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三木清は「西田哲学」を超えることができたか
活動の実績 | 2019.04.23

はじめに

 西田哲学は「制作(ポイエシス)」を軸とする「歴史的実在」の論理であり、その中心に「身体」が位置している。しかし、「デジタル化」(1)が進行する今日、バーチャルリアリティ(VR)が日常生活に浸透し、身体を基盤とするリアリティの自明性を揺さぶり始めている。いま日本の哲学に要請されるのは、デジタル合成を前提にした上で、身体とバーチャルなものとを包括する新たなリアリティの論理ではなかろうか。このためには西田哲学を超える必要がある。

 三木清は1938年ごろ、「形」の論理を構想するなかで西田哲学に限りなく接近した(全集8:6)。1940年、西田哲学を下敷きにして『哲学入門』を書いた(全集7:3)。ところが1945年、西田哲学を超えなければ将来の日本の哲学はないと考え、その「根本的な読み直し」を企てた(全集19:452-453)。問題とされたのはおそらく西田の「場所」の思想である。

 一般に「超える」とは内側から限界を突破することである。西田はその意味での内在的批評者を求めていた(旧西田全集12:265)。当時その資格があったのは、間違いなく誰よりも三木である。それでは、三木が「戦後」を生き延びたとすれば、西田哲学をどのように「超えた」のであろうか。ただし、時代はもはや昭和の戦後ではなく、すでに21世紀のデジタル社会である。したがって問いの焦点は、三木の「超え方」が今日の現実にどの程度まで届いているかに絞られる。そうでなければ、思想史的評価を別にして、三木の思想をいま「哲学」として論じる意義はない。

 鍵を握るのは三木の「形」の論理である。西田の「場所」はいわば絶対的な形である。これを超えるために三木に必要とされるのは、ポイエシスの「形」を問い直し、それをコミュニケーションにおける構成する働き、すなわち《構造化》として捉え返すことではないか。そのとき「場所」は《構造化》を不断に発生させるコミュニケーションのネットワークになり、身体とバーチャルなものは《構造化》の差異として位置づけられることだろう。本章では以上の見通しに立ち、同時期に出版された西田の『日本文化の問題』を併せ考慮しつつ、「未完成の体系」(全集7:488)とされる『哲学入門』を内在的に批評する。

1 ポイエシスを方向づける意味の解釈

 三木はいう。人間は世界の中で生活している。世界とは具体的には「環境」であり、そこには自然とともに社会も含まれる。「人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく」(全集7:18)。三木の哲学の軸も西田と同じく「制作」(全集7:64)である。「制作」とは「形成作用」である(全集7:10)。形成するとは身体を介して物を作ることである。これは芸術に限らない。そして物を作るための身体の働かせ方が「技術」である。技術によって事物における原因結果の連鎖が目的手段のつながりに変換される。

 手段のつながりを方向づけるのは「目的」である。同一の手段のつながりであっても、「目的」の違いによって異なる種類の行為になる。例えば、「手が上がる」動きを「手を挙げる」行為にする目的が、「タクシーの呼び止め」であるか、「意見の表明」、「体操」、「挨拶」であるかによって行為の意味は変わる。目的は主観的な意味のつながりの一部であるため見えない。表現されたものを手掛かりにして見えない目的を推測するのが「解釈」である。

 したがって三木も指摘するように、人間は主観的なもの(目的の意識)と客観的なもの(身体)との統一体である。この統一体を三木は「主体」と呼ぶ(全集7:13)。主体は根源的に主体に対して主体であり、私は汝と関係する。つまり主体は最初から「社会的」である(全集7:14)。主体同士のあいだでは、身体や物の表現に関わる制作技術のプロセスを介して、双方の意味解釈のプロセスがつながる。入れ子式の二重のプロセスが人間のコミュニケーションである。

 三木はさらに一歩ふみこみ、主体によって形成される環境もまた、そこに主観的なものが持ち込まれる限り「主体的」であるという。人間以外の事物も「汝」(全集7:16)とされる。しかし、それにもかかわらず三木が注目するのはあくまで制作技術である。「人間のあらゆる行為は技術的である」(全集7:23)。こうなると、主体同士のコミュニケーションが制作技術のプロセスの面から眺められることになる。あるいはむしろ、制作技術のプロセスをコミュニケーションに擬えているというべきか。それにしても三木はなぜ「技術」をあえて一面的に強調するのだろうか。この背景には彼の時代認識がある。彼にとって前近代の「ゲマインシャフト」と近代の「ゲゼルシャフト」とを弁証法的に統一するのが「協同主義」であり、この要として技術が位置づけられているからである(全集8:10-11、全集10:463、全集17:515)。

 要するに、三木の哲学には物との出会いはあるが、本質的な意味での主体(人物)同士の出会いはない。この点を明瞭に示すのが「経験」の分析である(全集7:29-30)。三木によれば、経験とは主体と環境との行為的交渉である。人は物に出会い、試行錯誤によって物を形成し、物から形成され、形成するなかで自己を形成する。そしてこの循環的な形成を通じて習慣という均衡にたどり着く。物(環境)とのあいだの持続的適応の「形」が身体である。このように三木の「経験」の分析は物との出会いに限定されている。

 とはいえ、行為の本質はそれなりに押さえられているから、これを下敷きにして主体同士のコミュニケーションを捉え返してみることは不可能ではない。そのとき適応の形として浮上するのが社会的な経験の集積としての「常識」(全集7:33)である。

2 コミュニケーションのシステムを形成する《構造化》

 人間のコミュニケーションでは、当事者双方の意味解釈のプロセスが並行し、表現をめぐる制作技術のプロセスを介して交流する。このとき当事者の心の内部のプロセスもまた意味解釈がつながるコミュニケーションであるから、一つのコミュニケーションの内部で二つの小さなコミュニケーションが同時進行していることになる。ここでは事柄の本質を取り出すため、双方ともに「相手の心(真意)が読めない」という状況から出発し、その背後に広がる既知の地平については考察外とする(2)

 早春の夜道、傍を歩く相手から「私、死んでもいいわ。」と囁かれたとする。①相手の心を解釈する手がかりは表出された言動や表情であり、これらの情報はたいてい直ちに察知される。その上で、②相手の真意があれこれ探られ、一つの解釈に絞られる。「恋の告白かな。」続いて、③この解釈は既存の知識や文脈と照合され、他の解釈と比較される。そして最終的に、④解釈が定まり、総合評価に至る。「嬉しいけど、どうしよう。」その後は相手への応答であるが、これもなかなか決まらない。「月が綺麗だね。」⑤この表明は相手によって①情報として受け止められ、②解釈…と進んでいく。

 以上に描かれたプロセスは、《…①情報認知→②真意解釈→③解釈比較→④総合評価→⑤応答遂行(①情報認知)…》である。ここで⑤応答遂行の表現は双方のあいだに位置し、直ちに①情報認知へと移行するから、コミュニケーションのプロセスとしては四段階の循環になる。

 四段階の繰り返しから認知・解釈・応答をめぐって予期や期待が生じる。そして予期や期待を通じて双方の内部に一定の解釈が形成され、さらに形成された一定の解釈を中核として情報認知から総合評価にいたる一連の<意味連関>が形成される。こうして形成された<意味連関>が双方のあいだを循環し、調整されて安定したときコミュニケーションの回路が成立する。「恋愛コミュニケーション」の誕生である。

 コミュニケーションの回路を方向づけ維持するのは<解釈を中軸とする意味連関>である。この<意味連関>はたんなる一定不変の関係、つまり<型(パターン)>ではなく、コミュニケーションを連関づける働きである。そこで働きという点を強調して<構造>ではなく、あえて《構造化》(3)と呼ぼう。この《構造化》によって維持されるコミュニケーションの回路全体が<システム>であり、これもたえず動揺し変容する。

 二人のあいだで共有される意味の《構造化》が共通了解(コモンセンス)である。これは多数の人々の無数のコミュニケーションでは「常識」になる。ただし、常識が共有されたとしても人々の観点や立場は異なる。そのため人々の解釈が一致するという保証はなく、コミュニケーションの対立状況が避け難く生じる。

3 《構造化》の外的表現としての「形」

 形の論理は三木が西田と共有する哲学の枠組みである(全集8:6)。三木によれば、「自然」、「物」、「身体」、「文化」、「社会」、「国家」など、あらゆるものはそれ自身が形成作用であると同時に、作られたものとして「形」をもつ(全集7:10、22−23、121)。しかしそうなると、あらゆるものの形をどのように区別するかという難問が生じる。西田ではこの点の考察はあまりに貧弱であった(旧西田全集第十二巻:323−330)。三木もまたその点を西田哲学の課題とみなし、基本的な形式からのカテゴリー連関の展開の必要性を指摘していた(全集10:433)。

 三木自身は一歩ふみこみ、二つの観点から「形」を定義している(全集7:116-117)。一つは、たんなる形式ではなく、内容を内から生かしているもの、もしくは内容そのものの「内面的統一」であって、しかも外的なものである。これは「形」の実体的定義であり、この前提にはアリストテレスの実体概念がある。もう一つは、「関係的なもの」、「関数的なもの」、「機能的なもの」が組織化され、表現されたものである。これは「形」の関係的定義であり、近代科学における現象間の規則的な関係を下敷きにしている。

 三木のいう「形」の概念は実体概念と関係概念とを弁証法的に統一したものである。しかし、弁証法的統一を持ち出したからといって、三木自身も反省するように(全集7:47、8:5)、「形」を分析したことにはならない。「内面的統一」、「機能的なもの」、そして両者の関連は依然として不明である。そこで前節の末尾で言及した《構造化》の観点から捉え直してみる。

 さしあたりまず、独立した複数のもの(要素)を設定する。これらが偶発的につながると一定の関係が形成される。関係が形成された時点で「要素」は関係全体の「部分」になる。関係全体における部分同士は一定の方向性をもって連動し連関する。このような方向性をもつ部分の動きを<機能>と呼ぶ(4)。機能概念を用いるならば、部分同士が機能的に連関する関係全体は<システム>として、また、部分同士の連関を機能的に方向づけ全体を維持する働きは《構造化》として捉え直される。

 要するに、三木のいう「形」とは、関係全体における部分同士を内部から機能的に連関づける《構造化》の外的な表現だったことになる。ただし、形には、《構造化》の外的表現以外に、変化のなかの不変の関係でとしての<型(パターン)>の変換的表現がある。<型>は変化のなかの同一性であり、これをそのまま表現したものが<図>である(5)。それに対して《構造化》は全体における部分同士を機能的に連関づける働きである。三木の形の論理では《構造化》が明確に把握されていない。真理や超越に関する難点もそこに由来する。

4 人間の「超越」を支える自己言及的《構造化》

 物あるいは環境を作ることによって「形」が生じる。生じた「形」は見える。見える「形」が逆に作る行為を喚起する。作ることと見えることの循環のなかで真理(真なる知識)が生じる。これが三木の唱える真理の形成説である(全集7:96、103,108)。作るなかで物の何たるかを知るから、真理の基準は行為にある。しかし、見えることは直ちに知ることではない。

 ものが見えるのは見るからである。「見る」とは、身体の眼球を通じて視線を動かし、ものの輪郭をなぞり、際立たせ、区切ることである。つまり、構成的に働くことである。見ることによって区切られた<形>が浮かび上がる。それに対して「知る」ことには、形を見ることだけでなく、形が見えなくても型を思い描くことや、記号を用いて構造を考えることも含まれる。構成する働きを一般に<構成化>と呼ぶなら、「知る」とは三重の構成化である。すなわち、形の構成化、型の構成化、それに連関の構成化つまり《構造化》である。

 三木によれば、人間の主体性は超越性に基づく。超越には客体の超越と主体の超越があり、前者は後者によって可能になる(全集7:57)。「超越」は人間的存在の根拠であるが(全集7:57)、三木はその根拠を明らかにしていない。「本能」に対して「知能」を持ち出すにとどまる(全集7:24-25)。その根拠を解明するための鍵は《構造化》である。

 「超越」の土台は「環境のなかの行動」である。行動を通じて環境に対する身体の刺激—反応のパターンが形成される。まず、⑴刺激—反応のパターンを情動によって調整するのが<本能>である。本能は、身体表現を用いる情動コミュニケーションのなかで刺激—反応のパターンを内部から《構造化》する。次に、⑵予期・想起によって情動を調整し、刺激—反応のパターンを方向づけるのが<知能>である。知能は、記憶に基づき時間の分節化を通じて本能を内部から《構造化》する。ここでのコミュニケーションには多方面の社会的関係が織り込まれている。最後に、⑶本能を《構造化》する知能をさらに内部から《構造化》するのがいわば<理能>である。理能は身体から離れた記号のコミュニケーションを通じて概念や理念を創出する。とりわけ重要なのは、ここで「意味の、意味の、意味の…」という自己言及関係が生じることである。

 人間は内部に三層あるいは三重の《構造化》をもつ。主体の超越の根拠はとりわけ記号を操作する理能の《構造化》に求められる。《構造化》を階層化するのは環境とのあいだのコミュニケーションの複雑化である。身体を離れた記号の操作による理能の《構造化》もその延長線上にある。知ることは作ることの一環であるが、作ることはコミュニケーションの一環である。人間は、情動と社会的関係を織り込んだ意味解釈のコミュニケーションという土台の上で、ものの形を見たり、型(パターン)を思い描いたり、連関を概念的に把握したりする。

 そのさい人間は、知る対象が何であれ、自分と同様に三層の《構造化》をもつ汝と見なす傾向がある。それは人間らしい特徴ではあるが、もの一般を正確に知るためには《構造化》の観点から区分する必要がある。例えば大まかではあるが、岩石のような物体は《構造化》をもたないものとして、生物は一層または二層の《構造化》をもつものとして、人間は三層の《構造化》をもつものとして、そして人工物は外部から《構造化》を付与されたものとして、区分すべきであろう。身体やバーチャルなものについても同様である。

6 全体的一と全体的一との対立の統一としての全体的一

 三木は『哲学入門』以前、西田哲学の問題点として「非連続の連続」、「永遠の今」、「円環的限定」、「空間の内面性」を挙げていた。これらは西田哲学の「場所」の思想に収斂する。慣習・伝統・国家に対して個人の独立性(つまり変革主体)を強調する三木は、場所に包まれる多元的対立は「観想的」であり、その一方的な強調は「和解の論理」になるとみなし、二元的対立による補完を提示した(全集10:431-434)。この補完は『哲学入門』のうちに常識と良識、民族国家と人類世界、役割存在と人格の対立といった形で織り込まれている(全集7:38、181,168。また、全集17:567,577−578)。

 ところが1945年、三木は西田哲学の補完に満足せず、さらにその「根本的な理解し直し」へと突き進んだ(全集19:452-453)。そこで暗示された問題点は、「物になる」西田哲学と「東洋的現実主義」と「物となって見る」大乗仏教との結びつきである。この三者に共通するのは「対立の統一」そのもの、つまり「場所」(全集7:64)である。

 西田の『日本文化の問題』と重ねながら『哲学入門』における「場所」の思想を再構成してみる(西田全集7:15-18)。「場所」あるいは「世界」とは、個物的多がそこに「おいてある」と同時に、それと対立する「全体的一」である。「個物的多」の対立関係すなわち個物と個物の働き合いを通じて「全体的一」が形成され、形成された「全体的一」から「個物多」が形成される。そしてふたたび「個物的多」の対立関係を通じて「全体的一」が変形される。「全体的一」とは個物的多の対立の統一である。スケールは異なるが「個物」もまた「全体的一」である。したがって、あらゆるものに関して《全体的一と全体的一との対立の統一としての全体的一》という論理が成り立つ。

 この論理の展開には二方向が考えられる。一つは「全体的一」を作る「個物的多」の方向である。この極限にはすべてのものの構成要素となる無数の「全体的一」がある。もう一つは「全体的一」から作られる「全体的一」の方向であり、この極限には包括的な「全体的一」が位置する。三木や西田のいう絶対的な世界、すなわち絶対的な場所または絶対的な一般者とは、後者の方向の「全体的一」である。「世界は世界においてある」(全集7:17)。一切のもの(諸々の世界)はそこ(絶対的な世界)から作られ、その表現となる。

 三木そして西田によれば、すべてのものは「全体的一」としての形をもつ。しかし、「形」を取り上げたさいに指摘したように、西田や三木では「全体的一」の具体的な分析が欠落している。そこで、もっとも複雑な「全体的一」である「社会」をとりあげ、コミュニケーションの《構造化》の観点から分析してみよう。なお、社会がもっとも複雑であるのは、それを作り上げる個々人が(理能をもって)独立した存在だからである(全集7:57)。

7 コミュニケーションネットワークとしての「場所」

 始めに多数の個人による無数のコミュニケーションを想定する。コミュニケーションを担う個人の内部は、内部コミュニケーションの四段階に対応して四次元から構成される(6)。すると、関係する個人が意味解釈をやりとりするコミュニケーションは、関係者双方の「目的志向」の違いから大きく四群に分化する。すなわち、協働工夫をめざす実用型、共感援助をめざす共同型、利害調整をめざす統合型、理念共有をめざす超越型である。なぜなら、四次元の目的がそれぞれ一致するとき、コミュニケーションは円滑に進行し、システムを形成するからである。これらのコミュニケーション群が土台となり、目的志向がさらに機能目的として分化することを通じて「社会」が形成される。「社会」には二種類の「全体的一」がある。一つは機能分化した<社会システム>であり、もう一つは人々の集団としての<コミュニティ>である。

 <社会システム>は、特定の機能目的を中軸とする《構造化》によって方向づけられ維持されたコミュニケーションのシステムである。これを大きく分けると、経済領域、社会(共同)領域、公共領域、文化領域の四領域になる。それぞれの領域はさらに四分野に細分される。例えば、実用型コミュニケーション群を土台にする経済領域には、産業システム、技術システム、経済システム、生活システムが含まれる。

 他方、<コミュニティ>は社会システムを担う人々の集団であり、こちらは二分される。一つは特定の社会システムを中心として複数の社会システムを組織したコミュニティである。この例は企業、医療機関、行政組織、学術団体である。もう一つは四領域の社会システム群を未分化なまま包括するコミュニティである。この例は家族、地域自治体、国家である。

 さて、ここからいよいよ「場所」の思想に対する批評の核心にふみこむ。社会システムはコミュニティによって担われることで実際に機能する。コミュニティは人々のコミュニケーションによって維持される。コミュニケーションを通じて共有されるのは意味の《構造化》である。人々はコミュニケーションを通じて《構造化》を共有し、これを受け継ぎ、保持し、変形する。コミュニケーションなしにコミュニティは存続できない。コミュニティが存続しなければ社会システムも機能しない。人々のコミュニケーションから切り離されるとき、「全体的一」は抽象的観念になり、《構造-化》も単なる形式にすぎなくなる。

 個物と個物の関係は、やりとりされるものが電子・分子・情念・意味の違いはあれ、すべてコミュニケーションである。無数のコミュニケーションがたえず生成しては消滅する。このネットワークの内部から、《構造化》に支えられて人間のコミュニケーションのシステムが立ち現れる。とすれば、西田が論理化した「場所」とは、包括的な全体的一の方向にある絶対的な一般者でもなければ、要素的全体的一の方向にある絶対的な個物でもなく、多種多様の《構造化》をたえず発生させるコミュニケーションのネットワークとして捉え返されることになろう。三木のいう「現実」(全集7:5)も同様である。

 結局のところ、三木は西田哲学を超えることができたのか。そして彼の<超え方>は21世紀のデジタル社会の現実にどこまで届いているのか。その答えは、三木がコミュニケーションの《構造化》という視点をどの程度まで持ちえたかにかかっているといえよう。

 *凡例 『三木清全集』からの引用は「全集巻数:頁数」、『西田幾多郎全集』(旧版)の場合は「旧西田全集 巻数:頁数」になる。

(1)森下直貴編著『生命と科学技術の倫理学——デジタル時代の身体・脳・心・社会』(丸善出版、2016.1)の序章で説明している。

(2)詳しくは次の論文・著書を見られたい。森下直貴「人はなぜ「四区分」するのか——認識・行為・コミュニケーションの構造」(『知の越境と哲学の変換』所収、牧野英二他編、法政大学出版局、93-115、2019.2)および前掲『生命と科学技術の倫理学』。

(3)三木にとって「構造」という用語はあくまで外的に見える形である。全集7:18。

(4)機能の概念について例えば次の論文がある。長坂一郎「機能のオントロジー」、『部分と全体の哲学』所収、松田毅編、春秋社、229−261、2014。

(5)出原栄一、吉田武夫、渥美浩『図の体系 図的思考とその表現』日科技連、1986。

(6)以下の内容は、前掲「人はなぜ「四区分」するのか」および前掲『生命と科学技術の倫理学』のなかで展開されている。

 
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