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医療現場必須の「ケアリング」倫理の可能性:人格的関係
活動の実績 | 2019.05.16

                  森下直貴

ケアリングの倫理

 ケア‘care’およびケアリング‘caring’の語源は古代チュートン共通語‘caru’に遡る。そこから中高ドイツ語‘kar’やラテン語‘curare’、‘cura’が生じた(ちなみに、ケアcaringとキュアcuringは同義である)。ケアの原義は、一方で何らかの苦悩・困窮・難儀・心労・心配事などを指すとともに、他方で何らかの物事に向けられた関心・注目・懸案・憂慮などを意味する。また、その派生として実践的な場面では、一定の責任を持った配慮・気遣いとこれに基づく世話・手入れ・手当などの行為を、さらに心情的には思いやり・優しさの気持ちを含意する。この最後の意味合いがとくにケアリングに当たる。

ケアリングの倫理の史的背景と現在


優しさ・思いやりは伝統的に、歓待や人類愛、慈愛・慈善、愛、同情などの利他志向の言葉で表されてきた。それらの道徳的態度(徳目)とその実践を主に奨励し担ってきたのはキリスト教会である。しかし、十八世紀の啓蒙主義の時代以降、宗教的権威(教会)対合理主義(市民社会)という対立構図のなかで、世俗化が進行し、科学主義が勝利を収めた結果、伝統的な利他的徳目はその輝きを失うことになった。「ケア」という言葉が登場してきたのは1920年代の医療の分野である。その内容は専門職業に相応しい技量‘art’であり、ピポクラテス以来のお馴染みのものではあるが、近代生物医学の進展に応じた適切な技量・対処・手当‘taking care of’を要求していた。そしてやがて、科学性・技術性と並んで患者に対する温かい思いやりが強調され、伝統的な言葉に替わって「ケアリング」が浮上する。このような医療‘medical care’の動きにとりわけ触発されたのが看護師たちである。ナイティンゲール以降、医師の補助となって科学主義に巻き込まれていた看護師たちは、自らのアイデンティティの拠り所をケアリングに求めた。こうして1960年代と70年代、ブーバーやメイヤロフなどの思想に導かれつつ、ケアリングを基礎にした看護倫理が模索されたが、ケアリングの倫理への関心は看護の分野に止まり、また倫理学としての理論化には至らなかった。

劇的な変化は1982年、ギリガンの『もう一つの声』In A Different Voiceの出版とともに訪れた。そのなかでギリガンは、道徳的推論のやり方には、関係性を重視する女性の視点と、自己の信念に拠って抽象的に割り切る男性の視点というジェンダー関連の違いがあり、倫理学でこれまで無視されてきた前者を「ケアの倫理」と命名し、後者の「正義の倫理」に対置した。それ以降、ケアリングの倫理は、看護・医療・ヘルスケアの分野を超えて広く倫理学にも影響を及ぼし、現在に至るまで論争を呼んでいる。このような関心の背景には、脱人格化(技術化・システム管理化)の進行や、生命倫理をめぐる多方面の論争、フェミニズム運動がある。論争では、ケアリングの倫理は女性に特有か、母性と結合していたものか、人類に共通の感情か(その場合、自然的感情か理想的な徳か)、正義との関係はどうなるのか、などが主要な論点となっている。また、看護倫理では改めて、看護ケアの本性や、アドボカシーその他の態度との関連が問われている。

ケアリングの倫理と人間観


倫理の前提には特定の人間観がある。ケアリングの倫理では人間はケアしケアされる存在とみなされる。つまり、人間の理知的側面ではなく、とりわけ悩みや苦しみを感じる感性・情念の側面(パトス)に焦点が合わされ、他者との間のパトス的な関わり合いが強調される。そしてそこから、個々人の脆弱性・弱者性や、共苦的な共同性、支え合い/助け合いが注目され、利他主義と平等主義が志向される。しかし、人間の本性にはまた利己性と暴力性も根深く潜んでおり、不和・争いから殺傷が生じることも同様に避け難い。人類社会が押し並べて、集団の一体性を聖なる存在によって確保しつつ、根本規範(正義)と基本的制度、すなわち「倫理」を案出してきた所以である。加えて、その種の自己保存・利己性の背後には、生命の自己修復・回復に向かう循環運動がある。生命体が環境のなかで害傷を受けながら不断に自ら修復するという意味では、(何らかのサポートを必要とするとはいえ)一方的に弱いだけの存在ではない。強さ・自己保存・暴力性との緊張関係においてケアリングを捉える必要があろう。

ケアリングの倫理の可能性

ケアリングの本質は特定の人格的な関わり合いにある。この種の関わり合いは、個々人が直接対面するかぎりいかなる相互行為にも自然に伴うものである。それはまた社会的関係を良好に維持するから、これまでつねに望ましい徳として称揚され、経済・政治・法などの多様な正義を補完するものと位置づけられてきた。さらに具体的な援助行動としてみれば、古来、多様な形態の相互扶助が生み出され、近代国家では社会保障制度として定着している。こう考えるならば、ケアリングの「倫理」の必要性や可能性が改めて問われるにちがいない。たしかにケアリングは特定の規範や制度を心情的に支えるが、「優しさや思いやりをもとう」では(行動に対する拘束条件としての)倫理にはならない。ケアリングが「倫理」としての強制的性格や公共性を備えるためには、その内容が具体的に展開されて、政治や経済の場合と同様、固有の正義をもつ必要がある。

そのさい、ケア・ケアリングの概念を拡大する視点を考慮すべきであろう。

その一つは、自己性・利己性の背後にある生命の自己修復運動を「自己ケア」とみなす視点である。これによって弱さと強さとが一つの出来事の両面と捉えられる。

二つ目は、個々の生命が無数の存在の働きかけによって支えられている事態を「根源的にケアされている」と感じる視点である。これによって倫理の根底にある「聖なるもの」とケアとが結びつけられる。

そして三つ目は、当事者同士の関係の内側に第三者の中立的な観点を組み込んでそこに最小限の公共場を創出する「公共的ケア」の視点である。これは医療現場でいま最も必要とされている。

 
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