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モデルケースとしての代理懐胎・出産
活動の実績 | 2019.05.16

中部生命倫理研究会(名大、2010.10.23)

生命倫理の基本枠組み―モデルケースとしての代理懐胎・出産

森下 直貴

この発表では、「代理懐胎・出産」(以下ではHMPと略記)をとりあげ、それをめぐる倫理を考察するなかで、生命倫理の基本的枠組みを見定めることにする。ここでHMPに注目するのは、後述するように、それが生命倫理一般のモデルケースになると考えるからである。そのような考えをあえて(不完全ながらも)提出するのは、寄せられた忌憚のないコメントを、ぜひとも来年2月に脱稿予定の論文の中身に反映させたいためである*。発表の流れはこうなる。最初に、この発表の立論の背景について概略を述べる。続いて資料Aと資料Bを追いながら、HMPをめぐる日本社会の議論の行方を確認する。そして最後に、生命倫理の基本枠組みについて断片的ながらいくつかの見通しを提起する。

*丸善企画「生命倫理学シリーズ」の第1巻『生命倫理の基本構図(仮題)』の巻頭論文のこと。ちなみに、「生命倫理」は、人間にとっての基盤的条件である「生命なるもの」が、直接的にはテクノロジーの力によって変容・変質される事態をめぐる種々の選択にかかわる。それらの選択には、医療者/患者、生/死、若さ/老い、健康/病気、健常/障害、女/男、生物/機械、人間/動物、身体/霊魂・心など、種々の分割線が直接・間接に取り巻いている。以上の点や、「規範的なもの」「社会的なもの」「倫理的なもの」「制度的なもの」といった倫理学のキーワードについては、脱稿したばかりの論文(「《融け合い》としての「成熟」―「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ」名古屋哲学研究会『哲学と現代』26号、2010.12)で説明を加えている。その説明の一部を資料Cに再録したので参照していただきたい。

1. なぜHMPが生命倫理のモデルケースになるのか?

上記の問いに答える前段として、まずは生殖医療の位置づけについて言及しておきたい。生殖補助医療(とくにDI=ドナーからの人工授精、体外受精・胚移植、顕微授精ほか)は、終末期医療や臓器移植とならんで、生命倫理(とくに医療倫理)にとって、その初期から一貫して重要な分野であった。その点は現在でも変わらない。とはいえ、若い世代や未来の世代に主としてかかわるためか、終末期・看取りと死生学や脳死・臓器移植に対する(元気な団塊世代)の際立った関心の強さにくらべると、それほど表立ってこないようにみえる。しかし、その種のアンバランスは是正されなければならない。なぜなら、後述するように、人生は一つながりのプロセスであり、それにともなう生命倫理上の問題もまた一つながりであるとすれば、事柄を分割・分断して捉えるべきではないからである。じっさい、死生学における「生」は、残された最期の日々に限定されており、産みや育てから切り離されている。

しかし、そうだとしても、なぜとくにHMPをとりあげるのか。その答えは、生殖補助医療のなかでもHMPがその境界・限界に位置していることに求められる。この限界という特異性のゆえに、他の生殖補助医療では注目されることなく内部に押し込められていた本質的な特徴が、ここHMPでは鋭角的なかたちであからさまに曝け出される*。そしてそのことが、引いてはHMPをして、医療倫理(生命倫理全体)のモデルケースへと押し上げるのである(じつは脳死・臓器移植でも事柄は同様ではあるが、種々の複雑な事情があるためにかえって見えにくくなっている)。

*最近の例では野田聖子衆議院議員のケースがある(第三者の卵子提供、パートナーの精子、高齢出産、渡米、数百万円、不妊治療の連続、里子・養子断られる、生殖医療法のない現状を訴えている)。それは、視点を換えて卵子提供者の側からみれば「代理懐胎・出産」にほかならない。ちなみに、代理懐胎を問い直す会の代表・柳原良江によれば、「そもそも野田はこの間ずっと法案成立を阻止してきたくせに、自分だけ不法行為を働いたのであり、とうてい許せるものではない」ということになる(同会ウェブサイト)。おゝ、北京で一緒にフウトンを覗いた柳原よ!

それでは、そこで曝け出される本質的な特徴とは何であるか。それは、身体的に直接かかわる第三者の存在であり、なかんずく「代理母」という生身の丸ごとの他者の介在である。この種の第三者が存在することは、もちろん配偶子の提供一般でも同様ではある。しかしHMPほど鮮明にされてこなかったことも事実である。そしてもう一人、忘れてはならない第三者がいる。ある時期までは不在であった主役、すなわち「生まれてくる子ども=生まれた子ども」である。もとよりそのほか、依頼者・懐胎者双方のパートナーや子ども、祖母や兄弟姉妹もまた、間接的にその第三者の位置を占めている。

それにしても、そのような第三者の存在がどうしてそれほどまでに重要なのか。その答えは、これまでの医療倫理が拠ってたつ前提に眼をむけるとき判然とする。その前提とは「二者関係」という枠組みにほかならない。伝統的アプローチであろうと、バイオエシックスのアプローチだろうと、その枠組みは基本的に変わらない。自己決定する個人(患者)、その個人を包み込んだ家族、そして個人や家族と向き合う医療者たち。そこではいつも同じような風景が映し出されている。すなわち、登場人物はさまざまであれ、特別な二者関係とその寄せ集めとしての三項関係である。しかし、HMPはそのような風景を決定的に断固として変えている。《身体的に直接かかわる第三者》を(多次元的に)織り込んだ三者関係(あるいは四者関係)という枠組みへ。いや、生殖医療の場面だけでない。略して《身近な第三者》からなる三者関係の枠組みは、終末期医療、看取り、臓器移植など、医療倫理のいかなるの場面でも、実際にこれまで基礎にあったし、また今後もあり続けるにちがいない。そればかりか、今日から未来にいたる世界での人々のつながり方・結びつき方にとっても、それは常態になると予想できる。HMPは事柄としてすでに「家族」の多様なかたちを具体的に先取し予告しているのである。


*以上については二つの論文、「未来の家族のかたち」ならびに「家族の変容から見た代理出産と終末期医療」を参照されたい。なお、例えば、ジョンセンの臨床倫理学の四つのトポスを想起せよ。そこには家族の位置がない。日本版を作成した白浜も痛感してはいた。しかし、問題はその先である。「家族」の場所の欠如より、「身近な第三者」の場所の欠如のほうが事柄としては本質的である。

いや、かりに以上のとおりだとしても、「HMPは生命倫理のモデルケースである」とするには、理論上の決定打にいまだ欠けている。さらに強力な支えはあるのか。ある。それは、生命倫理の公共的選択(あるいは社会的意思決定)、具体的には生殖医療法の可能性に眼を向け、HMPが社会的に容認される条件を探るとき、それはおのずから見えてくる。つまり、HMPのもつ本質的特徴(身近な他者性)が、じつは、生命倫理一般の可能性の深層条件に具体的かたちを与えるということである。その事情はこうなる。

物事・人事・世の中に「絶対」はない。生命倫理においても中間コースの選択は避け難い。条件をどれだけ重く付けるか、あるいはどれだけ緩やかにもつか、そこに関心を集中すべきである。しかしそのさい、表面的な諸条件の設定にとどまらず、むしろそれらを支えるような深層の根本条件を探るほうが、より重要である。個々の表層的条件を背後から照射するような光源=可能性の根本条件とは何か。それは(「神」ではなく)、《最小限の目標の共有》であり、さらに《〈最低限の目標〉を共有する協同作業という物語の共有》である。

ここで決定的な点は、HMPをめぐる反対・賛成の論拠・コメントのうちに、とくに三つの観点に同等の重みを与える方向のうちに、そのような根本条件の具体例=モデルが、おぼろげに浮かんでいることである。境界・限界に立つことから反対が強い(それでも賛成も多い)こと、反対の論拠が明確に出されていること、議論がオープンになっていること、そして臓器移植を教訓にしていることが、HMPの強みになっている。とはいえ、そこにはいまだ明確な構想が欠けている。それを概念的に規定するのは哲学者の仕事である。試みに言葉を与えてみるなら、《産みと育ての協同作業という物語を共有する身近な他者》になる。このような身近な他者という視点は、生命倫理の他の場面にも適応できるばかりか、さらに一般的に未来社会のつながり方をも予告する。

2. HMPをめぐる法的規制の動向:資料のAとB

3. 体系的な考察の断片

(1)生命倫理に関する種々の選択を公共的に決めるための作法

絶対反対・全面禁止と全面賛成・自由という両極端に止まるのではなく、条件付き容認という中間の道を探ること。条件を厳しくとれば規制の方へ、条件をゆるやかにとれば容認の方へ。人間の事柄に関して絶対ということはない。殺人すら例外が存在する。絶対という原理主義ではものごとを公共的に決めることはできない。とすれば、どのような条件を設定するかが一番肝要な論点になる。考察全体の最終的な目標は生命倫理法である。

HMPでは、代理懐胎者という他人に関していくつかの問題点で絡まり合っている他者を道具にしている、リスクを押しつけている、遺伝子が異なることで発生異常のリスクが高まる、母性の未発達にともなる子どもの成育の困難がある、など。しかし、リスクを強調すればするほど、一般に子どもを出産することじたいをやめなければならないことになろう。また、発生異常の高確率や母性云々については、すでに行われた出産例で検証できるはずである。道具になるかどうかは意向や条件次第であろう。他方、子どもの福祉という論点に関して、これを完璧に求めるなら、一般の子どもの状態(虐待に到らずとも、劣悪な環境)を問題にすべきである。そしてここでも子ども持つことじたいを止めることになるだろう。要するに、HMPに対して通常・一般の懐胎・出産より過度に厳しい条件が課されていることが見えてくる。何故そうなるか。否定的な予断があるからだ。必要とされる条件にすべて同等の重みを与えるなら、共有される目標が必要になる。

(2)設定される諸条件を根底で支えるもの

倫理の場では四つの価値規準が働いている。これは倫理学において理論的に煮詰まってきた立場であり、それなりに理由がある。どれかが間違っているということはなく、一面ではそれぞれ正しい。とすれば、そこからどのような合意点・収斂点が考えられるか。四つの倫理規準を平面においたとすれば、その平面に対して次の四つのメタ的方向、つまりメタ規準が考えられる。

相対主義の方向、最大公約数(あるいは最小公倍数)の方向(同一平面上での重なりの発見)、最大限目標の方向(内容的統一=絶対者の立場)、最小限目標の方向(特定の関係者の物語の共有の重なり合い)。

そのなかで私は最後の方向で考えを進める。その中身は、後述するような、ものの存在論、根本規準、共有目標=物語という視点。その視点から、四つの規準=倫理フレームを内部から分割する線・壁を流動化し、融け合わせること。ただし、後述するように、最新の成熟論文では、最小限の目標・根本規準・ものの存在論との関連づけが、いまだあいまいであった。今回、最小限の目標を《情的やりとり》に結びつけ、さらに物語の拡張版に結びつけることで、はじめて具体的に捉えることができた。こうして倫理規準の平面に立ち戻ることができた次第である。

(3)身体的に直接にかかわる(身近な)第三者という観点

二者関係の特権化は、従来の生命倫理、伝統的な医療倫理の限界といえる。患者・被験者の特権化。というより、むしろ患者・被験者の意思=意図の特権化。患者中心。しかし視点を変えれば、それは「二者関係」の特権化を意味する。患者と医療者の関係倫理。従来は医療者と家族の関係倫理。その変形。他方で患者と家族の関係倫理もある。関連して、ブーバー的視点、ロールズ的視点、個人の自己決定の視点、それに核家族(+血縁+性別分業)という強固な視点。ともあれ、その実態は、患者と医療者であれ、家族と医療者であれ、はたまた患者と家族であれ、医療の場は「三者関係」といいながら、じつは「二者関係」のたんなる寄り合い・組み合わせではないか。三つの二者関係の寄せ集め・集積・混在。

しかし、身近な(場合によっては顔の見える)他人(ドナー、介護する人、暮らしの仲間ほか)を組み込んだ三者(ないしは四者)関係に視点を移すとき、二者関係とはその標準の枠組みを縮小したケース(患者の自己決定の特権化はさらに極限ケース)であることが見えてくる。あるいは、「家族」(いわゆる核家族)じたいが、身体的に直接かかわり合う他者との関係の縮小・極限ケースにほかならない。それは(未来世界では)家族の多様なかたちの一つにすぎない。

通常、臨床における二者関係から、エンハンスメントへの拡張であれ、介護への移行であれ、公衆衛生への拡大であれ、一挙に一般的他者の公共的場面に飛んでいく。二者関係から全体社会へ。あるいは、二者関係か全体社会か、ケアかルールか。そこには、顔の見える身近な他者、暮らしのなかの他者が欠落している。しかし、そのような他者こそが、「家族」と並んで、患者の生命のプロセスに深く関与し、物語を共有する。というより、家族とは、今後はそのような他者のうちでもとくに濃密なつながりを有する範囲を指すと捉えることができる。「核家族」という囚われ・壁からの脱却へ。多様な家族のかたちがあることの承認へ。

身近な他者とは、各種のドナーであり、介護者であり、暮らしの仲間である。産み、育て、活動、助け合い、看取り、死という人生、ともに支え合う仲間たちという視点。無数のものたちの働き合い・関わり合いという前提から、《〈もの〉同士の情的なやりとり》が導き出され、それが多様な場面に具体化される。同一の構造が多様な平面に写像される。看取りをめぐる協同の営み(「宅老所」=自宅=アットホームを中心にした地域の支え合い)があるように、産み・育てにも協同の営みがあってよい。そしてこの営みを前提にしてはじめて、HMPを許容する個々の表層的な条件が設定されるだろう。

要するに、目標と物語を共有する仲間としての濃淡さまざまな他者からなる「三者関係」という枠組みが、特定の制度への囚われを取り去ってみれば、医療倫理のベースであったし、今後ともベースであり続けるだろう。この視点から、地域での終末期や看取りの場面はもちろん、産みと育ての場面から、臓器移植の場面にいたるまでを捉えてみたら、医療倫理の風景は確実に変わる。それは、いうなればブーバー的でもロールズ的でもないような風景である。

(4)生命倫理の各場面をつらぬく全体的・横断的観点

人生のプロセスは一つながり。分断されていない。同様に、それに対応する生命倫理もまた一つながりである。生殖補助医療と臓器移植医療と終末期医療、あるいは、産み・育て、健康・病気、老い・死。これらを一連の事柄として全体的に視野に収め、横断的に捉える必要がある。例えば、移植医療に賛成するなら、代理懐胎に反対する理由はないだろう。事柄が基本的に同じだからである。もし対応が両者の場合異なるとすれば、なぜ異なるのかを明示する必要がある。また、一連のプロセスを分断してはならないだろう。看取りにおいて関係者のあいだで「物語」が共有されるべきなら、生殖医療でも同様に物語の共有が求められるだろう。

4. 最小限の目標と物語の共有について

(1)最小限の目標の共有

ここで「目標」とは、特定の場面に相応しい「意味」のことである。その「意味」をめぐってストーリー(お話)に仕上げると「物語」になる。したがって、その種の「意味」を共有できるかどうか、つまり「最小限の共有目標」を設定できるかどうかは、「倫理の場」における選択=分割にとって決定的である。

また、「共有目標=意味=分割」を核心とする「物語」は、自己探しの文脈や、患者のナラティブの文脈に限定されてはならない。国民国家の文脈に限定されてならないのは言うまでもないが、ナラティブを患者だけのものにしてはならない。三者群(患者、医療者、身近な第三者)が共有すること。おそらく、その種の無数の物語の重なり合いのうえに、国民レベルの「物語」、つまり、基本方針・政策(例えば生命倫理法)という物語が位置づくだろう。ちなみに、成熟論文では自己探しの文脈でのみ「物語」を考えていたが、これは拡大する必要がある。

例えば、柳原和子の場合。がん再発の告知の場面で、彼女は自分の病巣画像を見ることを拒絶し、「優しさに包まれたい」と願った。しかし、医師たちはみな(あの近藤医師も含めて)、「現代の医学では治らない以上、その恐怖に一人で立ち向かうべきだ」と言った(近藤は「最期まで矜持=プライドを捨てないで欲しい」とも言った)。彼女の真意を理解できなかったのだ。

患者が主体として賢くふるまうことは、ここでいう「物語」の一部ではあっても、すべてではない。病気と最期まで積極的に向き合うこと、そのような願いを受け止めて温かく支えてくれること、いつまでも同行してくれること(これはヴァイツゼッカーだ)。そういう意味=物語の共有を理解してもらえなかったため、彼女は必要以上に悩み、苦しみことになったのだ。「嘘でもいいから治るといってほしかった」という発言はそういう意味なのだ。もちろん、甘えているとか、医師はそこまで関わることはできないという批判もあろう。しかし、ここで問題にしているのは姿勢なのだ。

なお、柳原の話を私はこれまで「理解不可能性」の文脈で解釈してきた。今回ビデオを見直して、理解不可能性・ギャップのうえで少しでも歩み寄るための手がかりを発見した。従来の解釈は中途半端であったということになる。医師の側からの一方的な物語。患者のために、患者の「自己決定」のために、画像を含めてすべての関連情報の提供。しかし、その物語は患者の物語とは重なっていなかった。「パターナリズム」とは別種の「自己決定権」という押しつけである。

(2)産みと育ての協同作業

この協同作業は最小限の社会(コミュニケーション)システムといえる。一方に、子どもを願う人、そのパートナー、家族。他方に、いろいろな種類の提供者、その家族。そしてその仲立ちをする医療関係者。これら三者群が、一人の子どもの産育という同じ風景を見ること。産みの前から育ての後まで、三者が濃密に関わり合うこと、関わり合うなかで一体感をもつこと。いや、生まれてくる子どもが主人公である。この子の最善を考慮し、誕生から成長するまで見守り続けること。家族ぐるみの付き合いように。「生まれてくる子」の大事に育てるという意味=物語の共有(生まれた子自身もその物語を共有するようになる)。

(3)モデルの一般化

HMPの場面で成り立つことをモデルにして、生殖補助医療のほかの場面にも適用する。精子提供=AIDや卵子提供、体外受精・胚移植、代理出産、顕微授精。協力関係を原点にして、実際をできるかぎりそこに近づけようとする努力。さらに、産みと育てを延長するなら、産みと育て、生活・役割・つながり、老いと看取りまでのプロセスの全体を考えてみることができる。いわゆる生老病死。生命というベースで捉えた人生。親しい人に迎えられ、さまざまな人々やものたちと関わり、親しい人に見送られる。そこに医療が絡んでくると関係は複雑になり、三者の関係が主流になる。患者と医療者と顔の見える(あるいは生命の受け渡しをする)直接の第三者。ここにはいわゆる家族だけではなく、ドナーとなる他人をも含まれる。さらには、介護や看取りの場面では、親身になって世話をしてくれる他者も。生殖、出産、傷病(臓器移植・難病)、老人介護、看取り。

(4)抽象的一面化

「生まれる子を大事に育てる」「大切な人を丁寧に看取り見送る」「生命を受け継ぎ・受け渡す」という物語を共有する協同作業のシステム(作動体)は、市場的、合理的=効率的ではない。それらは、協同作業を一面的に抽象化したものである。あるいは、本人・患者の権利の主張であろうと、家族の視点の強調、ドナーの視点の強調、さらには、プロセスの前半には見えない主人公、生まれてくる子どもの視点の強調であろうと、協同作業チームの一面を無理やり取り出したものである。医療者の視点も同様である。医療者のあいだの視点の違いもある。しかし、共同作業チームを支え合う異なる立場・視点に対して、同等の重みを与えてしかるべきである。

 

(5)物語の拡大と共有

関係者が、そのような想像上の協同作業のメンバーであるという意識=構成素をもてるかどうか、そういう物語をもてるかどうかに、すべては懸かっている。少なくとも理念的には。臓器移植でも同様。信頼は同じ物語を共有してはじめて形成されるだろう。それは自らをふりかえる規準点になる。

それがないと、被害者/加害者の分断が生じる。強者/弱者の分断。匿名制という壁。血縁で性別役割分業付きの核家族という標準モデル。このモデルを固定して発動すると、「物語」の協同作業が断ち切られてしまう。家族すなわち親密な関係の多様な形の一元化。生殖補助医療を利用して子どもをもつことを隠すような社会。

従来の倫理学の理論はその種の目標の設定に失敗してきた。あるいは少なくとも、時代の変容に即応しない物語を紡いできたといえる。国家・特定の家族、普遍(理性、人権、平等)、個人・個性・幸福、弱者・支え合い・自然。それらはさまざまに固定した分割線によって取り巻かれている。とくに日本で一番人気は弱さ・共生思想であるが、これは弱者/強者というイデオロギー=分割線から抜けきれていない。「薄い私」たちの世界に相応しい物語を設定しなければならない。そのためには物語を《非-物語》にする三つの根本条件が必要になる。


(6)三つの根本規準、《もの》の存在論

一定の目標を共有する協同作業という物語の共有。この背後で働いているのは、《情的やりとり》である。《無数のものたちの働き合い・かかわり合い》という一般的・抽象的水準の「物語」を、人間の視点から受けとめ直すとき、《情的やりとり》という物語になる。この物語が具体的なすべての物語の原形である。例えば、《情的やりとり》を生命系・生態系の場面に映すと、《生命(いのち)の受け継ぎ・受け渡し》という「物語」が生まれる。

それは、たんなるアニミズムでも、伝統的宗教の考えでもない。ただし、それらを全く排除することは必要ないだろう。哲学的に納得できる説明を与えること。すべての伝統的語法を包み込むような共通語、共通の枠組みである。

医療倫理をこえて、動物実験でも、捕鯨問題でも、「生命の犠牲の連鎖(死の連帯性という視点)」という物語が必要。生の受け渡し、交代、順番。薄れていく、また際立ってくるという物語。ただし、そこにはロボットはいない。排除されている。そこでロボットを入れてみると、《機械体と生体とのやりとり》という物語になるだろう。この物語を新たに創出し、共有する必要がある*。

*『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、義体、電脳とともに、ゴースト(=霊魂=こころらしい)が登場。ゴーストがあるから個性がある? 情報の海で生まれた疑似生命体(人形遣い=文楽)。コピーではなく、融合・合体による多様性をもった増殖を希望。草彅素子と融合。ウェッブの広大なネットに広がる。サイボーグの果てに個性の喪失? 機械体がこころをもつようになるのか。サイボーグを中間において生物と機械とが交錯する。

5. 私の研究の回顧

四半世紀前に生命倫理の研究に携わって以来、徐々にではあるが、ある一つのことが気になり、いつもそのことを追い求め、それをなんとか把握しようと悪銭苦闘してきたように想う。というより、そもそも大学に入って思想に憧れ、倫理学を志して以来、というべきか。「そこからそこへ」。すなわち、規範的なものの拠り所、自分の選択・判断・分割の根拠である。倫理一般だけではなく、生命倫理(とくに医療倫理)でも同様である。

まず、①『死の選択』(1999年)では、「関係者が懐く後悔の気持ちを少しでも和らげること」という目標=見方を提出した。これが出発点となった。ただし、そこには消極的な姿勢が反映している。続いて、②『健康への欲望と<安らぎ>』(2003年)。拠り所を生命的なものに限定して、それをより積極的に捉えようとした。前年の日本学術会議のシンポ「生命」では以上の二つの観点を結びつけた。また、臓器移植の場面では、2003年以来「安らかな死と安らかな生をいかにつなぐか」という、多少ともより積極的な表現を用いているが、同じ趣旨である。さらに、③2007年の日本哲学会の「終末期医療」シンポでは、一つの最小限の社会的関係という場を設定し、事柄としてはより明瞭に捉えようとした。しかし、そこでは「家族」がいまだ固定して捉えられていた。そこから飛躍する転機は、ここ数年継続している④死生観や、家族観、昭和思想、とくに若者世代に関する一連の考察である。最新の論文「《融け合い》としての「成熟」―「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ」のなかで、自分なりの拠り所をようやく体系的に把握することができた。とはいうものの、最小限の目標・根本規準・ものの存在論のあいだの関係把握はいまだあいまいさであった。そして、⑤今回のHMPをめぐる考察をとおして、最小限の目標の共有に関して具体的イメージを持つことができた。



●関連拙著(一部)

・『死の選択―いのちの現場から考える』窓社、1999.11.

・生命と倫理のあいだ、
  第12回日本学術会議哲学系公開シンポジウム(生命について)、2002.12

・『健康への欲望と<安らぎ>―ウェルビカミングの哲学』青木書店、2003.9

・ポスト「脳死」時代の臓器移植―〈安らかな死〉と〈安らかな生〉とをいかにつなぐか、

  『図書新聞』書評、2004.11

・終末期における「臨床的真実」、哲学58:97-114、2007.4

・<無形のものたち>のリアリティ、『死生学研究』特集号「東アジアの死生学へ」2009.3

・西田・三木・戸坂の思想と<ものの思考>―「経験と制度」の歴史哲学への視座、

  津田雅夫編『<昭和思想>新論―二十世紀日本思想史の試み』第二章、文理閣、2009.7.

・「家族」の未来のかたち、古茂田宏ほか編『哲学から未来を開く1』青木書店、2009.12.

・「家族の変容」から見た代理出産と終末期医療の未来、『浜松医大紀要』24号、2010.3. 
・《融け合い》としての「成熟」―「若者世代」論から《規範的なもの》の考察へ、

  名古屋哲学研究会『哲学と現代』26号、2010.12予定  

資料C

♦規範的なものほか

 (2)ここで本論考の前提にある基本概念について最小限の説明を加えておきたい。[1] 《行為》はものごとを選択し分割する動きである。分割の本質は「正常/異常」の区別である。世界は「天/地」、「男/女」、「食べられる/食べられない」、「生/死」、「成人/未成年」のように、分割・区別(「/」)から成り立つ。すべての世界分割を総称したものが《規範的なもの》である。[2] 分割の基本は二項対立であり、そこに《意味》が生じる。行為は《分割=意味》の世界のなかで《分割=意味》を産出する。[3] 《社会的なもの》とは、多様な「分割=意味」を「交換・分配するネットワーク」のことである。個々の行為の連結をつうじて、分割=意味が受け継がれ、受け渡されるというくり返しのなかから、《規範的なもの》が立ち現われる。《社会的なもの》と《規範的なもの》とは相互に支え合っている。[4]《規範的なもの》のうちで、社会的にみて重要・重大であり、緊張・対立を引き起こすような選択=分割が、《倫理的なもの》である。「仲間/敵」、「殺してはならない/殺してもよい」がこの例である。《倫理的なもの》には「正/不正」および「善/悪」という標識がつく。[5]《倫理的なもの》が、集団全体に関わるかぎりで具体的に設定されるとき(in+ stituere = set up ; establish)、そこに《制度的なもの》が成立する。「婚姻関係を結べる/結べない」「自分のもの/他人のもの」がこの例である。《制度的なもの》の設定とともに、「文化/自然」の分割ならびに「社会/社会以前」の分割も同時に成立する。さらに、国家が成立するとき、「文明/自然」の分割も成立する。


♦ものの存在論

(一)すべての出発点は《動き》である。作動といってもよい。ある動きに別の動きが続き、さらに別の動きが続くというように、動きが後続的=偶発的にくり返されて循環するなかで、一連の動きの回路が立ち現われる(*30)。

(二)動きは《構成素》を伝達する。あるいは、動きそのものが構成素である。動きをつうじてある構成素が伝達され、これが偶発的に後続する動きに受け渡される、というくり返しのなかで、構成素の同一性が産出される。同一の構成素が動きの回路を循環するかぎり、そこに外(環境)に対する内(自己)が生じる。同一の構成素は内/外を分割する規準であり、これによって動きの回路の同一性が支えられる(*31)。

(三)規準としての同一の構成素は二項分割(対)である。したがって、動きの回路は《意味》の回路であり、「情報」の回路である。あるいは、意味が分割=規準であるかぎり、《規範的なもの》の回路である。個々の意味の回路は、後続的につながり合い、さらにそのつながり合いが波紋のように広がることで、意味(情報・規範)のネットワーク世界が形成される(*32)。

(四)同一の構成素(意味)の回路は《形》である。動きは形になる。情報(information)はもとより形である。形には《構造》(見えない形)と《形態》(見える形)がある。構造は同一の構成素の結合様式であるが、初めにあるのは構造ではなく、意味を受け継ぎ受け渡す動きである。構造に基づいてよりミクロな見える形(物)が意味的に結合され、特定のマクロな形態が構成される。結合様式の違いが形態の違いをもたらす。

(五)多種多様な見える形(空間)すなわち形態が、《もの》である。ものは多様な形として顕在化し、ふたたび個々の動きへと希薄化し、またその循環をくり返す。見えない形すなわち同一の構造に則って結合された多様な形態は、すべて《バーチャル》な形であり、相互に転換・変形・変態が可能である(*33)。

(六)一定の生物的形態(身体、人類)としての人間は、それじたい意味(分割)に満ちている世界を、さらにコントラストを強調する方向(=感覚)で「近似的」に受けとる。したがって、《もの》はすべて人間にとってフィクショナルである。しかし、それ以外のやりかたでは経験できないかぎり、リアルでもある。しかも、もの=見える形(像=イマージュ)は、知覚でも想起でも想像(幻想)でも同じ形であり、実在の対応の有無やデフォルメの違いを除けば、同じリアリティをもつ(*34)。

(七)動きがあり、そこに形が生じるとき、《もの》がある。ものの世界のなかで人間はものの一つとして相互にあるいは他の多様なものと出会う。その出会いは、人間的な受けとめ方(感覚=分割)とやりとり(《社会的なもの》)に基づくかぎり、《情(こころ)》的である。最初に立ち現われるのは、霊/肉の分割ではなく、動き=形=もの=情である。人間にとって無数のものたちは、最初から情的に関わり合っている(*35)



♦根本規準

 第5節で描いた《もの》の世界観を踏まえるとき、人間の《社会的なもの》の基底で動いているのは、無数の《もの》たちとの《情的やりとり》である。この《情的やりとり》は、好意(場合によっては悪意)の産出作動のくり返しであって、そこで産出作動を駆動しているのは「好意へのお返し」である。筆者の考えでは、これこそは「正義」の根源的な感覚にほかならない(それはプラトン『国家』の冒頭にすら登場する)。この種の原感覚から次の三つの根本規準が引き出されてくる。

第一の根本規準は、(お返しをできない)場合の未済性=感謝の情、すなわち《済まなさ》の感覚である。ものたちとの情的やりとりとは、無数の他のものたちが働き合っているおかげで《もの=自己》があるということであり、したがってそこには、先のものを後のものが踏み台にして引き継いでいくという犠牲の連鎖が含まれている。そのかぎり、犠牲に対する済まなさ=感謝の情(こころ)、償いえないという思いが不可避的に生じてくる。なお、第二の根本規準は、個々の《もの》の「同一性」を保持しようとする回復の動きにともなう《安らぎ》であるが、これは別の著作で主題的に論じているので、ここでは触れないことにする(*45)。

そして第三の根本規準が、本論考で焦点となっている《融け合い》である。情的に関わり合うものたちは、同等のリアリティを有しているかぎり、情的なもの同士として、すなわち好意・悪意の意図をもつ「人=もの」として向かい合う。ここには固定した分割線(人間/動物)は存在していない。生者/死者でも同様である。既述のとおり、《融け合い》とは、《規範的なもの》に織り込まれている多種多様な分割線・境界線が、相対化され、流動化し、ずらされ、薄れゆくという感覚を、肯定的に受けとめて、ゆるやかな引き直しを保持する自己言及的な視点である。従来、混淆・混合・融合・雑種等は、たんなる混ざり合いとして否定的に捉えられてきたが、これを反転させて積極的に捉え返すとき、この視点が開示される。前節までのところでは明示しなかったが、《融け合い》は《情的やりとり》から由来するのである。

 
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