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テクノ・サイエンスエシックスの一般理論序説
活動の実績 | 2019.05.16

科研費研究会最終会議(下呂、2014/03/20-21)

テクノ・サイエンスエシックスの一般理論序説

An Introduction to the General Theory of Techno-Science Ethics

先端科学技術の「倫理」の総合的枠組みとは何か?

                    森下直貴

1. 倫理(エシックス)

1.1 社会システムの構造の再帰的構造化

 「倫理」をめぐる観念や思想は、語源の解釈に基づきつつ、多様な内容を含みながら多岐に分かれている。すなわち、倫理は一方では人の生き方(人生の意味)に関係し、人柄・人格の善さや、卓越性であったりするが、他方では、世の慣し・慣習、道徳(モラル)や、規範や義務であるが、さらには善/悪の価値基準や、秩序の安定化機能とみなされている。

 それらのうちでも「道徳」という観念は、近代社会への移行期に宗教に代わる主役として登場し、今日にいたるまで倫理の中心を占めている。この道徳的コミュニケーション(人物評)では、コミュニケーションの帰属先である「人格(人物)」が、善/悪(尊敬/軽蔑)という区分に準拠して評価されることによって、個々の人間を社会の内部に包摂する機能を果たしている。

 しかし、倫理の「全体」という点でいえば、「人格」にすべてを還元する道徳は一面的であり、機能分化した現代社会の複雑性に対応することはできない。この点は道徳以外の他の観念にも同様にあてはまる。とすれば、倫理の全体を把握できる捉え方とは何か。その答えは「社会システムの構造の再帰的な構造化」に求められる。この意味での倫理を<倫理>と表記しておく。ただし、この定義における「システム」や「構造」の詳細な説明は別紙に譲ることとし、ここでは以下の概略を示すだけに止める。→付録

 ここで「社会システム」とは、社会的コミュニケーション、すなわち、人間システム同士のあいだで、システム(自己)/環境(外部)という区分(意味)を不断に産出しつづけるコミュニケーション(意味接続)の作動を意味する。この作動は、①瞬間瞬間の意味接続の作動、②この作動の回路を継続させる条件としての構造作動、そして③この構造をさらに再帰的に調整する構造作動、といった三階(オ−ダー)の作動からなる。この最後の、システム全体の構造的な作動である再帰的な構造化(つまり再構造化)が、ここで<倫理>と名づけられる。したがって<倫理>はあくまで作動である。このような再構造化の作動をつうじて新たな別の構造が創出されることがある(変種形成=進化)。ただし、その場合に生じた新たな構造は以前の構造によって限定されることになる(選択コースの来歴性)。

1.2 再構造化(再帰的構造化)の四水準

 社会システムの構造の再帰的構造化としての<倫理>が関わる「構造」には、社会システムの違いに応じて四つの水準(レベル)がある。すなわち、人間システムの構造、対面的コミュニケーションの構造、組織の構造、全体社会内で相互影響する構造連関である。

1.2.1 人間システムの構造

 人間システムとは個々の「私」たちのことであり、生命システムと身心システムと意識システムから構成される。このうち言語的区分によって意味を接続する意識システムは、社会的コミュニケーションや自然環境からたえず多様な刺激を受けつつ、これらを変換して自己変容する。この変容を一貫して支えるのが性格・習慣・格率・思想などの「構造」である。したがって、構造の再帰的構造化とは、ここでは「自己の生き方」の模索ということになる。なお、社会的コミュニケーションと人間システム(とくに意識)とは構造的にカップリングする。

 人間システムの外部には、社会システムのコミュニケーションばかりでなく、生命システムや物理的環境も含まれる。意識システムの言語的コミュニケーションの前提には情動的コミュニケーションがあり、意識的/身心的な意味接続の前提には生命システムがある。生命システムも自己変容する(変容には成長もあれば進化もある)し、そこには変容を貫いて調整する構造を調整する再帰的構造化が作動している。この再帰的構造化をつうじて「潜在的健康(生命の規準)」が維持される。この生命システムの変容(病気、老い、死)は、身心システムならびに意識システムに刺激を与えることで、人間システムそしてこれをつうじて社会システムの自己変容の引き金となる(→バイオエシックス)。

1.2.2 対面的コミュニケーションの構造

 これは、外部の刺激を受けて自己変容する人間システム同士の、とくに非対称的コミュニケーション、いわゆる我と汝の関係である。この関係をルーマンは「相互浸透」という概念によって捉えているが、相互浸透にも濃淡がある。相手側の心の複雑性を自分の側の心の複雑性に重ねるとき、そこにたしかに一体感が生じる。しかし、その場合でも理解のギャップは残り、双方が別個の自己変容システムであることには変わりない。つまり、愛をめぐる男女、親子、親友の関係であっても、瞬間的な例外を除いて完全な一致はありえず、そこから離れるほどに一致・共同性からも遠ざかる。とくに特定の機能システムの組織に帰属する人間の場合がそうである。

 この水準の倫理の典型は「教育」や「医療」である。従来のモデルでは、決定する側のコミュニケーションとその影響を被る側のコミュニケーションとの間のギャップが深刻に考慮されず、架橋や一致が安易に前提されている。双方の刺激をうまく媒介するような内部的な第三者の介入を組み入れた第三のモデルが要請される。

1.2.3 組織(的コミュニケーション)の構造

 組織とは一定の目標の実現をめざして成員が固定された社会システムである。そこでは主たる機能システムとともに、複数の機能システムが交錯している。例えば、病院組織(医療機関)は医療システムを担うが、そこでは同時に経済システムや学術システムその他のシステムが交錯する。

 組織は四つの機能をもつ。すなわち、①接続作動の慣行、②役割をもつ人格、③具体的な目標設定・手順、④一般的な方針・プログラムである。これらが接続作動を安定化させる構造である。ただし、日常的な接続作動にトラブルが生じたとき(これはつねに起る)、あるいは、外部の刺激を受けてプログラムの変更が必要になったとき(これも頻繁に起る)、構造自体の再帰的な構造化が要請される。再構造化の作動は組織の内部に組み込まれる(例えば倫理委員会)。

 構造の再帰的な構造化はセカンドオーダーの機能であり、ファーストオーダーの四つの機能にそれぞれ対応する。すなわち、①技術的実用的対応(リスク分析やコスト/ベネフィット分析)、②人格的動機づけを強化する道徳的対応、③プログラムに沿ってルールを強化する規範的対応、④プログラム自体の修正を行なう価値的対応である。最後の価値的水準の対応によって他の三つの水準の対応が方向づけられる。

1.2.4 全体社会の構造連関

 社会的コミュニケーション(人間システム同士の意味接続)を一定方向に限定するとき、特定の意味回路として「機能」が生じる。そしてこの機能が独自にシステムとして分出したのが「機能システム」である。例えば、ものをめぐる労働・技術・生産・交換のコミュニケーションが経済機能である。この機能が未分化な機能群(宗教と経済や政治との混合)から自立するとき、経済システムや産業システムが分出する。

 機能システムは特定の意味場と二項対立コードによって限定され、この区分の下で構造(プログラム、ルール、役割、日常的慣行)が作動する。特定の<意味場/コード>は、コミュニケーションの四次元(事象的次元、時間的次元、社会的次元、知的次元)に応じて、経済・産業(労働・テクノロジーを含む)・市場、教育・医療・家族、政治・行政・法、それに学術・芸術・思想に分れる。そしてそれらの機能システムの作動の効果・負荷がマス・メディアコミュニケーションに反射され、相互に影響を及ぼしてそれぞれの作動と構造を揺るがすとき、構造連関の再構造化が生じる。それが思想的コミュニケーションである。

 現代社会は、環節分化、中心/周辺、階層分化の後をうけて、(一次的に)機能分化した社会である。これらの社会編成は反復される。例えば、政治システム、国家組織(領域国家)、政府(政権党)、行政組織(中央/地方)、部署(機能分化)のように。

 もとより機能システムは特定の意味のコミュニケーションシステムであるから、組織的コミュニケーションによって担われ、最終的には、コミュニケーションの帰属先である人格の背後にいる人間システムによって担われる。したがって、人間システムが背後にあるかぎり、「人格」をめぐる道徳的コミュニケーションは現代社会でも消えることはない。

2. テクノ・サイエンスエシックス

2.1 焦点としての全体社会の<倫理>

 人間システムや対面的コミュニケーションにももちろん構造があり、その構造をめぐる再帰的作動がある。しかし、今日ことさら問題になっているのは、全体社会において連関する諸構造の変容であり、それらが相互に及ぼし合う効果・負荷の影響である。特定の機能システムの効果・負荷が、メディアコミュニケーションという鏡に映し出され、その他のすべてのシステムの構造を揺さぶり、その再帰的構造化の作動を招来する。そしてさらに対面的コミュニケーションや、人間システム(その内部の生命システム)、自然環境にも影響を及ぼす。こうして思想的コミュニケーションを発動させる。このような事態は現代の機能分化社会でしか起らない。特定の機能システムの効果・負荷のうち、今日とくに重大な影響をもたらしているのが、科学システムと技術システムが複合した科学技術システムである。たしかに政治システム(決められない政治)や経済システム(金融の暴走)の影響も大きい。しかしそれらはテクノロジーの効果・負荷の増大によって増幅されている(ツイッター、コンピュータ制御)。

2.2 テクノサイエンスのデジタル化

 技術的過程とは、ある状態を別の状態に変換する手続き連関、すなわち「こうすればこうなる」という条件的因果連関である。したがって、工学に限らないすべての変換が「技術的」といえるが、通常はとくに物質の因果連関をとりこんだ(工学的な)手続き連関を指す。つまり、テクノロジーとは工学的な「技術的過程」の組織化である。

 この意味でのテクノロジーは、今日の機能分化社会では労働とともに産業システムのサブシステムになっている。そして製品(商品)という効果・負荷の産出によって、その他の機能システムや、これを担う組織や対面的コミュニケーションに影響を及ぼし、それらの作動そして構造を揺さぶることになる。産業システムのテクノロジーは学術システムのうちの科学システムと連結し、独自の科学技術システムを形成している(テクノサイエンス)。

 テクノサイエンスに関して注目に値するのは加速度的に進行するデジタル化である。「デジタル化」とは、種々のあらゆるデータや画像が「情報」として一元化され、変換可能になることを意味する。これを実現しているのがコンピュータである。コンピュータ・通信テクノロジーを基盤にすることによって、すべてのテクノロジーが関連し合い、さらには収斂する事態が生じている。その結果、人間システムにおける意識/無意識/生命/物質の区分(区別・差異)や、人間/機械の区分が消えつつある。例えば、ゲノミクス/プロテオミクス(次世代シーケンサーによるゲノム解析)では生命現象が生体化学反応ネットワーク(タンパク質の束)とされ、ニューロイメージング(物理的刺激や薬剤)では理性・意識が操作可能な対象(ニューロンの束)とされ、ロボティクス(各種ロボット開発)では人間が複雑な機械と同一視され、あるいはナノテクノロジーでは自然界には存在しない物質が人工的に構成される。

2.3 テクノエシックスと「人間」の理念

 テクノサイエンス(科学技術システム)のデジタル化、そして産業システムへのその組み込みが進行するなか、その効果・負荷の影響が全体社会のすべての社会システムに及んで、それらの構造を揺さぶる事態が生じている。こうして全体社会の構造連関そのものに対して再帰的構造化が発動される。これが「テクノ・サイエンスエシックス(科学技術倫理)」である。しかし、旧来の倫理的枠組みすなわち近代倫理学は、テクノ・サイエンスエシックスのような複雑な現実(現実の複雑性)に応えることができない。特定の「人間」の理念に基づいているからである。

 近代の倫理学は道徳的コミュニケーションの反省理論であった。代表はカント(普遍的人間=個人=理性的意志の倫理学)であり、ベンサム(普遍的立法者の合理的計算=推論=理性の倫理学)である。両者は、「人間の尊厳」(ギリシャ的な目的論的位階=卓越性ならびにキリスト教の神学的位格=良心)という宗教的文脈から道徳を自立させ、普遍的な「人間」の理念に依拠させる。しかし、「人間」の理念は個々の人間システムの複雑性を特定の方向へと縮減する。人間システムとコミュニケーションの帰属先(人格)とを区分せず、一切を特定の価値区分にもとづいた理念に吸収するのである。

 ルーマンによれば、カントには理性的主体同士の同一関係しかない。それは自己変容するシステム同士の自他関係ではないから、社会的コミュニケーションが生じることはなく、そもそも社会が成り立たない。カントでは、人間システムがアプリオリに理性=普遍性=道徳性とされる。素質としての理性(道徳可能性としての子ども)、道徳的目的論としての宇宙、創造の目的としての人間のどれをとっても、「人間」の理念の視点からの区分である。ハーバーマスでも同様に、理想的なコミュニケーションの担い手として特定の人間の理念が想定されている。

 デジタル化したテクノサイエンスによって、人間(=個人)の理念は「情報」の連関(一種の意味接続)へと還元される。目的が無意図へ、必然が確率的偶然へ、因果的決定が選択的自由へと変容する現実の進行から、近代移行期の倫理学は完全に取り残されてしまった。

3. 生命倫理(バイオエシックス)と医療倫理(メディカルエシックス)

3.1生命倫理(バイオエシックス)

 生命倫理(バイオエシックス)は「テクノ・サイエンスエシックス」の一部あるいは一環である。つまり、科学技術システムのうちのライフサイエンスとバイオテクノロジーに発する効果・負荷(生命システムの「ゲノム」への還元)の影響が全体社会の構造連関に及ぶなかで、これに対応すべく発動された<倫理>である。

 生命システムと人間システムと社会システムは、相互に構造的にカップリングし、影響を及ぼし合う。これが、病気・老い・死、あるいは性という人間の根本現象の根源となり、宗教や医療や家族のような社会的コミュニケーションが発生する基盤である。さらに、生命観や死生観といった思想の温床となる。これは時代貫通的である。これに対してバイオエシックスは、科学技術システムが産出する「生命=ゲノム」関連の効果・負荷が、全体社会の構造連関に対して及ぼす影響(刺激)に関わる。これは政治や経済や医療に及ぶだけではなく、古来の生命観や死生観に対しても根本的な変容を迫っている。

 ただし、科学革命の文脈でいえば、バイオエシックスはいわゆる第二次科学革命の波及効果である。それに先行する第一次科学革命もまた、人間を物質や機械に還元したかぎり「前期バイオエシックス」として解釈することができる。とはいえ、「前期バイオエシックス」は「人間」の理念と矛盾しつつも両立させられた(デカルトやとくにカント)。19世紀のダーウィニズムでも同様である。全体社会を振動させる影響力の点ではそれはデカルトをはるかに超えるが、それでも結局のところ目的論に回収されてきた。ところが、第二次科学革命では小手先の操作は不可能である。

3.2 医療倫理(メディカルエシックス)

 機能分化した医療システムは、「病」という「意味場(メディア)」そしてこれを限定する「病気/健康」の二項対立コードによって支えられ、コードを具体化した「プログラム」としての病理学の標準的教科書(医学水準)と、これを規準にして診断する医師によって成り立つ。このような一連の意味接続の作動を通じて「病名」が突き止められ、標準的な治療法が選択される。現代の医療において診断と治療法との連関を保証するのは、臨床医の経験や病理検査に加えて頻度主義(フィッシャー)に立つ統計学である。これらに依拠することで決定論的で因果的な説明が生じる。医師側はそれを患者が理解できるように伝えることが期待され、患者側はそれを理解することが期待される。

 医療倫理(メディカルエシックス)は組織的コミュニケーションと対面的コミュニケーションから構成される。その始まりは伝統医学を担う専門家組織(団体)の倫理すなわち職業倫理であり、これは専門家主導の一方向型コミュニケーションを特徴とする。医療組織が存続するかぎり、職業倫理(組織倫理)はどの時代や社会であっても基本的に変わらない。この点は17世紀の第一次科学革命の効果として18・19世紀に誕生した近代医学の場合でも同様である。ここで初めて健常者に対する人体実験が研究倫理として浮上したが、臨床(急性疾患モデル)に関するかぎり職業倫理の基本はそのまま引き継がれた。

 事態が変容したのは20世紀の半ば以降、科学的に組織化された医療の効果が広まったときである。そのとき、人体実験に対する反省を組み込んだ研究倫理(ボランティア)を基盤にし、市民運動の後押しを受けて、慢性疾患の患者の意向を重視することとともに、ライフサイエンスとバイオテクノロジー(ゲノム操作)の効果・負荷の影響をコントロールすることが求められた。この要請に応えて登場したのが「バイオエシックス」であり、これは双方向型コミュニケーションを特徴とする。

 この「バイオエシックス」に関して留意すべき点が二つある。一つ目は、「バイオ」がつくのは、科学技術システム(テクノサイエンス)の効果・負荷の影響が医療システムに及んだからである。つまり、「ゲノム操作」がなければ「バイオ」もなく、移植技術や生殖補助技術だけでは「バイオ」にならない。この点を考慮すれば、医療システムの内側の名称は<バイオメディカルエシックス>となるはずである。「バイオエシックス」そのものはテクノ・サイエンスエシックスの一部であり、全体社会の連関構造に関わる。

 二つ目は、医療コミュニケーションに関わる。治療法を決定する専門家=医師の側のコミュニケーション(リスクマネジメント)と、その決定の引き受けを期待される患者側のコミュニケーション(不安の会話)との間には、(決定者は同時には影響を被る者にはなれないという)本質的なギャップがある。それゆえ、二つの側のコミュニケーションは交わることなく並行することになるが、<バイオメディカルエシックス>は双方向的モデルによってそれを架橋しようと企てる。この企ての背後には特定の「人間」の理念が潜在している。「個人の権利」や「人間の尊厳」はその表現型である。

3.3 リスク予防医学と医療化

 21世紀の現在、第二次科学革命の効果としてテクノサイエンスが加速度的にデジタル化するなかで、全ゲノム解析の実用化によって医学研究の焦点は、ゲノム決定主義(ゲノミクス)から、ゲノムと環境(刺激変換因子)との調節メカニズム(プロテオミクス)の解明に移行している。ただし、これは生命システムのネットワーク全体を手探りで把握しようとする試みであり、不確実性を免れない。

 こうしてリスク予防医学が登場する。ここでは病気の意味が大局的にみると決定論から確率論へと転回する。将来の発症や、統計上の集合性、ベイズ的統計学によるリスク因子解析(事前確率と頻度主義の尤度との混淆)がその指標となる。ここではもはや「現在の個人の特定の病気」という単位は成り立たない。リスク予防医学による確率論的な病気説明は、医師側と患者側のギャップ(交わることのない並行)を広げこそすれ、けっして狭めることはない。いまや<バイオメディカルエシックス>は新たな段階に突入している。

 他方、デジタル化されたテクノサイエンスが医療システムに導入されると、医療システムの変容が引き起されるだけでなく、この変容によってもたらされた効果・負荷が逆に全体社会に対して影響を及ぼすようになる。これを「医療化」という。つまり、人間システムの時間構造(ライフコース)がデジタル化した医療によって包摂・管理され、また、組織の構造(検診、昇進、健康管理)や、種々の機能システムの構造(財政破綻、制度改革、研究資金の偏り)も大きく変質することになる。医療化はマスメディアの鏡をつうじて増幅され、人間システムの側では欲望が過剰化し、エンハンスメントを含めて国民全体の「健康への欲望」を刺激つづける。これと連動する機能システムは、「商品とマネー」の過剰化(経済)、「絆とアイデンティティ」の過剰化(共同体)、「要求と権利」の過剰化(政治)、「危機と言説」の過剰化(思想)が生じる。

4. <リスク/危険>のコミュニケーション

4.1 リスク

 今日、テクノロジーの効果・影響・負荷を含めて、各システムが相互連関/相互反照し合うなかで、全体社会の倫理コミュニケーションの一般的象徴的キーワードとなっているのは、<リスク/危険>である。「リスク」という概念は時代につれて変容してきた。(a)伝統的リスク(19世紀まで、「あえてリスクをとる」という意味)、(b)産業社会-福祉国家のリスク(労働災害補償から発展、20世紀)、(c)新たなリスク(テクノロジーの進展によってもたらされた効果・影響として、例えば原発事故、環境汚染、食品汚染、サイバーテロ、コンピューターセキュリティ、爆弾テロ、ストレス、医療化など、その他に異常気象?)。

 (b)のリスク概念は、事象の特性とされ、計算可能(均質、大量、日常的、例外的)であり、保険が資本として循環する。また、加害者/被害者が明確であって固定される。それに対して(c)のリスクは、不過視であり、いつどこで誰にでも発生する可能性があるが特定不可能であり、ひとたび発生すると巨大な影響(損害)をもたらし、保険をかけることじたいがリスキーとなる(保険事業が成り立たない)。また、加害者/被害者が明確ではなく、決定者=加害者/非影響者=被害者という区別が固定していない。

4.2 コミュニケーションとしてのリスク/危険

 通常のリスク論は、リスク/危険を事象の特性とし、計算可能/不能として区分する(広くとれば安全/リスク(不確実性)/危険)。危険は人体への影響とされる場合もある(中西準子)。これはシステムの決定者・当事者による内部観察の視点である。ここでは影響を被る者にとって危険が恐怖・不安の情動的対象になることは考慮されない。それに対してルーマンはコミュニケーションおよび観察のオ−ダーの違いを<リスク/危険>に導入する。ここではリスク/危険を決定者/被影響者の帰属先に割り振られる。誰が決定したのか、誰のせいか、運命として受容するか否か。これは観察者・当事者を観察する外部の視点である。以上を意味理解の四次元(事象的次元/時間的次元/社会的次元/知の次元)に位置づける。どちらがよりましな見方であろうか。

 決定者側のシステム(組織)のコミュニケーションと、効果・負荷を蒙る側のコミュニケーションとのあいだには、架橋できない亀裂が走っている。交わることのない並走。リスクマネジメントのコミュニケーションvs. 不安のコミュニケーション。双方のコミュニケーションを観察しつつ、刺激を与えて自己変容を促すのは、さしあたりは効果・負荷の影響を「話題」として際立たせ、そこから「世論」を提示するマスメディアコミュニケーション(鏡)である。さらに、それを受けつつその種の話題を全体性の観点から選び出し、問題(クライシス)として際立たせ、その解決法を論じる思想のコミュニケーションである。

4.3 政治の過剰と貧困

 政治システムもまた近代社会への転換において分出する。主権国家が17世紀に登場する。政治システムの分出の萌芽。そこでは国家権力の抑制、抵抗権が中心テーマになる。そこから契約や民主主義という方式が案出される。19世紀になると貧困と不平等が政治のテーマになる。扶助を国家が担うようになる。施し・恩恵としての扶助・補償。補償の始まりは炭鉱の労働災害。人口も国家の財産であり国力の指標となる。福祉行政。20世紀には福祉国家が登場するなかで、補償が扶助/恩恵から要求/主張に転じる。

 21世紀の今日、無際限の要求、欲望の過剰に対して、行政の側から自助(自己責任)論が出される。それと同時に、要求も自助もできず排除された人々(新しい貧困、包括的な排除)に対する扶助が浮上する。したがって現在、過剰な要求、自助(自己責任)、新たな扶助が混在していることになる。要求の過剰の背後には欲望の過剰がある。政治的には要求/権利の過剰、経済的には商品とマネーの過剰、それらに対抗してアイデンティティの共同性の過剰、さらに、それらを論じる思想/言説の過剰。過剰な欲望を止めようとするが、それがまた別の過剰を生み出すというパラドックス。全体として過剰でありつつ部分的には貧困(あるいは貧富への二極分解)であるというパラドックス。

 以上を背景にして今日、すべての効果・負荷による影響を政治の問題にし、政治の責任にする傾向が生じる。しかし、権利と権利の衝突、調整不能、決められない政治。政治に対する過大・苛重な負荷。政治家による有権者向けの演技、問題の解決という先送り。大衆迎合的な演出、劇場型政治。政治への不信。政治への不信が蔓延する中で、価値理念で言えば「共同性」への傾斜が目立つ。一方では、決める政治と強い国家への待望が生じる。他方では、アンチ国家の共同性への願望が対抗的に生じる。強い国家(の政治権力)は宗教をとりこむ。アイデンティティへの依拠という点ではアンチ国家も同様。地域や文化のアイデンティティ。

5. テクノ・サイエンスエシックスの総合的枠組

5.1 リスク/危険の思想的コミュニケーション

 リスクコミュニケーションに関して、「思想」は問題を立てその解決法を提示する。論点をとりだして論争する。問題と解決法、診断と処方箋の違いから思想は四タイプに分けられる。第一のタイプは操作性。専門家・決定者・機能システムの立場。技術的対応、リスクマネジメント、科学的合理性、説得のコミュニケーション(啓発・啓蒙、合理的選択の押しつけ)、それに自己責任論。リスク分析からコスト/ベネフィットのバランス論(合理的選択のゲームの理論)へ。第二のタイプは共同性。地域・民族・文化のアイデンティティ、家族的な親密性。機能分化システムへの反発が強い。反近代。第三のタイプは普遍性。再帰的に成熟した市民(第三の道)、合意をめざし情報公開と参加をもとめて熟議する市民とその生活世界、コスモポリタン的合理性としての無知のコミュニケーションへの依拠。未完の近代の完成。第四のタイプが再帰性(再帰的根拠づけ)。権力に対する生存の美学、微分的差異、差異化の運動、無、否定の運動、隠れた第三項、区分づける働きと区分。

5.2 倫理学のジレンマ

 倫理とはたんなる区分(差異・区別)の集合ではなく、倫理化すること、すなわち、社会システムの構造の再帰的構造化(再構造化)の作動であった。「思想」(思想家)は、倫理(再構造化)を社会の「全体性」において論じる。独自のリズムを持って変容する思想システム(ゼマンティーク)に依拠する思想的コミュニケーション。思想システムは、知(観察・記述・反省)の次元における再帰性の機能の極限として、学術システムと芸術システムを根拠づける。それはちょうど、事象的次元における操作性の機能の極限として、労働・産業とテクノロジーを媒介するのが経済システムであり、社会的次元における普遍性の機能の極限として、政治と行政を正当化するのが法システムであり、時間的次元における共同性の機能の極限において、教育や医療や対面関係を支えるのが家族システムであるのと同様である。

 それに対して<倫理学>は観察・記述する。学術システムに属しており、社会システムの構造の再帰的構造化一般を対象にする。四つの水準の再構造化。現代社会でとりわけ問題となるのが、全体社会の構造連関の再構造化をめぐる思想コミュニケーションである。ところが、思想は全体性を志向するから特定の根拠(区分)を排他的に選択する。全体性を否定する立場も、全体性/非全体性という同じ区分を前提にしている。全体性を志向するからこそ、再帰性の機能の究極としての根拠づけの意義と魅力がある。それゆえ、観察と主張、倫理学と思想は両立できないことになる。ジレンマ。

 旧来の倫理学はその種のジレンマに無自覚であった。例えば、和辻倫理学では<国民=共同性>という区分が盲点となっている。もちろん、自分が拠って立つ区分は自分には見えない。しかし、外部の視点に映った自分を自己の内部に組み込み、複数の自分を比較することを通じて、自分の盲点を知ることは一定の限界内でもできる。しかし、この比較を行なえば行うほど、特定の区分を根拠にする思想を選びとることが難しくなる。倫理学は、たんなる思想の社会学か、それとも観察=学問を装った思想にすぎないか、あるいは観察と思想との無自覚な混淆に止まるのか。

5.3 プラットフォーム(観察=介入)

 特定の立場の剥き出しでもなく、知的遊戯でもなく、知的不誠実でもないような方向はる。すなわち、対立する思想を座標軸のうちに配置し、この位置づけをつうじて相対化し、思想に自己の盲点を知らせる。その上で、最小限の共有条件を提示し、議論の土俵をつくることによって、倫理的(思想)コミュニケーションを進める、という方向である。例えば、原発論議に関していえば、短期/長期の時間の考慮、技術コントロールの向上、環境への負荷軽減といった条件を取り出し、これにもとづいて思想コミュニケーションの土俵(コンテクスト)を形成することである。

 そこでは合意も説得もめざされない。倫理学は思想コミュニケーションの媒介者(メディエーター)になる。それはちょうど、対面倫理において要請される内部的第三者と同じ立ち位置である。そのさい倫理学は、つねに自分の見えない区分の向こう側、すなわち自己の可能性を不断にくりこむ。なお、最後に、「私」の中で<思想>と<倫理学>をどうやって両立させればよいのか。倫理学者としての「私」は、たんなる観察・記述に止まることなく、対立して並走している思想の次元そのものに垂直的に介入する。思想の対立状況を別の対立状況へと移動させ、思想的コミュニケーションをさらに接続させる。他方、思想をいだく「私」は、倫理学の要請をうけ、自分の思想を比較の視点からたえず相対化し、自己の区分の可能性を不断にくりこみながら、一定の思想を主張する。この二つの「私」は限りなく接近するが、同時に二つの私に立つことはできない。高次の比較の視点からの雑融化もない。とすれば、決して交わらないと見限るべきであろう。

 
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