>に軸足をおいた論法を用意した。それが「パーソン論」である。これを批判することで,バイオエシックスの<理念>を浮かび上がらせてみよう。なお,第4の<自然人類の枠を超えた他者>については,バイオエシックスに限らず,どのアプローチでもいまだ対応ができていない。
 ほととんど反射的に「人格」と訳される「パーソン」だが,元来「ペルソナ(仮面)」に由来し,宇宙劇(神楽の一種)における配役・演者を意味した。ローマ法以降,世俗的な集団の倫理的構成員としての資格保有者を指すようになる。哲学用語としては,J. ロックが近代社会の倫理的主体を基礎づけるために,記憶の連続性を基準にその同一性を論じたのが最初とされる。この同一性の基準を「自律」に求めたカントによって「道徳的人格」が強調された。それ以降は「倫理的世界の構成員」の意味合いが薄れ,心理学的な人格や個性(パーソナリティ)を指すようになる。哲学的な人格主義もこの水準にある。今日ではフェミニズムの影響の下で,しばしば政治的な意味合いで用いられる(例えばチェアパーソン)。
 その「パーソン」がふたたび脚光を浴びるのは,中絶論争のなかで「人間の始まり」が争点となって以来のことと言ってよい。そのさい,中絶容認の側から,ヒトという一生物種の構成員としての「ヒューマン」と,人間社会の倫理的構成員としての「パーソン」とを区別する論法が案出された。これを一般に「パーソン論」と呼ぶ。ここでの「パーソン」たる資格基準は,大まかに言えば「理性的で自己意識をもつ存在」に収斂する。この意味でのパーソンが「自己決定」の主体とされた。そして,パーソン論の論法は中絶論争に止まらず,脳死移植から,優生学,安楽死,動物実験に至るまで適用されたが,多方面で激しい反発と論議を巻き起こし,現在に至っている。
 「パーソン論」が依拠する資格基準はどう見ても狭いものである。しかし,これを批判する側の論拠(例えば,人類=人間)も決して広いとは言えない。「パーソン」とは<倫理的世界の構成員>のことである(この点を強調して<パーソン>と表記する。それゆえ,「人格」という訳語には人類主義的な歪みが露呈されているる)。<パーソン>の資格基準の取り方次第で<倫理的世界>は狭くも広くもなる。特定のカテゴリーの<他者>が除外されたり,包含されたりもする。そうだとすれば,バイオエシックスにともなう<他者>の排除という限界を乗り超えるためには,その資格基準を<情感>次元へはもちろん,現存人類を超えて生き物の全体(さらにロボットを含めた生き物の再解釈)にまで拡張する必要があろう。

[理念としてのライフエシックス]

 <物が言える他者>との関係だけでなく,同時に,ここからこぼれ落ちる4つのカテゴリーの他者との関係をも可能にするのは,新たな生命観とこれに基づいた人間学である。この上に<物が言える他者>の責任倫理が再設定されなければならない。ここに生命倫理の三番目の意味,バイオエシックスの<理念>が浮かび上がる。根本的には<パーソン>概念の拡張による他者との関係一般の再構築,この基礎の上に,<役割>の次元では職業倫理の位置づけ,家族や文化の倫理観・生命観の組み込み,臨床の目標や公共的意思決定の目標・方法の設定,また<実感>の次元での「ケアの倫理」との対話−−バイオエシックスはこのような課題との格闘を通じて,生命操作と癒しの時代における包括的な倫理,すなわち<ライフエシックス>に脱皮していくことだろう。

[文献]
ビーチャム・チルドレス『生命医学倫理』(永安・立木監訳,成文堂,1997),エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』(加藤・飯田監訳,東海大学出版会,1989),シンガー『実践の倫理』(山内・塚崎監訳,昭和堂,1991),森下直貴『死の選択』(窓社,1999),ヨナス『責任という倫理』(加藤監訳,東信堂,2000),フォックス『生命倫理をみつめて』(中野訳,みすず,2003)
研究メモ
 上述の問題設定から,看護学の多様な基礎理論を眺めるとき,それらはどのように評価できるのか。例えば,メイヤロフ,レイニンガー,ベナー,ワトソン。あるいは,ギリガン,クーゼ,ノディングズ,物語論など。チェックポイントはこうなる。<情感または実存>次元の基礎がしっかりしているか。知の合理主義との関係はどうか。バイオエシックスの権利や制度の視点との関係はどうか。さらに,ニヒリズムの状況がどこまで自覚されているか。そしてなによりも,個々の臨床ケースを具体的に論じるさいに,どこまでその力を発揮できているのか。以上は12月の集中講義までに勉強しておくこと。

 看護の基礎理論あるいは臨床人間学の前提には,どのような哲学的な基論がおかれているのか。現時点で学びえたところを列挙してみる。
(1)ブーバーの「対話の原理」。あなたにおいて自分を経験する。我と汝,我とそれという二つの根本語。これは病む人とケアをする人との関係の二重性・ハイブリッドに対応しているが,二つのつながりがない。また,神との垂直の関係・対話を背後にもつ。この点がレヴィナスとの関係で問われる。ブーバーでは死の問題がない。主体は導入したが,永遠のみ。
(2)ハイデッガーの「ゾルゲ」(自己への配慮?)。現存在分析。時間性。死に至る存在。到来する今。決断。ケルケゴール。存在論と存在。存在論的区別。ゾルゲ=ケアの根源性・普遍性,これをあらゆる存在の領域に越境させること。広井のケア学の方向とは加藤直克氏。
(3)ヴァイツゼッカー。死の導入がヴァイツゼッカーの特色。ブーバーとの違い。ただし,良き死をめぐる錯綜・韜晦ぶりには,私が主張する<安らぎ>まで到っていないと考えられる。この理由は,永遠回帰の眼差しから来る健康論の不在。しかし,彼が唯一,医学・医療のなかに学問的に人間学を導入している。相補的な立場。他にはいない。
(4)ヨナスの「生命からのストレートな呼びかけ」。幼子の無条件の呼びかけ。この前提は生命の有目的性である。ただし,中村による評価では,身体レベルで存在論を超えようとする意気込みはともかく,ハイデッガーを哲学的に批判したことにはならない(『述語的世界と制度』)。
(5)レヴィナスの「絶対的な受動性」。他者の呼びかけ。顔。痕跡。同一性の批判。このあまりの一方的関係には疑問が多い。松島氏。なお,「顔」を<パーソン>の方向で解釈し,<響き合い>に結びつけることはできないか。
 そのほか,(6)中村雄二郎の「パトスの知」。中岡成文・鷲田清一,野家啓一らの「臨床哲学」。西田幾太郎(中村の西田解釈はコーラ=カオスの方向。木村敏の西田解釈は絶対矛盾の自己同一,場)。日本の仏教。あるいは(7)ドゥルーズの「差異」の哲学。力。中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』。ニーチェ。ただし,ここから展開できるかは大いに疑問あり。

 私の立場は<安らぎ=ウェルビカミング>の哲学。私の考えでは,<情感ないし実存>の根源には<安らぎ>がある。そして,<安らぎ>の根拠は<ウェルビカミング>の生命論である。そして<響き合い>の世界(鈴木亨では「響存」だが)。<安らぎ>は,直接的に<情感>と<道徳>の原点になり,他方では<生活文化>を介して間接的に<役割>と<法(制度)>の原点にもなる。
 なお,<響き合い>と<物語る存在>。これに対して「対話の原理」は<物が言える存在>と結びつく。ヴァイツゼッカーもこの点で問われる。しかし,レヴィナスはクリアー(これは本当か)。<物語り>のとらえ方が問題。物は言えなくても,物語ること(ハイデッガーのロゴス解釈を参照)。<響き合い>を根底において対話を捉え直す。響き合いとは<安らぎ>の響き合い。ハイデッガーの自己への配慮の内に<安らぎ>はあるか。ともかく,ブーバー,ハイデッガー,レヴィナスとの対決が目下の課題である。ブーバーはいずれ再読することにして,まずはハイデッガーから。レヴィナスはその後。
 

 
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